主はわが光、わが救い 2024年11月10日(日曜 夕方の礼拝)
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主はわが光、わが救い
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- 村田寿和 牧師
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詩編 27編1節~14節
聖書の言葉
27:1 ダビデの詩。/主はわが光、わが救い。/私は誰を恐れよう。/主はわが命の砦。/私は誰におののくことがあろう。
27:2 悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき/私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえって/つまずき、倒れる。
27:3 たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても/私の心は恐れない。/たとえ、戦いが私に向かって起こっても/私の信頼は揺るがない。
27:4 私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。/命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。
27:5 災いの日に、主は私を仮庵に隠し/幕屋の隠れ場にかくまい/大岩に高く引き上げてくださる。
27:6 今や、私の頭は群がる敵の上に高く上げられる。/主の幕屋で歓声をいけにえとして献げ/主に向かって歌い、ほめ歌を歌おう。
27:7 主よ、呼びかける声を聞いてください。/私を憐れみ、答えてください。
27:8 あなたに私の心は言いました/「私の顔を尋ね求めてください」と。/主よ、私は御顔を尋ね求めます。
27:9 御顔を私から隠さず/怒りによって僕を退けないでください。/あなたは私の助けとなってくださいました。/私を置き去りにせず、見捨てないでください/わが救いの神よ。
27:10 父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます。
27:11 主よ、あなたの道を示し/敵対する者のゆえに/私を平らな道に導いてください。
27:12 私を苦しめる者の思いのままに/させないでください。/偽りの証人と暴言を吐く者が/私に向かって立ち上がりました。
27:13 私は信じます/生ける者の地で主の恵みにまみえることを。
27:14 主を待ち望め。/勇ましくあれ、心を強くせよ。/主を待ち望め。
詩編 27編1節~14節
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』からお話しています。今夕は、第27編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に「ダビデの詩」とあるように、第27編はダビデの詩編です。そのことを前提にして、読み進めていきます。
1節後半から3節までをお読みします。
主はわが光、わが救い。私は誰を恐れよう。主はわが命の砦。私は誰におののくことがあろう。悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき/私を苦しめる者、私の敵のほうが、かえって/つまずき、倒れる。たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても/私の心は恐れない。たとえ、戦いが私に向かって起こっても/私の信頼は揺るがない。
ここには、主に対するダビデの信頼が言い表されています。「主」とは、その昔、ホレブの山でモーセに示された神のお名前です。主というお名前は、「わたしはいる」という意味で、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持っていました。その主の御名を呼んで、ダビデは「主はわが光、わが救い。私は誰を恐れよう。主はわが命の砦。私は誰におののくことがあろう」と言うのです。主を自分の光、自分の救いとしているダビデは、人を恐れることはありません。また、主を自分の命の隠れ家としているダビデは、人におののくことはないのです。ダビデは、「悪をなす者が私の肉を食らおうと近づくとき/私を苦しめる者、私の敵の方が、かえって、つまずき、倒れる」と言います。主をわが光、わが救い、わが命の砦としているダビデは、「たとえ、軍勢が私に対して陣を敷いても/私の心は恐れない。たとえ、戦いが私に向かって起こっても/私の信頼は揺るがない」と言うのです。私たちにとっての主とは、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストをわが光、わが救い、わが命の砦として信頼するならば、私たちは誰をも恐れることなく、また、何にもおののくことなく歩むことができるのです。このことは、イエス・キリストの使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第8章で記していることです。新約の280ページです。第8章35節から38節までをお読みします。
誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。「私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ/屠られる羊と見なされています」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
このようにパウロが確信することができたのは、パウロが主イエス・キリストをわが光、わが救い、わが命の砦としていたからです。パウロは、聖霊の働きによって、主イエス・キリストをわが光、わが救い、わが命の砦として信頼する信仰を与えられていたのです。それゆえ、パウロの確信は、聖霊による確信であったのです。同じことが、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たち、あるいは幼児洗礼を受けて信仰告白をした私たちにも言えます。私たちも聖霊によって、主イエス・キリストをわが光、わが救い、わが命の砦として信頼する信仰が与えられているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の842ページです。
4節から6節までをお読みします。
私が主に願った一つのこと/私はそれを求め続けよう。命のあるかぎり主の家に住み/主の麗しさにまみえ/主の宮で尋ね求めることを。災の日に、主は私を仮庵に隠し/幕屋の隠れ場にかくまい/大岩に高く引き上げてくださる。今や、私の頭は群がる敵の上に高く上げられる。主の幕屋で歓声をいけにえとして献げ/主に向かって歌い、ほめ歌を歌おう。
ここには、ダビデが主に願った一つのことが記されています。ダビデが主に願ったただ一つの願い、それは主との生ける交わりにあずかることです。ダビデは命のあるかぎり主の家に住み、主の麗しさにまみえることを願い、求め続けました。このダビデの願いを私たちのただ一つの願いにしたいと思います。私たちも、礼拝に集い、主イエス・キリストの麗しさにまみえることを求め続けたいと思います。また、そのために、説教者である私のために祈っていただきたいと思います。主イエス・キリストは、聖霊と御言葉において臨在されます。それゆえ、御言葉を語る説教者が大きな役割を果たすのです。また、賛美をリードしてくれる奏楽者のためにも祈りたいと思います。さらには、すべての教会員が体調と事情を整えられて礼拝に出席できるように。新しい方が礼拝に招かれるように祈りたいと思います。私たちがささげる礼拝は、教会員全員で造り上げるものであるのです。そのような礼拝の只中に、主イエス・キリストは御言葉と聖霊において共にいてくださり、人格的に私たちと出会ってくださるのです。そのとき、私たちは、主イエス・キリストの麗しさにまみえるという体験をすることができるのです。
ダビデは、「災いの日に、主は私を仮庵に隠し/幕屋の隠れ場にかくまい/大岩に高く引き上げてくださる。今や、私の頭は群がる敵の上に高く上げられる」と言います。主は、ダビデを災いから守り、安全な場所に引き上げてくださいます。さらに、主は、ダビデに勝利を賜るのです。そのような主に、ダビデは、喜びの叫びをいけにえとしてささげ、ほめ歌を歌います。私たちの主イエス・キリストも、私たちを守ってくださり、私たちに勝利を賜る御方です。主イエス・キリストは、私たちを神の命と恵みの支配に守り、私たちを悪魔と罪に勝利する者としてくださいました。それゆえ、私たちも、主イエス・キリストに、賛美のいけにえをささげているのです(ヘブライ13:15「イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」参照)。
7節から10節までをお読みします。
主よ、呼びかける声を聞いてください。私を憐れみ、答えてください。あなたに私の心は言いました。「私の顔を尋ね求めてください」と。主よ、私は御顔を尋ね求めます。御顔を私から隠さず/怒りによって僕を退けないでください。あなたは私の助けとなってくださいました。私を置き去りにせず、見捨てないでください。わが救いの神よ。父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます。
7節から、雰囲気がガラリと変わります。1節から6節までは、主に信頼する感謝の言葉が記されていました。しかし、7節から14節には、主に助けを求める嘆きの言葉が記されています。このとき、ダビデは、主との生ける交わりが失われていたようです。それゆえ、ダビデは、「主よ、呼びかける声を聞いてください。私を憐れみ、答えてください」と願うのです。主と私たちとの交わりは、人格と人格との交わりですから、そこには、言葉を交わすことが必要であるのです。私たちのささげる礼拝も、主イエス・キリストを仲保者とする父なる神と私たちとの交わりであります。父なる神は、聖書の御言葉とその解き明かしである説教によって、私たちに語りかけてくださいます。それに対して、私たちは祈りと賛美をささげているのです。礼拝が神様と私たちとの人格的な交わりであることは、8節のダビデの言葉からも分かります。礼拝が成り立つには、主がダビデの顔を尋ね求めることと、ダビデが主の御顔を尋ね求めることが求められるのです。この両方があって、出会いと交わりが起こるわけです。私たちが礼拝において、主イエス・キリストと出会い、交わりを持てると信じているのは、主イエス・キリストが、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と約束してくださったからです(マタイ18:20参照)。その主イエス・キリストの約束がありますから、私たちは、御顔を尋ねて、礼拝に出席しているのです。
ダビデは、9節で、「御顔を私から隠さず/怒りによって僕を退けないでください」と言います。ダビデは、5節で、「災いの日に、主は私を仮庵に隠し/幕屋の隠れ場にかくまい/大岩に高く引き上げてくださる」と言っていました。しかし、このとき、ダビデは、主が御顔を隠しているかのように、怒りによって自分を退けているかのように、感じられたのです。それゆえ、ダビデは、「あなたは私の助けとなってくださいました。私を置き去りにせず、見捨てないでください」と言うのです。そして、「わが救いの神よ。父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます」との信仰を言い表すのです。ダビデは、父と母の愛よりも、主の愛は強く、確かであると言うのです。私たちに当てはめて言えば、私たちに対する主イエス・キリストの愛は、父と母の愛よりも強く確かであるのです。主イエス・キリストは、十字架の上で、自ら命を捨てられたほどに、私たち一人一人を愛してくださいましたし、今も愛してくださっています(ヘブライ13:8「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」参照)。それゆえ、私たちも、父と母よりも、主イエス・キリストを愛することが求められているのです(マタイ10:37「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」参照)。
11節から14節までをお読みします。
主よ、あなたの道を示し/敵対する者のゆえに/私を平らな道に導いてください。私を苦しめる者の思いのままに/させないでください。偽りの証人と暴言を吐く者が/私に向かって立ち上がりました。私は信じます。生ける者の地で主の恵みにまみえることを。主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
ここには、敵からの救いを求めるダビデの祈りが記されています。ダビデに敵対し、ダビデを苦しめる者は、偽りの証人であり、暴言を吐く者であったようです。前回学んだ第26編は、主の正しい裁きを求める詩編でしたが、ここでダビデが求めているのも主の正しい裁き、主の正しい道であるのです。ダビデは、主が偽りの証人と暴言を吐く者から自分の命を守ってくださり、主の恵みにまみえることを信じると言います。さらには、「主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」と自分の魂に語りかけるのです。私たちの罪のために十字架に死んで、私たちを正しい者とするために復活された主イエス・キリストは、私たちの救いを完成するために、天から再び来てくださいます。主イエス・キリストは、「然り、私はすぐに来る」と約束しておられます(黙22:20)。それゆえ、私たちは、心を強くして、栄光の主イエス・キリストを待ち望みたいと願います。