主よ、私を裁いてください 2024年10月13日(日曜 夕方の礼拝)
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主よ、私を裁いてください
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- 村田寿和 牧師
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詩編 26編1節~12節
聖書の言葉
26:1 ダビデの詩。/主よ、私を裁いてください。/私は全き歩みをしてきました。/私は主に信頼し/揺らぐことはありません。
26:2 主よ、私を調べ、試してください。/私の思いと心を確かめてください。
26:3 あなたの慈しみは私の目の前にあります。/私はあなたの真実に従って歩んできました。
26:4 私は空しい者と共に座らず/欺く者と共に進まず
26:5 悪をなす者の集いを憎み/悪しき者と共に座りませんでした。
26:6 主よ、私は両手を洗って無実を示し/あなたの祭壇を回ります
26:7 感謝の声を響かせ/あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるために。
26:8 主よ、私はあなたの住む家を/あなたの栄光の宿る所を慕います。
26:9 あなたが罪人と共に私の魂を/血を流す者と共に私の命を/取り去ることがありませんように。
26:10 彼らの手には恥ずべき行い/右の手は賄賂に満ちています。
26:11 私は全き歩みを歩みます。/私を贖い、憐れんでください。
26:12 私の足は平らな所に立つ。/集会の中で、私は主をたたえよう。
詩編 26編1節~12節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』から説教しています。今夕は、第26編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「ダビデの詩」とあるように、第26編はダビデによって歌われた詩編であります。そのことを前提にして、お話ししていきます。
1節後半から3節までをお読みします。
主よ、私を裁いてください。私は全き歩みをしてきました。私は主に信頼し/揺らぐことはありません。主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください。あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました。
このとき、ダビデは、人々から罪に定められそうになっていたようです。ダビデは、犯してもいない罪に定められようとしていたのです(いわゆる冤罪、無実の罪、ぬれぎぬ)。『サムエル記上』の第24章に、ダビデがサウル王とエン・ゲディで対面するお話が記されています。そのところを開いて読みたいと思います。旧約の452ページです
文脈を確認しますと、ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活をしていました。そのダビデに、サウル王を殺す機会が訪れます。しかし、ダビデは、サウル王を殺すことをせず、上着の端を気づかれないように切り取ったのでした。ダビデはサウルを殺すことができたのに、殺さなかったのです。その後のところを読みたいと思います。9節から16節までをお読みします。
その後で、ダビデも身を起こし、洞穴を出て、サウルの背後から「王様」と声をかけた。サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をした。そしてサウルに言った。「なぜあなたは、ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などという人の噂に耳を貸されるのですか。今日、主が洞穴であなたを私の手に渡されたのを、ご自分の目で御覧になっています。あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『私は自分の主君に手をかけることはしない。彼は主が油を注がれた方なのだ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端が私の手にあります。私は上着の端を切り取りながらも、あなたを殺そうとはしませんでした。どうか分かってください。私には悪意も、背く意志もありません。それなのに、あなたは私の命を奪おうと付け狙うのです。主が私とあなたの間を裁き、私のためにあなたに報復されるでしょう。私は自分では手を下しません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。私は手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って来られたのでしょうか。あなたは誰を追跡されているのでしょうか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、私とあなたの間を裁いてくださいますように。主が御覧になって、私の訴えを弁護し、あなたの手から私を救ってくださいますように。」
このように語ったダビデが、今夕の御言葉、『詩編』第26編で、主の裁きを求め、自分の無実を主張しているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の841ページです。
ダビデは、「主よ、私を裁いてください」と言います。「主」とは、ヤハウェと発音されたであろう神様のお名前です。主、ヤハウェとは、「わたしはいる」という意味で、「わたしはあなたと共にいる」という約束を伴うお名前であります(出エジプト3:12、14参照)。ダビデは、その主の御名を呼んで、「私を裁いてください」と言うのです。ここには、「裁きは神のものである」というイスラエルの信仰があります(申命1:18参照、新共同訳では「裁判は神に属すること」)。神が本来の裁き手であって、祭司たちは、その神に仕える者として、民を裁いたのです(申命17:12「あなたの神、主に仕えるために立っている祭司、あるいは裁き人の言うことを聞かずに、傲慢に振る舞う者は、死ななければならない」参照)。主は、唯一のまことの裁き主であり、裁判官たちの裁判官であるのです(王たちの王であるように)。ダビデは、その主に、「私を裁いてください」と願うのです。それは、ダビデが人々から罪に定められて、死の危険に直面していたからです。それゆえ、ダビデは、まことの裁き主である主に、「私を裁いてください」と言うのです。そして、「私は全き歩みをしてきました。私は主に信頼し/揺らぐことはありません」と申し述べるのです。さらには、「主よ、私を調べ、試してください。私の思いと心を確かめてください」と祈るのです。私たち人間は、人の心の中を見ることはできません。顔の表情から心の中を推測することはできますが、心の中を見ることはできません。しかし、神様は心を御覧になります(サムエル上16:7「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」参照)。神様は、私たちの心と言葉と行いを裁かれる御方であるのです。その神様に、ダビデは、「私の思いと心を確かめてください」と言うのです。ダビデは、「あなたの慈しみは私の目の前にあります。私はあなたの真実に従って歩んできました」と言います。前回学んだ、第25編10節に、次のように記されていました。「主の契約と定めを守る者にとって/主の道はすべて慈しみとまこと」。ダビデは、主の契約と定めを守る者として、主の慈しみをいつも覚え、主の真実に従って歩んできたのです。『ヨハネによる福音書』は、主の慈しみとまことは、神の独り子であるイエス・キリストにおいて現れたと教えています(ヨハネ1:17「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」参照)。私たちが、主イエス・キリストをいつも仰ぎながら、イエス・キリストに従って歩む時、私たちは、主の慈しみを目の前に置き、主の真理に従って歩んでいると言えるのです。
4節から8節までをお読みします。
私は空しい者と共に座らず/欺く者と共に進まず/悪をなす者の集いを憎み/悪しき者と共に座りませんでした。主よ、私は両手を洗って無実を示し/あなたの祭壇を回ります/感謝の声を響かせ/あなたの奇しき業のすべてを語り伝えるために。主よ、私はあなたの住む家を/あなたの栄光の宿る所を慕います。
ダビデは、「私は空しい者と共に座らず/欺く者と共に進まず/悪をなす者の集いを憎み/悪しき者と共に座りませんでした」と言います。「空しい者」は、口では神を畏れると言いながら、神の掟に従わない者のことです。そのような空しい者、欺く者と、ダビデは行動を共にしなかったのです。ダビデは悪をなす者の集いを憎み、悪しき者に近づくことをしなかったのです。むしろ、ダビデは、主の住む家、主の栄光の宿る所を慕い、主を畏れる人々と共に礼拝をささげることを喜びとしたのです。6節と7節で、ダビデはこう言います。「主よ、私は両手を洗って無実を示し/あなたの祭壇を回ります/感謝の声を響かせ/あなたの奇しき業のすべて語り伝えるために」。ここには、当時の礼拝の様子が記されています。ダビデは、主の栄光が宿る所において、主に信頼し、全き歩みをしてきた者として、感謝の賛美をささげ、主の救いの御業を語り伝えるのです。同じことを、私たちもしているわけです。私たちは、主イエス・キリストの贖いによって無実な者とされて、感謝の賛美をささげ、主の救いの御業を語り伝えているのです。8節で、ダビデは、「主よ、私はあなたの住む家を/あなたの栄光の宿る所を慕います」と言います。旧約時代、イスラエルの民が、カナンの地に住む前は、神様は契約の箱の蓋である贖いの座に臨在されました(出エジプト25:22「私はそこであなたに臨み、贖いの座、すなわち証しの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る」参照)。契約の箱は、移動式の聖所であったのです。イスラエルの民がカナンの地に住むようになり、ダビデの息子ソロモンによってエルサレムに神殿が建てられた後は、神様は神殿に臨在されました。それは契約の箱が神殿に置かれていたからです。では、新約時代の今は、神様は、どこに臨在され、栄光をあらわされるのでしょうか。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第3章25節でこう記しています。「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました」。(新共同訳「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」)。パウロは、十字架で血を流されたイエスこそ、神が臨在される贖いの座であると言うのです。それゆえ、神様は、イエス・キリストの御名によって二人または三人が集まる礼拝の只中に、イエス・キリストと共にいてくださるのです(マタイ1:23、18:20、28:20参照)。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの名によってささげ礼拝を慕っているのです(新改訳2017「主よ、私は愛します。あなたの住まいのある所/あなたの栄光のとどまる所を」参照)。
9節から12節までをお読みします。
あなたが罪人と共に私の魂を/血を流す者と共に私の命を/取り去ることがありませんように。彼らの手には恥ずべき行い/右の手は賄賂に満ちています。私は全き歩みを歩みます。私を贖い、憐れんでください。私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう。
主の裁きは、悪しき者には滅びをもたらし、正しい人には救いをもたらします。それゆえ、ダビデは、「あなたが罪人と共に私の魂を/血を流す者と共に私の命を取り去ることがありませんように」と言うのです。神の民イスラエルの中にも、血を流す者(人を殺す者)、恥ずべき行いをする者(姦淫する者)、賄賂を取って正義を曲げる者がいました(申命16:19「あなたは裁きを曲げてはならない。人を偏り見てはならない。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからである」参照)。そのような罪人たちと共に、私の命を取り去らないでくださいと、ダビデは祈るのです。
ダビデは、11節で、再び、「私は全き歩みを歩みます」と言います。これは1節の繰り返しです。「心を御覧になる主は、私が全き歩みをしていることをご存知ではありませんか。ですから、どうか私を贖い、憐れんでください」とダビデは願うのです。人々から罪に定められることなく、私を死の危険から救い出してくださいと願うのです。そして、その願いは、主が必ずそのようにしてくださるという確信に変わります。12節でダビデはこう言います。「私の足は平らな所に立つ。集会の中で、私は主をたたえよう」。このようにダビデは、主の裁きによって無実と者とされ、主を礼拝するのです。
私たちも人々からあらぬ疑いをかけられることがあるかも知れません。「あなたは、口ではイエス・キリストを信じると言いながら、イエス・キリストの掟に従っていないではないか。あなたは空しい者ではないか」。そのような疑いを人からかけられる。あるいは、自分で自分にそのような疑いを抱くことがあるかも知れません。私たちは、自分のことさえ、よく分からないのです。しかし、私たちの心を御覧になる神様は、私たちを知っていてくださいます。私たちの心に聖霊が宿っておられること。私たちが主イエス・キリストに信頼して、主の掟に従って歩んでいることを主はご存知であるのです。もちろん、私たちは神の掟を完全に守ることはできません。しかし、神様は、私たちを主イエス・キリストにあって見てくださり、受け入れてくださるのです(ウェストミンスター信仰告白16:6参照)。今朝の説教でお話ししたとおり、神様は、イエス・キリストにあって私たちを神の子として、主の僕として受け入れてくださるのです。それゆえ、私たちも集会の中で、主をほめたたえているのです。