主の1回目の弁論① 2024年11月27日(水曜 聖書と祈りの会)

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主の1回目の弁論①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 38章1節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

38:1 主は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か。
38:3 あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。/あなたに尋ねる、私に答えてみよ。
38:4 私が地の基を据えたとき/あなたはどこにいたのか。/それを知っているなら、告げよ。
38:5 あなたは知っているのか/誰がその広さを決め/誰がその上に測り縄を張ったのかを。
38:6 地の基は何の上に沈められたのか。/誰が隅の親石を据えたのか。
38:7 夜明けの星々がこぞって歌い/神の子らが皆、喜び叫んだときに。
38:8 海がその胎内からほとばしり出たとき/誰が海の扉を閉じたのか。
38:9 私が雲をその上着とし/密雲をその産着としたときに。
38:10 私は海のために境を定め/かんぬきと扉を設けた。
38:11 私は言った。/「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。/あなたの高ぶる波はここで止められる」と。
38:12 あなたは生まれてこの方、朝に命じ/曙にその場所を示したことがあるか。
38:13 地の果てをつかんで/そこから悪しき者どもを/振り落としたことがあるか。
38:14 地は刻印を押された粘土のように変わり/上着のように彩られる。
38:15 悪しき者どもからその光は取り去られ/振り上げた腕は折られる。ヨブ記 38章1節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、第38章1節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えられた」とあります。ここで「主」という神の名が用いられていることに注意したいと思います。「主」とは、ホレブの山でモーセに示された神の名であります。主とは「わたしはいる」という意味で、「私はあなたと共にいる」という約束を含み持つ御名前です。『ヨブ記』においては、第1章と第2章で、「主」という神の名が用いられていました。しかし、第3章から第37章までのヨブと友人たちの論争、エリフの弁論では、「主」という名前は用いられず、「神」とか「全能者」という言葉が用いられていました(ただし12:9は除く)。そのことは、ヨブにとって、神が共におられるとは思えない状況であったことを反映しています。しかし、第38章に入って、再び、「主」という神の名が用いられるのです。このことは、ヨブが自分の生まれた日を呪い、三人の友人たちと論争していたときも、神が共にいてくださったことを示しています。神はヨブと共におられる神、主として、ヨブの言葉にずっと耳を傾けておられたのです。

 以前、第32章から第37章に記されているエリフの言葉は、後の時代の人の加筆であると考えられると申しました。では、エリフの言葉は無用なものかと言えば、そうではありません。エリフの言葉は、ヨブの高慢をいさめて、主の答えを受け入れさせる備えであったのです。エリフの言葉によって、『ヨブ記』の読者である私たちも神の答えを受け入れる備えができたのです。ですから、満を持して、主は嵐の中からヨブに答えられたのです。このことは、ヨブが切望していたことでした。ヨブは、三人の友人たちとの論争においても、しばしば神に対して呼びかけていました。例えば、ヨブは第13章でこう言っていました。「私は全能者に語りかけ/神に訴えたい」(13:3)。「神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず、ただ、私の道を神の前に訴えよう。私にとって、そのことが救いだ。神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ」(13:15、16)。このように語っていたヨブに、主は現れてくださり、嵐の中から答えてくださるのです。エリフは第37章24節で、「神は心に自ら知恵があると思う者を顧みることはない」と言いました。にもかかわらず、主はヨブに現れてくださったのです。主は自由な主権によって、一方的な恵みとして、ヨブに現れて、嵐の中から答えてくださるのです。このことは、私たちにおいても言えます。私たちは、天地の造り主である、唯一の生けるまことの神を、イエス・キリストにおいて知ることができました。そのことは、神の自由な主権によることであり、一方的な恵みであるのです。

 2節と3節をお読みします。

 知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か。あなたは勇者らくし腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ。

 この主の言葉は、ヨブと法廷で争う者としての言葉として読むのが良いと思います。第31章35節から37節で、ヨブはこう言っていました。「ああ、私の言葉を聞いてくれる者が/いればよいのだが。ここに私の署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう」。このようなヨブの求めに応えて、主は嵐の中に現れてくださり、「知識もないままに言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か」と言われたのです。ヨブは、第3章で、自分の生まれた日を呪うことによって、神の創造の御業を否定しました。神は「光あれ」と言われましたが、ヨブは「その日は闇となれ」と言ったのです。そして、三人の友人たちと論争しているときも、ヨブの心の底には、主の計画、世界統治についての不信感があったのです。そのことを主は見抜かれて、「知識もないまま言葉を重ね/主の計画を暗くするこの者は誰か」と言うのです。もちろん、主は、僕ヨブであることを知っています。ですから、この主の言葉は、ヨブに自分が何者であるかを考えさせるための言葉です。「知識もないのに言葉を重ね、主の計画を暗くする自分とは何者なのか」。そのことを、主はヨブに考えさせるのです。

 主は、ヨブに、論争をする準備として、「勇者らしく腰に帯をせよ」と言います。そして、「あなたに尋ねる、私に答えてみよ」と言うのです。主は、ヨブに、「これから尋ねることに答えることができれば、あなたは私と争う資格があることを認めよう」と言われるのです。

 4節から15節までをお読みします。

 私が地の基を据えたとき/あなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。あなたは知っているのか/誰がその広さを決め/誰がその上に測り縄を張ったのかを。地の基は何の上に沈められたのか。誰が隅の親石を据えたのか。夜明けの星々がこぞって歌い/神の子らが皆、喜び叫んだときに。海がその胎内からほとばしり出たとき/誰が海の扉を閉じたのか。私が雲をその上着とし/密雲をその産着としたときに。私は海のために境を定め/かんぬきと扉を設けた。私は言った。「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。あなたの高ぶる波はここでとめられる」と。あなたは生まれてこの方、朝に命じ/曙にその場所を示したことがあるか。地の果てをつかんで/そこから悪しき者どもを/振り落としたことがあるか。地は刻印を押された粘土のように変わり/上着のように彩られる。悪しき者どもからその光は取り去られ/振り上げた腕は折られる。

 ここでは、古代オリエントの世界像に基づいた詩的な言葉で、主の創造と摂理の御業が語られています。4節から7節までは、大地のことが言われています。主は、大地の広さを決め、その基を据えた建築家にご自分をたとえられます。『エズラ記』の第3章11節に、「主の神殿の基礎が据えられたことで、すべての民は主を賛美して大きな叫び声を上げた」と記されています。それと同じように、大地の基礎が据えられたとき、神の子らである天使たちは喜び叫んだのです。

 8節から11節までは、海のことが言われています。主は、神話的な言い回しを用いて、「海がその胎内からほとばしり出た」と言います。海は、秩序のない混沌、カオスと考えられていました。しかし、その海も、主にとっては赤ん坊同然であるのです。海と大地に境があるのは、主が海に、「ここまで来てもよいが、越えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる」と言われたからであるのです。

 12節で、主はヨブに、「朝に命じ/曙にその場所を示したことがあるか」と問われます。毎朝、太陽が昇るのも主の御業であるのです。

 13節から15節までは、地震のことが言われているようです。ここで注目したいことは、「地震が悪しき者どもに対する懲らしめである」と言われていることです。ヨブは、第21章で、悪しき者の繁栄について語りました。ヨブは、「神が悪しき者に罰を与えない」と不平を漏らしていました。しかし、主は、地の果てをつかんで、そこから悪しき者どもを振り落とされるのです。主は、悪しき者どもからその光を取り去り、振り上げた腕を折られる御方であるのです。

 主は、ヨブに、「あなたは知っているか」と問われます。もちろん、ヨブは知りません。ここで、主が尋ねていることは、被造物であるヨブが知ることのできない創造主の御業であるからです。そして、このことは、私たちも同じです。私たちが生まれる前から大地と海はあり、大地と海に境が定められていました。また、私たちが生まれる前から毎日、朝は訪れ、地震によって悪しき者は神から懲らしめを受けて来たのです。現代に生きる私たちは、自然科学を学ぶことによって、その仕組みを知ることはできても、なぜ、そうなっているかを知らないのです。ですから、私たちは、創造主である神の御業にただただ驚きたいと思います。

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