怒りを燃え上がらせるエリフ 2024年9月18日(水曜 聖書と祈りの会)
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怒りを燃え上がらせるエリフ
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 32章1節~5節
聖書の言葉
32:1 この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである。
32:2 そこで、エリフの怒りが燃え上がった。この人はラム族出身のブズの人、バラクエルの子である。彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである。
32:3 その三人の友人に対しても、エリフの怒りが燃え上がった。彼らはヨブを悪しき者としたにもかかわらず、答えを見いだせなかったからである。
32:4 エリフは、彼らが自分よりも日数を重ねた年長者であったために、ヨブに語ることを控えていた。
32:5 しかし、エリフは三人の者たちの口に答えがないのを見て、怒りを燃え上がらせたのである。ヨブ記 32章1節~5節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第32章1節から5節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から5節までをお読みします。
この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである。そこで、エリフの怒りが燃え上がった。この人はラム族出身のブズの人、バラクエルの子である。彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである。その三人の友人に対しても、エリフの怒りは燃え上がった。彼らはヨブを悪しき者としたにもかかわらず、答えを見いだせなかったからである。エリフは、彼らが自分よりも日数を重ねた年長者であったために、ヨブに語ることを控えていた。しかし、エリフは三人の者たちの口に答えがないのを見て、怒りを燃え上がらせた。
ここで突然、エリフという若者が登場します。このエリフの言葉は、第32章から第37章まで記されています。しかし、エリフの言葉に対して、ヨブは何も答えていません。また、神もエリフについて何も仰せになりません。第42章7節以下の「結び」において、主は、ヨブと三人の友人たちについてお語りになりますが、エリフについては何も言わないのです。そこで、第32章から第37章までのエリフの言葉は、後の世代の知恵の教師によって書き加えられたのではないかと考えられています。第31章で、ヨブは自分が正しいことを誓いの言葉によって主張しました。第31章35節から37節には、こう記されていました。「ああ、私の言葉を聞いてくれる者が/いればよいのだが。ここに私の署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう」。このように、「ヨブの言葉は完結した」のです(ヨブ31:40)。この完結したヨブの言葉を受けて、第38章以下で、主の答えが記されていると読むことができます。第32章から第37章までを飛ばして、第31章と第38章を続けて読むことができるのです。むしろ、この方が文書の流れとしてはスムーズであると思います。
第32章1節に、「この三人の者たちはヨブに答えるのをやめた。ヨブが自分を正しいと考えていたからである」と記されていますが、ヨブと三人の友人の議論は、第27章で終わっているのです。ヨブは、友人たちが語るであろう言葉を先取りして、自分の口で語ることにより、友人たちとの議論は無益であることを証明したのです。第28章には、ヨブと三人の友人の議論が終わったことの一つの区切り(幕間)として、「知恵の賛歌」が記されていました。そして、第29章から第31章までは、神に対するヨブの潔白の主張が記されていたのです。ですから、ヨブの言葉が完結した今、主からの答えを待つばかりであるのです。しかし、後の世代の知恵の教師は、主が答えられる前に、エリフを登場させ、エリフの言葉を長々と記すのです。このエリフの言葉は、第32章から第37章までを書き加えた知恵の教師の主張そのものであると言えます。「エリフは怒りに燃え上がった」とありますが、知恵の教師も、ヨブと三人の友人の議論を読みながら、怒りに燃えていたのだと思います。
私たちが手にしている『ヨブ記』には、第32章から第37章までのエリフの言葉が記されています。私たちは、エリフの言葉を含めた『ヨブ記』を霊感された神の言葉である聖書として、信仰をもって読み進めていきたいと思います。
エリフという名前の意味は「彼は神である」という意味です。エリフはラム族出身のブズの人、バラクエルの子でした。「ラム族出身」とありますが、「ラム」という名前は、ユダ族の系図に記されています。ユダはペレツをもうけ、ペレツはヘツロンをもうけ、ヘツロンはラムをもうけたのです(ルツ4:19参照)。ラムは、ダビデ王の先祖でもあるのです。また、「ブズ」とは、アブラハムの兄弟ナホルの子供の名前です。『創世記』の第22章21節に、アブラハムの兄弟ナホルの生んだ子供について次のように記されています。「長男はウツ、その弟ブズ」。「ウツ」はヨブが住んでいた地名でした。ウツという人の名前が地名となったのでしょう。その弟ブズの名前も地名となったようです。エリフは、ヨブが住んでいたウツに近い場所ブズに住んでいたのです。また父親の「バラクエル」という名前の意味は「神は祝福する」という意味です。ヨブと三人の友人たちについては、出身地と名前だけが簡単に記されていました(1:1「ウツの地にヨブという名の人がいた」、2:11「テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファル」参照)。ヨブと三人の友人たちは、異邦人(エドム人)であったのです。しかし、エリフは立派な系図を持つ、神の民イスラエルであるのです。エリフという名前は、「彼は神である」という意味ですが、彼はまさしく神に代わる預言者として語るのです。エリフの言葉は、主の言葉の前触れとして記されているのです。少なくとも、エリフの言葉を記した知恵の教師は、そのように考えているわけです。しかし、エリフの言葉をどのように評価するかは、研究者の間でも意見が分かれます。ヨブと三人の友人たちの言葉については、第42章7節以下の「結び」で、主の評価が語られますが、エリフの言葉については何も言われていないからです。私たちは、エリフの言葉を読み進めながら、自分たちで判断していかなければならないのです。
第32章からエリフが語り出すのですが、その理由はヨブに対する怒りであり、三人の友人に対する怒りでありました。2節の後半に、こう記されています。「彼の怒りがヨブに対して燃え上がったのは、ヨブが神よりも自分を正しい者としたからである」。ヨブは第31章で、誓いの言葉を用いて、「自分は正しい」と主張しました。このヨブの主張は、エリフによると、自分を神よりも正しいとする主張であり、もっと言えば、神を罪に定める主張であるのです。このことは、第40章で、主がヨブに言われていることでもあります。第40章7節と8節にこう記されています。「あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ。あなたは私の裁きを無効にし/私を悪とし、自分を正しい者とするのか」。このように、主が言われているので、エリフの怒りは正当な怒りであると言えそうです。
また、エリフは三人の友人に対しても怒りを燃え上がらせました。その理由については、3節の後半にこう記されています。「彼らはヨブを悪しき者としたにもかかわらず、答えを見いだせなかったからである」。友人たちは、ヨブを悪しき者であると決めつけました(ヨブ22:5参照)。しかし、ヨブの反論を受けて、その根拠を示すことができなかったのです。この三人の友人に対する怒りについては、どうでしょうか。第42章7節で、主はテマン人エリファズにこう言われています。「私の怒りがあなたとあなたの二人の友人に向かって燃え上がる。あなたがたは、私の僕ヨブのように確かなことを語らなかったからだ」。主も三人の友人に対して、怒りを燃え上がらせています。その点においてはエリフと同じですが、その理由が異なります。主が怒りを燃え上がらせたのは、三人の友人たちが、ヨブのように確かなことを語らなかったからです。怒りを燃え上がらせる点においては同じでも、主とエリフでは、その理由が異なるのです。
エリフは、ヨブに対して、また、三人の友人に対して、怒りを燃やしながら、これまで黙って議論を聞いていました。それは、彼らがエリフよりも日数を重ねた年長の者であったからです。若者であるエリフは、年長者である三人の者たちに遠慮して、発言を控えていたのです。しかし、三人の者たちがもはや何も答えないのを見て、エリフはとうとう語りだすのです。
今朝の奨励題を「怒りを燃え上がらせるエリフ」としました。今朝の御言葉には、「怒りが燃え上がる」という言葉が何度も記されています。この怒りは、神への愛に裏打ちされた怒りであると言えます。シナイ山から降って来たモーセは、イスラエルの民が金の子牛を拝み、戯れているのを見て、怒りを燃え上がらせました。モーセは怒りに燃えて、手にしていた板を投げつけ、山の麓で打ち砕いてしまったのです(出エジプト32:19)。そのモーセのように、エリフは怒りを燃え上がらせたのです。