エリフの4回目の弁論③ 2024年11月20日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリフの4回目の弁論③
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 37章1節~24節
聖書の言葉
37:1 それゆえに、私の心は震え/その場所から飛びのく。
37:2 神がうなる声をよく聞け/その口から出るとどろきを。
37:3 神は天の下にそれを放ち/その稲妻は地の果てに及ぶ。
37:4 その後に声が響く。/神は厳かな声をとどろかせ/その声が聞こえるとき、容赦することはない。
37:5 神は驚くべき御声をとどろかせ/私たちが知りえない偉大な業を行う。
37:6 神は雪に向かって、「地に降れ」と命じ/また雨に向かって命じ、強い雨とする。
37:7 神がすべての人の手を封じるので/人々は皆その御業を知る。
37:8 獣は巣穴に入り/その住みかに伏す。
37:9 突風は天の部屋から現れ/寒さは北風がもたらす。
37:10 神の息によって氷が生じ/水の広がりは凍る。
37:11 神は濃い雲に水気を含ませ/雲は稲妻を放つ。
37:12 それは神の導きによってあらゆる方角を巡り/命じられることをみな、全地の面で行う。
37:13 懲らしめのためであれ、ご自分の地のためであれ/慈しみのためであれ、神がこれを起こされる。
37:14 ヨブよ、耳を傾けてほしい。/立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。
37:15 あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。
37:16 あなたは知っているか/雨雲の広がりと/完全な知識を持つ方の驚くべき業を。
37:17 また、南風が吹いて地が静まるとき/あなたの衣服がいかに熱くなるかを。
37:18 あなたは、鋳造した鏡のような堅い大空を/神と共に張ることができるか。
37:19 神に何を言うべきかを私たちに教えよ。/私たちは暗闇のゆえに言葉を並べることが/できない。
37:20 私が語りたいことを/どうして神に伝えられようか。/人が何を言っても、彼は呑み込まれる。
37:21 今、人々に光は見えないが/光は大空に輝いている。/風が吹き渡り、大空を掃き清める。
37:22 北から黄金の輝きが現れ/恐るべき威厳が神を包む。
37:23 全能者を見いだすことは私たちにはできない。/この方は力と公正に優れ/正義に満ち、苦しめることをしない。
37:24 それゆえに、人々は神を畏れる。/神は心に自ら知恵があると思う者を/顧みることはない。
ヨブ記 37章1節~24節
メッセージ
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第32章から第37章までには、バラクエルの子エリフの言葉が記されています。今朝は、第37章1節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から13節までをお読みします。
それゆえに、私の心は震え/その場所から飛びのく。神がうなる声をよく聞け。その口から出るとどろきを。神は天の下にそれを放ち/その稲妻は地の果に及ぶ。その後に声が響く。神は厳かな声をとどろかせ/その声が聞こえるとき、容赦することはない。神は驚くべき御声をとどろかせ/私たちが知り得ない偉大な業を行う。神は雪に向かって、「地に降れ」と命じ/また雨に向かって命じ、強い雨とする。神がすべての人の手を封じるので/人々は皆その御業を知る。獣は巣穴に入り/その住みかに伏す。突風は天の部屋から現れ/寒さは北風がもたらす。神の息によって氷が生じ/水の広がりは凍る。神は濃い雲に水気を含ませ/雲は稲妻を放つ。それは神の導きによってあらゆる方角を巡り/命じられることをみな、全地の面で行う。懲らしめのためであれ、ご自分の地のためであれ/慈しみのためであれ、神がこれを起こされる。
1節に、「それゆえに、私の心は震え/その場所から飛びのく」とあります。「それゆえに」とは、直前の第36章33節を受けています。「雷鳴は神について告げ知らせ/神は不法に対して怒りを燃やす」。古代オリエントにおいて、雷鳴は神の声と考えられていました。雷鳴を聞いた人々は、神が不法に対して怒りを燃やしていると考えたのです。それゆえ、エリフは、「私の心は震え/その場所から飛びのく」と言うのです。私たちも、空を黒雲が覆い、雷が光、雷が落ちる音を聞くと、心は震え、その場所から飛びのくと思います。2節から4節には、雷鳴が神のうなる声として記されています。また、稲妻が天から放たれる矢として記されています。ここでもエリフは、雷の光と音を、神の不法に対する怒りの現れとして理解しているのです。恐ろしい雷の光と音は、神が不法に対して怒りを燃やす正しい御方であることを示しているのです。
5節に、「神は驚くべき御声をとどろかせ/私たちが知りえない偉大な業を行う」とあります。この「偉大な業」とは、雪を降らせ、強い雨を降らせる神の業のことです。私たちは、自然科学を学ぶことによって、雪が降る仕組みや雨が降る仕組みを知ることができます。インターネットで、「雪はどのようにして降るのか」「雨はどのようにして降るのか」と検索してみると、そのことが記されています。しかし、聖書は、古代の人々の世界像で、また、神がすべてのものを造られたという世界観で記されています。つまり、「神は雪に向かって、『地に降れ』と命じ/また雨に向かって命じ、強い雨とする」のです。力ある御言葉によって、この世界をお造りになった神は、力ある御言葉によって、この世界を統べ治めておられるのです。強い雨が降ると、人は外に出て働くことができず、家で過ごします。そして、人々は神の御業を思い巡らすのです。そのようにして、人々は皆、神の御業を知るのです。
当時の人々は、天にはいくつもの部屋(倉)があり、その一つの部屋から突風が表れると考えていました。この突風(北風)によって寒さをもたらすのも神であります。神はその息によって氷を生じさせ、水の広がりを凍らせるのです。6節に「雪」と「強い雨」とあり、10節に「氷」とありますから、ここでは冬のことが言われているようです(パレスチナでは冬は雨季に当たる)。冬に見られる雪や強い雨、寒さをもたらす北風や氷、濃い雲や稲妻はすべて、神が命じられたことであるのです。13節にあるように、「懲らしめのためであれ、ご自分の地のためであれ/慈しみのためであれ、神がこれを起こされる」のです。神は雷鳴によって人間を懲らしめ、さまざまな天候によって地を保ち、雨を降らせることによって作物を与え人間と獣を慈しんでくださるのです。
14節から24節までをお読みします。
ヨブよ、耳を傾けてほしい。立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい。あなたは知っているか/神がどのようにそれらについて定め/雲から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか/雨雲の広がりと/完全な知識を持つ方の驚くべき業を。また、南風が吹いて地が静まるとき/あなたの衣服がいかに熱くなるかを。あなたは鋳造した鏡のような堅い大空を/神と共に張ることができるか。神に何を言うべきか私たちに教えよ。私たちは暗闇のゆえに言葉を並べることができない。私が語りたいことを/どうして神に伝えられようか。人が何を言っても、彼は呑み込まれる。今、人々には光は見えないが/光は大空に輝いている。風が吹き渡り、大空を掃き清める。北から黄金の輝きが現れ/恐るべき威厳が神を包む。全能者を見出すことは私たちにはできない。この方は力と公正に優れ、正義に満ち、苦しめることをしない。それゆえに、人々は神を畏れる。神は心に自ら知恵があると思う者を顧みることはない。
ここには、エリフの最後の言葉が記されています。エリフは、「ヨブよ」と呼びかけ、「耳を傾けてほしい。立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい」と言います。かつてヨブも、神の驚くべき業について語っていました。第9章5節から10節で、ヨブはこう言っていました。旧約の772ページです。
山々を移す方を、山々は知らない。神は怒りをもってこれらを覆す。神が地をその場所で揺さぶると/その柱は揺れ動く。神が太陽に命じると、太陽は昇らない。神は星をも封じ込める。神は自ら天を広げ/大海の高波を踏み歩く。神は大熊座、オリオン座、プレアデス/そして南の星座を造られた。この方は偉大なことをなさり、究め難く/その驚くべき業は数え切れない。
このように、少し否定的ではありますが、ヨブも神の驚くべき業を語っていたのです。しかし、ヨブは、神の驚くべき業よりも、自分が被っている苦難から神の正しさについて考えるようになるのです。ヨブは、実存的に神と向き合い、神と争うことを願うようになるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の811ページです。
エリフは14節で、「ヨブよ、耳を傾けてほしい。立ち止まって、神の驚くべき業を悟ってほしい」と言います。そして、神の驚くべき業について語るのです。そのことによって、自分たち人間が、いかに無知であり、神がいかに偉大な御方であるかをヨブに悟らせようとするのです。完全な知識を持つ方は神だけであり、その御方は、鋳造した鏡のように堅い大空を張られた全能者であるのです。それに対して、人間は南風によって熱くなった衣服さえ、どうすることもできないのです。
このような神の創造と摂理の御業を語った後で、エリフは、19節でこう言います。「神に何を言うべきかを私たちに教えよ。私たちは暗闇のゆえに言葉を並べることができない」。エリフは、ヨブに、「あなたは知っているか」「あなたは神と共にできるか」と問いました。そして、ヨブに、「もし知っていると言うなら、もしできると言うなら、神に何を言うべきかを私たちに教えよ」と言うのです。これは皮肉ですね。エリフは、「私たちは暗闇のゆえに言葉を並べることができない」と言いますが、この私たちには「ヨブ」も含まれています。すべての人は神の驚くべき業について無知であるゆえに、神に対して言葉を並べることができないのです。20節を、エリフは、「私が」と一人称単数形で語っていますが、この「私」はヨブのことでもあります。神の驚くべき業を知らず、それを行うことができない人間は、神に語りたいことを伝える術を持たないのです。また、語ることができたとしても、呑み込まれてしまうのです。天地の造り主である全能の神の前に立った時、私たちは何も言えず、圧倒されてしまうのです。
21節と22節で、エリフはこう言います。「今、人々に光は見えないが、光は大空に輝いている。風が吹き渡り、大空を掃き清める。北から黄金の輝きが現れ/恐るべき威厳が神を包む」。このエリフの言葉は慰めに満ちた言葉であると思います。雲に閉ざされて光が見えないとき、それは希望を持てない苦難のときを意味します。しかし、そのような苦難のときでも、雲の向こうでは太陽は輝いている。風が吹いて雲を払いのけると、黄金の輝きが現れる。つまり、苦難のときにも神はおられ、ふさわしい時にご自分を現してくださると言うのです。雲の向こうに太陽が輝いているように、私たちが苦難の中にあっても、神は確かにおられます。しかし、その神が現れてくださるのは、神のなされることであって、私たちが自分の力で神を見出すことはできないのです。エリフは、神は「力と公正に優れ/正義に満ち、苦しめることをしない」と言います。それゆえ、人々は神を畏れるのです。そのような神に対して、エリフいわく、ヨブはこう言っていたのです。「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」(34:5、6)。このように言うヨブは、「心に自ら知恵があると思う者」であります。そして、エリフは「神は心に知恵があると思う者を顧みることはない」と言うのです。しかし、このエリフの言葉に反して、主は嵐の中からヨブに答えてくださるのです。光が見えない苦しみの中にあるヨブに、恐るべき威厳をまとった主が現れてくださるのです。