エリフの2回目の弁論② 2024年10月16日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリフの2回目の弁論②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 34章16節~37節
聖書の言葉
34:16 分別があるなら、これを聞き/私が語る声に耳を傾けてほしい。
34:17 公正を憎む者が統治できようか。/あなたは正しく力ある方を悪しき者とするのか。
34:18 王に向かっては「ならず者」/高貴な人には「悪しき者」と言うのか。
34:19 神が高官をひいきすることはなく/弱い人より貴族を尊重することなどない。/彼らはすべて神の手の業だからである。
34:20 彼らは瞬く間に、しかも真夜中に死んでいく。/民はおののいて消え去り/力ある者も人の手によらずに取り去られる。
34:21 神の目は人の道に注がれ/その歩みのすべてを見ておられる。
34:22 悪事を働く者が身を隠そうとしても/そのための闇もなく、死の陰もない。
34:23 人は裁きの時に神の前に出て行くが/神は人のためにその時を定めてはいない。
34:24 神は力ある者たちを取り調べることなく滅ぼし/他の者たちを立てて彼らの代わりとする。
34:25 そのように、神は彼らの行いに目を注ぎ/夜の間に覆して彼らを砕く。
34:26 彼らの悪のゆえに/神は人々が見ている場所で彼らを打つ。
34:27 それは、彼らが神に背いて従わず/そのすべての道を悟ろうとしなかったからである。
34:28 こうして、弱い人々の叫びは神に届き/神は苦しむ人々の叫びを聞く。
34:29 神が黙するときに、誰が罪に定めるのか。/御顔を隠すときに、誰が神を見いだせようか。/それが一つの国民であろうとも/一人の人間であろうとも。
34:30 神は、神を敬わない者が世を治めることも/民を罠にかけることもないようにする。
34:31 人は神に言えるだろうか。/「私は懲らしめに耐えました。もう不正はしません。
34:32 私に見えないものを私に教えてください。/不正を働いたならば、もう二度といたしません」と。
34:33 あなたが拒んだからといって/神があなたの思いどおりに報いるだろうか。/選ぶのはあなたであって、私ではない。/あなたの知っていることを語れ。
34:34 思慮ある人も/私の言葉を聞く知恵ある人も、私に言うだろう。
34:35 「ヨブは知識もないのに語る。/その言葉は悟りある者と共にはない。
34:36 どうか、ヨブが終わりまで試されるように。/彼は悪事を行う者のように答えている。
34:37 彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている。」
ヨブ記 34章16節~37節
メッセージ
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第32章から第37章までには、バラクエルの子エリフの言葉が記されています。今朝は、第34章16節から37節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
16節から30節までをお読みします。
分別があるなら、これを聞き/私が語る声に耳を傾けてほしい。公正を憎む者が統治できようか。あなたは正しく力ある方を悪しき者とするのか。王に向かっては「ならず者」/高貴な人には「悪しき者」と言うのか。神が高官をひいきすることはなく/弱い人より貴族を尊重することなどない。彼らはすべて神の手の業だからである。彼らは瞬く間に、しかも真夜中に死んでいく。民はおののいて消え去り/力ある者も人の手によらず取り去られる。神の目は人の道に注がれ/その歩みのすべてを見ておられる。悪事を働く者が身を隠そうとしても/そのための闇もなく、死の陰もない。人は裁きの時に神の前に出て行くが/神は人のためにその時を定めてはいない。神は力ある者たちを取り調べることなく滅ぼし/他の者たちを立てて彼らの代わりとする。そのように、神は彼らの行いに目を注ぎ/夜の間に覆して彼らを砕く。彼らの悪のゆえに/神は人々が見ている場所で彼らを打つ。それは、彼らが神に背いて従わず/そのすべての道を悟ろうとしなかったからである。こうして、弱い人々の叫びは神に届き/神は苦しむ人々の叫びを聞く。神が黙するときは、誰が罪に定めるのか。御顔を隠すときに、誰が神を見いだせようか。それが一つの国民であろうとも/一人の人間であろうとも。神は、神を敬わない者が世を治めることも/民を罠にかけることもないようにする。
17節に、「公正を憎む者が統治できようか。あなたは正しく力ある方を悪しき者とするのか」とあるように、ここでエリフは、ヨブに対して語りかけています。エリフいわく、ヨブはこう言っているからです。5節。「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」。このようなヨブの主張は、エリフにとって、神を悪を行う者、不正を働く者とする冒涜でありました。なぜなら、12節にあるように、「神は決して悪を行わず/全能者は公正を曲げることはない」からです。神が公正であることを否定し、自分こそ公正であると主張するヨブは、エリフにとって、悪しき者であるのです。
神が公正であることは、神がこの世界を統治しておられることからも分かります(世界の秩序の根源には神の正義がある)。世界を統治している神は正しく力ある御方であります。その御方を、自分が被っている苦しみのゆえに、悪しき者とするのかと言うのです。エリフは、ヨブが被っている苦しみだけから神を判断するのではなくて、もっと広い視野で、神様の公正について考えるようにと言うのです。王に向かって「ならず者」と言い、高貴な人に向かって「悪しき者」という人はいません。そうであれば、王たちの王、主たちの主である神に対して、「悪しき者」と言う人はいません。しかし、ヨブは、神のことを「悪しき者」と言っているとエリフは言うのです。
19節には、神は人を依怙贔屓することはないことが語られています。貴族も弱い人も、神の手の業であるからです。世界を統治される神は、人を用いて世界を支配されます。神は指導者たちに目を注がれ、悪事を働く者を死に引き渡します。23節と24節に、こう記されています。「人は裁きの時に神の前に出て行くが/神は人のためにその時を定めていない。神は力ある者たちを取り調べることなく滅ぼし/他の者たちを立てて彼らの代わりとする」。ヨブは、神の法廷に立つことを願いました。また、自分と神との間を取り持つ仲介者を求めました。しかし、エリフは、すべてを知っておられる神には、法廷における取り調べは必要ないと言うのです。神は取り調べを必要とせずに、正しい裁きを下し、ふさわしい罰を与えられるのです。そのようにして、神は、神を敬わない者が世を治めることも、民を罠にかけることもないようにするのです。また、そのようにして、神は虐げられている弱い人々の叫びを聞いてくださるのです。
エリフは、29節で、神の沈黙についても語っています。「神が黙するときに、誰が罪に定めるのか。御顔を隠すときに、誰が神を見いだせようか。それが一つの国民であろうとも/一人の人間であろうとも」。神は絶対的な自由を持っておられます。それゆえ、神は沈黙する自由を持っておられるのです。神はご自分をあらわすだけではなく、ご自分を隠される御方でもあるのです(イザヤ45:15「イスラエルの神、救い主よ/まことに、あなたはご自分を隠される神」参照)。
31節から37節までをお読みします。
人は神に言えるだろうか。「私は懲らしめに耐えました。もう不正はしません。私に見えないものを私に教えてください。不正を働いたならば、もう二度といたしません」と。あなたが拒んだからといって/神があなたの思いどおりに報いるだろうか。選ぶのはあなたであって、私ではない。あなたの知っていることを語れ。思慮ある人も/私の言葉を聞く知恵ある人も、私に言うだろう。「ヨブは知識もないのに語る。その言葉は悟りある者と共にはない。どうか、ヨブが終わりまで試されるように。彼は悪事を行う者のように答えている。彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている。」
エリフは、31節で、ヨブが語るべきである悔い改めの言葉を語ります。エリフによれば、ヨブは、「私は懲らしめに耐えました。もう不正はしません。私に見えないものを私に教えてください。不正を働いたならば、もう二度としません」と言うべきであるのです。しかし、このようなことは、ヨブにはできないことです。なぜなら、ヨブは、自分が不正を犯したとは考えていないからです。
33節に、「あなたが拒んだからといって/神があなたの思いどおりに報いるだろうか」とあります。ここでの「拒んだ」は「退けた」とも訳すことができます(ヨブ42:6「それゆえ、私は自分を退け/塵と灰の上で悔い改めます」参照)。ヨブが自分を退けて悔い改めたとしても、それに対してどのように報いるかは神が決めることであるのです。このような問いを、エリフはヨブに突きつけて、「選ぶのはあなたであって、私ではない。あなたの知っていることを語れ」と言うのです。
結論として、エリフはヨブについて、次のように語ります。「ヨブは知識もないのに語る。その言葉は悟りある者と共にない。どうか、ヨブが終わりまで試されるように。彼は悪事を行う者のように答えている。彼は自分の罪に背きの罪を加え/我々の間で手を叩き/神に向かって言葉数を多くしている」。エリフは、「どうか、ヨブが終わりまで試されるように」と言います。この言葉は、天上において、サタンが主に言った言葉を思い起こさせます。サタンは、ヨブに苦しみを与えて、ヨブを試すことを申し出ました(1:9〜11、2:4、5参照)。そのサタンと同じようなことをエリフは言うのです(マタイ16:23参照)。