エリフの2回目の弁論① 2024年10月09日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリフの2回目の弁論①
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 34章1節~15節
聖書の言葉
34:1 エリフはまた言った。
34:2 知恵ある者よ、私の言葉を聞け。/知識ある者よ、私に耳を傾けよ。
34:3 耳は言葉を聞き分け/舌は食物の味を知る。
34:4 私たちも公正を選び取り/私たちの間で何が良いかを見極めよう。
34:5 ヨブはこう言っている。/「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。
34:6 私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒やされない」と。
34:7 ヨブのような男がいるだろうか。/彼は嘲りを水のように飲み
34:8 悪事を働く者らの仲間に入り/悪しき者たちと共に歩んでいる。
34:9 彼はこう言っている。/「神を喜ばせても、人には何の益もない」と。
34:10 それゆえ、思慮ある人は聞け。/神が悪を行うはずはなく/全能者が不正を働くはずはない。
34:11 神は人間の行いに従って報い/それぞれの歩みに応じて報いを与える。
34:12 神は決して悪を行わず/全能者は公正を曲げることはない。
34:13 誰が神に地を委ね/誰が全世界を据えたのか。
34:14 もし、神がご自分だけに心を留め/その霊と息をご自分に集められたなら
34:15 すべての肉なる者は共に滅び/人は塵に帰るだろう。ヨブ記 34章1節~15節
メッセージ
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第32章から第37章までには、バラクエルの子エリフの言葉が記されています。今朝は、第34章1節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から9節までをお読みします。
エリフはまた言った。知恵ある者よ、私の言葉を聞け。知識のある者よ、私に耳を傾けよ。耳は言葉を聞き分け/舌は食物の味を知る。私たちも公正を選び取り/私たちの間で何が良いかを見極めよう。ヨブはこう言っている。「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷はいやされない」と。ヨブのような男がいるだろうか。彼は嘲りを水のように飲み/悪事を働く者らの仲間に入り/悪しき者たちと共に歩んでいる。彼はこう言っている。「神を喜ばせても、人には何の益もない」と。
「知恵ある者よ」「知識のある者よ」とありますが、元の言葉を見ると複数形で記されています。つまり、エリフは三人の者たちに対して、「知恵ある者よ、私の言葉を聞け。知識のある者よ、私に耳を傾けよ」と呼びかけているのです。エリフは年長者である三人の者に、「私たちも公正を選び取り、私たちの間で何が良いかを見極めよう」と言うのです。そのように語った後で、エリフはヨブを悪しき者であると断言します。三人の友人たちが、ヨブの犯した罪を問題にしたのに対して、エリフは、ヨブが語った言葉を問題にします。エリフいわく、ヨブはこう言いました。「私は正しいのに/神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒されない」と。このヨブの主張のゆえに、エリフは、ヨブが「嘲りを水のように飲み/悪事を働く者らの仲間に入り/悪しき者たちと共に歩んでいる」と断言するのです。エリフが「ヨブは嘲りを水のように飲む」と言うとき、その「嘲り」は「神への嘲り」です。ヨブの「自分は正しいのに偽り者とされ、罰を受けている」という主張は神を不正な者とする、神への嘲りの言葉であるのです。それゆえ、エリフは、ヨブを、悪事を働く者たちの仲間であると断言するのです。エリフは、「ヨブが『神を喜ばせても、人には何の益もない』と言っている」と言います。「神を喜ばせても、人には何の益もない」。このような言葉は、宗教そのものを否定してしまう言葉です。『ヘブライ人への手紙』の第11章6節に、こう記されています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられることと、また神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。「神はご自分を求める者に報いてくださる」。このことを否定するとき、信仰は成り立ちません。エリフによれば、ヨブの主張は、信仰そのものを破壊してしまう危険思想であるのです。しかし、これはエリフの誤解(曲解)です。そもそも、ヨブは、「神を喜ばせても、人には何の益もない」とは言っていません。このエリフの主張の背景には、第21章のヨブの言葉があります。第21章において、ヨブは悪しき者たちの繁栄について語りました。その6節から16節までを読みます。旧約の789ページです。
私は思い出す度におびえ/私の肉は揺さぶられる。どうして、悪しき者が生き長らえ/老年に達して、なお力を増すのか。その子孫は彼らの前に/その裔は彼らの目の前に揺るぎなく立つ。彼らの家は平和で、恐れもなく/神の杖が彼らに臨むことはない。その雄牛は子を宿らせて、損じることなく/雌牛は出産で子を死なせることはない。彼らは子らを群れのように連れ出し/子どもたちは舞い踊る。彼らはタンバリンや琴に合わせて歌い/笛の音に歓喜する。彼らはその一生を幸せに過ごし/平穏に陰府に下る。彼らは神に向かって言う。「私たちから離れてくれ。あなたの道など、私たちは知ろうとは思わない。全能者とは何者なのか/我々が仕えなければならないとは。彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と。彼らの幸いは、その手の内にないというのか。悪しき者の謀は私から遠い。
確かに、ヨブは、15節で、「全能者とは何者なのか/我々が仕えなければならないとは。彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と言っています。しかし、この言葉は、「悪しき者」のセリフとして言っているのであって、ヨブの主張ではありません。16節後半に、「悪しき者の謀は私から遠い」とあるように、ヨブは、悪しき者と自分との間に一線を引いているのです。しかし、エリフにとって、ヨブは悪しき者の仲間ですので、エリフはヨブが「神を喜ばせても、人には何の益もない」と言っていると主張するのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の806ページです。
10節から15節までをお読みします。
それゆえ、思慮ある人は聞け。神が悪を行うはずはなく/全能者が不正を働くはずはない。神は人間の行いに従って報い/それぞれの歩みに応じて報いを与える。神は決して悪を行わず/全能者は公正を曲がることはない。誰が神に地を委ね/誰が世界を据えたのか。もし、神がご自分だけに心を留め/その霊と息をご自分に集められたなら/すべての肉なる者は共に滅び/人は塵に帰るだろう。
エリフは10節で、「神が悪を行うはずはなく/全能者が不正を働くはずはない」と言います。このことは、ビルダドが第8章3節で言っていたことです。ビルダドは、第8章3節でこう言っていました。「神は公正を曲げるだろうか。全能者は正義を曲げるだろうか」。ビルダドも「神は公正を曲げない。全能者は正義を曲げない」と言っていたのです。また、エリフは11節で、「神は人間の行いに従って報い/それぞれの歩みに応じて報いを与える」と言います。このことも、三人の友人たちが何度も語って来た応報思想です。「神が悪を行うはずはなく/全能者が不正を働くはずはない。神は人間の行いに従って報い/それぞれの歩みに応じて報いを与える」。それゆえ、「私は正しいのに、神は私の公正を取り去った。私は公正であるのに、偽り者とされ/私に背きの罪はないのに、矢傷は癒されない」と主張するヨブは神を嘲る者、悪しき者の仲間であるのです。
13節から15節でエリフは、神の公正を、神の創造と摂理の御業によって論証しています。『創世記』の第2章7節に、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」と記されています。その御言葉を背景にして、エリフは、「もし、神がご自分だけに心を留め/その霊と息をご自分に集められたなら/すべての肉なる者は共に滅び/人は塵に帰るだろう」と言うのです。私たちが生かされていること、そこに神の公正は示されていると言うのです。この神の公正は、すべての人が悪しき者であることを考えるならば、神の恵みに基づいていることが分かります。『創世記』の第8章で、大洪水の後、ノアは祭壇を築いて焼き尽くすいけにえを献げました。主は宥めの香りを嗅いで、心の中でこう言われました。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ/寒さと暑さ、夏と冬/昼と夜、これらがやむことはない」(創世8:21、22)。幼い時から悪い私たち人間が生かされている。そこにあるのは、神の一方的な恵みに基づく正しさであるのです。