エリフの1回目の弁論① 2024年9月25日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリフの1回目の弁論①
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 32章6節~22節
聖書の言葉
32:6 ブズの人、バラクエルの子エリフは答えた。/私は日数の少ない若者で、あなたがたは老いている。/それゆえ、私は遠慮し/あなたがたに自分の意見を述べるのを恐れていた。
32:7 私は思っていた。/日数を重ねた者が語り/年数の多い者が知恵を知らせる、と。
32:8 だが、人の中に知恵の霊はあるが/人に悟りを与えるのは全能者の息なのだ。
32:9 多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない。
32:10 それゆえ、私は言うのだ。/聞け、私もまた自分の意見を述べよう、と。
32:11 私はあなたがたの言葉を待ち/あなたがたが言葉を探す間/その英知に耳を傾けた。
32:12 私はあなたがたの意見を理解しようとした。/だが、ヨブをたしなめる者はいなかった。/あなたがたの中には/彼の言葉に答える者がいない。
32:13 「私たちは知恵を見いだした。/人ではなく、神が彼を打ち負かす」/などと言ってはならない。
32:14 彼は私に対して言葉を並べ立ててはいないが/私はあなたがたのような言い方で/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは狼狽して、もはや答えない。/彼らから言葉は消えうせた。
32:16 彼らが語らないので、私は待っているが/彼らは立ったまま、もはや答えない。
32:17 私も自分の言い分を伝えよう。/私も自分の意見を述べよう。
32:18 私には言葉が溢れている。/腹の中で霊が私を駆り立てている。
32:19 私の腹は封をしたままのぶどう酒のようだ。/新しい革袋のように/今にも張り裂けようとしている。
32:20 私は語って、憩いを得たい。/唇を開いて、答えたい。
32:21 私は誰かを偏り見ようとは思わない。/人にへつらうことはしない。
32:22 知らずにへつらうことをすれば/わが造り主は直ちに私を取り去るだろう。
ヨブ記 32章6節~22節
メッセージ
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第32章から第37章までは、ブズの人、バラクエルの子エリフの言葉が記されています。エリフは、第32章で突然現れるのですが、ヨブと三人の友人たちの議論を黙って聞いていたようです。しかし、その心は穏やかではありませんでした。エリフはヨブと三人の友人たちに対して怒りを燃やしながら、発言することを我慢していたのです。そのエリフに、発言する機会が訪れました。と言いますのも、三人の者たちは、ヨブに答えるのをやめてしまったからです。それでエリフは、心の中にたまっていた言葉を語り出すのです。今朝は、第32章6節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
6節から14節までを読みます。
ブズの人、バラクエルの子エリフは答えた。
私は日数の少ない若者で、あなたがたは老いている。それゆえ、私は遠慮し/あなたがたに自分の意見を述べるのを恐れていた。私は思っていた。日数を重ねた者が語り/年数の多い者が知恵を知らせる、と。だが、人の中に知恵の霊はあるが/人に悟りを与えるのは全能者の息なのだ。多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない。それゆえ、私は言うのだ。聞け、私もまた自分の意見を述べよう、と。私はあなたがたの言葉を待ち/あなたがたが言葉を探す間/その英知に耳を傾けた。私はあなたがたの意見を理解しようとした。だが、ヨブをたしなめる者はいなかった。あなたがたの中には/彼の言葉に答える者がいない。「私たちは知恵を見いだした。人ではなく、神が彼を打ち負かす」などと言ってはならない。彼は私に対して言葉を並べ立ててはいないが/私はあなたがたのような言い方で/彼に答えることはしない。
ここでエリフは、自分が意見を述べなかった理由を語っています。エリフは若者であるので、老人である三人の者たちに遠慮して意見を述べなかったのです。『レビ記』の第19章32節に、「白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい」とあるように、若者であるエリフは、老人である三人の者たちを重んじて、あえて自分の意見を述べることはしなかったのです。また、エリフは、年を重ねた者は知恵を知らせるはずだと期待していました。そのような期待を持って、エリフはヨブと三人の者たちの議論に耳を傾けていたのです。しかし、エリフが期待していた知恵の言葉は聞けませんでした。そこで、エリフは8節と9節で、こう言います。「だが、人の中に知恵の霊はあるが/人に悟りを与えるのは全能者の息なのだ。多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない」。8節に「知恵の霊」とありますが、「知恵の」という言葉は元の言葉にはない補足であります。エリフは、「人の中に霊はあるが/人に悟りを与えるのは全能者の息なのだ」と言うのです。『創世記』の第2章7節に、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」とあるように、すべての人の中には霊があります。しかし、悟り、知恵を与えるのは、特別な賜物としての神の霊、聖霊であるのです。『イザヤ書』の第11章に記されているように、特別な賜物としての主の霊こそ、「知恵と分別の霊」であるのです。ですから、エリフは、「多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない」と言うのです。年を重ねていることよりも、悟りを与える全能者の霊がその中にあるかが大切であるのです。同じようなことを、かつてヨブも語っていました。第12章12節と13節で、ヨブはこう言っていました。旧約の777ページです。
老いた者には知恵があり/長寿の者には英知があるというが、知恵と力は神と共にあり/思慮と英知も神のものである。
ヨブが論争している三人の友人たちの中には、白髪の者も老いた者もいて、ヨブの父よりも年上の者もいました(ヨブ15:10参照)。それで、ヨブは、「老いた者が必ずしも知恵があるのではない。知恵は神のものであって、若い自分でも知恵を語ることができる」と言ったのです。今朝の御言葉でエリフが言っていることも、同じことであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の803ページです。
エリフは、人に悟りを与えるのは全能者の息であって、年長者が必ずしも公正を悟るわけでもないという考えに基づいて、「聞け、私もまた自分の意見を述べよう」と言います。エリフはこれまで、ヨブと三人の者たちの議論に耳を傾けてきました。エリフは彼らの英知に耳を傾け、その意見を理解しようとしたのです。しかし、ヨブをたしなめることができる人はいませんでした。ヨブに罪を認めさせて、悔い改めへと導くことができる人はいなかったのです。それどころか、ヨブに対して答えることができる人はいなかったのです。三人の者たちはヨブに完全論破されたわけです。そのような友人たちに、エリフは13節でこう言います。「『私たちは知恵を見いだした。人ではなく、神が彼を打ち負かす』などと言ってはならない」。ここでエリフは、ヨブに答えない三人の者たちの心を見透かしています。三人の者たちは、なぜ黙ってしまったのか。それは、神が現れてくださり、ヨブを打ち負かしてくださることを期待したからです。しかし、エリフは、「そのようなことを言ってはならない」と言います。そして、自分がヨブを打ち負かそうと言うのです。エリフは、14節でこう言います。「彼は私に対して言葉を並べ立ててはいないが/私はあなたがたのような言い方で/彼に答えることはしない」。ここでエリフは、自分は三人の者たちとは違った言い方で、ヨブに語ろうと言います。エリフがどのような言い方でヨブに語るのか。そのことを心に留めながら、私たちはエリフの言葉を読み進めていきたいと思います。
15節から22節までを読みます。
彼らは狼狽して、もはや答えない。彼らから言葉は消えうせた。彼らが語らないので、私は待っているが/彼らは立ったまま、もはや答えない。私も自分の言い分を伝えよう。私も自分の意見を述べよう。私には言葉が溢れている。腹の中で霊が私を駆り立てている。私の腹は封をしたままのぶどう酒のようだ。新しい革袋のように/今にも張り裂けようとしている。私は語って、憩いを得たい。唇を開いて、答えたい。私は誰かを偏り見ようとは思わない。人にへつらうことはしない。知らずにへつらうことをすれば/わが造り主は直ちに私を取り去るだろう。
三人の者たちが語る言葉を持っていないのに対して、エリフの中には言葉が溢れていました。エリフの心の中には言いたいことが沢山あるのです。エリフは18節の後半で、「腹の中で霊が私を駆り立てている」と言います。この「霊」は、人に悟りを与える全能者の息(霊)のことです(ヨブ32:8参照)。エリフは、自分が神の霊によって語ることを自負しているのです。神の霊によって駆り立てられたエリフの腹の中に語りたい言葉が溢れています。その言葉は、新しい革袋を破ってしまうぶどう酒のように、熟成しているのです(マタイ9:17参照)。それゆえ、エリフは、「私は語って、憩いを得たい。唇を開いて、答えたい」と言うのです。しかし、その際、エリフはひとつのことを誓います。エリフは、「私は誰かを偏り見ようとは思わない。人にへつらうことはしない」と言うのです。このことは、使徒パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』の第1章10節で言っていることでもあります。パウロは、自分たちが告げ知らせた福音に反することを告げ知らせる者がいるならば、呪われるがよいと語った後で、こう言います。「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません」。パウロは人の歓心を買おうとして、福音を歪めて語るならば、私はキリストの僕ではないと言います。そのような意識を、神の霊に駆り立てられて語ると自負するエリフも持っているのです。人の歓心を買おうとして、福音を歪めてしまう。これは、説教者にとっても誘惑であります。説教者には、人に気に入られようと、人が喜びそうなことを語るという誘惑があるのです。エリフが問題にしているのもそのことです。エリフは、「人にへつらうことをすれば、わが造り主は直ちに私を取り去るだろう」と言います。これは、「人にへつらうことがあれば、造り主が私を取り去ってもかまわない」という誓いの言葉であります。ヨブが誓いの言葉によって「自分は潔白である」を断言したように、エリフは誓いの言葉によって「自分は人にへつらうことはしない」と断言するのです。