主の1回目の弁論④ 2025年1月08日(水曜 聖書と祈りの会)
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主の1回目の弁論④
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨブ記 38章39節~39章12節
聖書の言葉
38:39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り/若獅子の食欲を満たすことができるか。
38:40 彼らは巣穴に伏し/待ち伏せして茂みに潜んでいる。
38:41 烏の子らが神に叫び求め/食べ物がなくてさまようときに/烏に餌を備えるのは誰か。
39:1 あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。/雌鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。
39:2 これらが月満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。
39:3 これらは身をかがめて子らを産み/陣痛の実を送り出す。
39:4 その子らは強くなると、野で育ち/出て行くと、もう帰っては来ない。
39:5 誰が野ろばを自由に放ち/野生のろばの綱を解いたのか。
39:6 私が荒れ地をその家とし/塩の地をその住みかとした。
39:7 野生のろばは町の騒ぎを嘲笑い/追い立てる者の叫び声を聞かず
39:8 草地を求めて山々を巡り/青々とした草を探し回る。
39:9 野牛が喜んであなたに仕え/あなたの飼い葉桶の傍らで夜を過ごすだろうか。
39:10 あなたは野牛に縄をかけて/畝を行かせることができるか。/それがあなたに従って谷間を耕すだろうか。
39:11 その力が強いからといって/あなたはそれを頼りにし/あなたの仕事を任せることができるか。
39:12 あなたは、野牛があなたの穀物を持ち帰り/打ち場に集めてくれると信じるのか。ヨブ記 38章39節~39章12節
メッセージ
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今年も「聖書と祈りの会」では、『ヨブ記』から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第38章と第39章には、「主の1回目の弁論」が記されています。主は、ヨブと共におられる神、ヤハウェとして、ヨブの言葉に耳を傾けておられました。そのことを知らずに、ヨブはこう言っていました。第31章35節から37節です。「ああ、私の言葉を聞いてくれる者が/いればよいのだが。ここに私の署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう」。このヨブの言葉を受けて、主は嵐の中からこう言われました。第38章2節と3節です。「知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か。あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えて見よ」。主は、ご自分の創造と摂理の御業についてヨブに尋ねることにより、ヨブが主の計画、主の世界統治について、何も知らないことを悟らせようとするのです。主はこれまで、大地について、海について、天候について、夜空の星座について語ってきました。今朝の御言葉、第38章39節から第39章12節では、命のある生き物、特に野生動物について、主はヨブに尋ねられます。
第38章39節から41節までをお読みします。
あなたは雌獅子のために獲物を狩り/若獅子の食欲を満たすことができるか。彼らは巣穴に伏し/待ち伏せして茂みに潜んでいる。烏の子らが神に叫び求め/食べ物がなくなってさまようときに/烏に餌を備えるのは誰か。
ここには、神の関心と配慮が、獅子(ライオン)から烏(カラス)にまで及んでいることが記されています。雌獅子のために獲物を狩り、若獅子の食欲を満たすのはヨブではなく、神であるのです。また、烏(カラス)の子らが食べ物を叫び求めるとき、その烏(カラス)の子らに餌を備えるのはヨブではなく、神であるのです(ルカ12:24参照)。主こそ、御自分が造られたあらゆる生き物に食べ物を与えて、養ってくださるお方であるのです(詩104:27、28参照)。
第39章1節から4節までをお読みします。
あなたは野山羊が子を産む時を知っているか。牝鹿の陣痛の苦しみを見守ったことがあるか。これらが月満ちるのを数え/産むべき時を知ることができるか。これらが身をかがめて子らを産み/陣痛の実を送り出す。その子らは強くなると、野で育ち/出て行くと、もう帰っては来ない。
「野山羊」とあるように、ここでは人間の手の及ばない野生の山羊のことが言われています。家畜の山羊ではなく、野生の山羊です。野山羊には、垂直な岩を昇る能力があり、人を近づけませんでした。また、牝鹿も人間の手の及ばない野生の動物です。ですから、ヨブは牝鹿の陣痛の苦しみを見守ったことはありませんし、月満ちるのを数え、産むべき時を知ることもできません。それを知っておられるのは、造り主(ぬし)である主(しゅ)であるのです。野生の牝鹿は人間の手を借りずとも、身をかがめて子らを産みます。そして、子らは強くなると、野で育ち、出て行くと、もう帰って来ないのです。人間の赤ちゃんは、立ち上がって歩けるようになるまで1年ほどかかります。しかし、子鹿は1時間ほどで立ち上がって歩けるようになるのです。
5節から8節までをお読みします。
誰が野ろばを自由に放ち/野生のろばの綱を解いたのか。私が荒れ地をその家とし/塩の地をその住みかとした。野生のろばは町の騒ぎを嘲笑い/追い立てる者の叫び声を聞かず/草地を求めて山々を巡り/青々とした草を探し回る。
ここでは、人間とは関わりなく生きる野生のろばのことが言われています。神が造られた世界には、人間とは関わりのない野生動物の世界があるのです。この点は、『創世記』の記述とは少し異なります。『創世記』の第1章26節から28節にはこう記されています。旧約の2ページです。
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
『創世記』の記述によれば、神は、自分のかたちに人を造り、地のあらゆる生き物を治めるように命じられました(創世9:1、2も参照)。しかし、『ヨブ記』によれば、神は、野ろばを自由に放ち、荒れ地をその家とされたのです。神は人間と関わりなく生きる野生の動物を養い、その出産を見守り、その住まいを備えられるのです。神は、人間には知ることができない野生動物の世界を示すことによって、人間中心の世界観、人間のために世界は創造されたという考え方に疑問を投げかけるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の814ページです。
9節から12節までをお読みします。
野牛が喜んであなたに仕え/あなたの飼い葉桶の傍らで夜を過ごすだろうか。あなたは野牛に縄をかけて/畝を行かせることができるか。それがあなたに従って谷間を耕すだろうか。その力が強いからといって/あなたはそれを頼りにし/あなたの仕事を任せることができるか。あなたは、野牛があなたの穀物を持ち帰り/打ち場に集めてくれると信じるのか。
野牛とは、バッファローとかバイソンと呼ばれる大きな野生の牛のことです。野牛は、力が強いのですが、人間が手なずけて、農作業に用いることはできません。私たちの人生には、自分の力ではどうすることもできないことが多くあります。そのことを、主は、「あなたは野牛に縄をかけて、畝を行かせることができるか」と問うことによって、教えられるのです。私たちには、野生動物のことはもちろん、分からないことだらけです。しかし、分からないことだらけでも、私たちは平安に生きることができます。なぜなら、この世界を造り、治めておられる神は、主イエス・キリストの父なる神であり、私たちの父なる神であるからです。