主よ、あなたの道を教えてください 2024年9月08日(日曜 夕方の礼拝)

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主よ、あなたの道を教えてください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 25編1節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

25:1 ダビデの詩。/主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る。
25:2 わが神よ、私はあなたに信頼する。/私が恥を受けることがないように。/敵が勝ち誇ることがないように。
25:3 あなたを待ち望む人も皆/恥を受けることがないように。/訳もなく裏切る者が恥を受けるように。
25:4 主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。
25:5 あなたの真実によって導き/教えてください。/あなたこそ、わが救いの神。/私は日夜、あなたを待ち望んだ。
25:6 主よ、思い起こしてください/あなたの憐れみと慈しみを。/それはとこしえからあるもの。
25:7 私の若き日の罪や背きを思い起こさず/主よ、あなたの慈しみにふさわしく/あなたの恵みのゆえに/私を思い起こしてください。
25:8 主は恵み深く、正しい。/それゆえに、罪人に道を示す。
25:9 主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。
25:10 主の契約と定めを守る者にとって/主の道はすべて慈しみとまこと。
25:11 主よ、御名のゆえに/私の過ちをお赦しください。/それはあまりにも大きいからです。
25:12 主を畏れる人とは誰か。/主はその人に選ぶべき道を示す。
25:13 その魂は恵みのうちに宿り/子孫は地を受け継ぐ。
25:14 主はご自分を畏れる者と親しくし/彼らに契約を知らせる。
25:15 私の目は絶えず主に向かっている。/主は私の足を網から引き出す。
25:16 御顔を向けて、私に恵みを与えてください。/私は独り、苦しんでいます。
25:17 心の苦悩から解き放ち/苦難から私を引き出してください。
25:18 見てください、私の苦しみと労苦を。/取り除いてください、私の罪のすべてを。
25:19 見てください、どれほど私の敵が多く/残忍なまでに私を憎んでいるかを。
25:20 私の魂を守り、助け出し/恥をさらすことがないようにしてください。/私はあなたのもとに逃れます。
25:21 完全と正しさが私を守るように。/私はあなたを待ち望む。
25:22 神よ、すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください。詩編 25編1節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』から説教しています。今夕は、第25編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節の前半に、「ダビデの詩」とありますように、第25編は、ダビデが歌った詩編であります。

 1節後半から7節までお読みします。

 主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る。わが神よ、わたしはあなたに信頼する。私が恥を受けることがないように。敵が勝ち誇ることがないように。あなたを待ち望む人も皆/恥を受けることがないように。訳もなく裏切る者が恥を受けるように。主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。あなたの真実によって導き/教えてください。あなたこそ、わが救いの神。私は日夜、あなたを待ち望んだ。主よ、思い起こしてください/あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。私の若き日の罪や背きを思い起こさず/主よ、あなたの慈しみにふさわしく/あなたの恵みのゆえに/私を思い起こしてください。

 ダビデは、「主よ、私の魂はあなたを仰ぎ見る」と言います。ここでの「主」とは、ヤハウェと発音されたであろう神のお名前です。主、ヤハウェとは「わたしはいる」という意味で、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持つお名前です(出エジプト3:12、14参照)。ダビデは、その主の御名を呼んで、「私の魂はあなたを仰ぎ見る」と言うのです。そして、主を「わが神よ」と呼び、「私はあなたに信頼する」と言うのです。このとき、ダビデは、敵との争いのただ中にあったようです。ダビデが主を仰ぎ見、主に信頼するのは、「私が恥を受けることがないように。敵が誇ることがないように」するためでした。ダビデは敵との争いという危機の中にあって、主を仰ぎ見、主に信頼するのです。3節では、「私」が「あなたを待ち望む人」に言い換えられています。また、「敵」が「訳もなく裏切る者」に言い換えられています。ダビデの敵は、かつての仲間であったようです。この敵については、19節にも記されています。「見てください、どれほど私の敵が多く/残忍なまでに私を憎んでいるかを」。ダビデは、多くの敵から憎まれており、独り苦しんでいたようです。このような状況を考えると、ダビデがこの詩編を歌ったのは、サウル王から命を狙われていたときかも知れません。ダビデは、4節と5節でこう祈ります。「主よ、私にあなたの道を知らせ/行く道を教えてください。あなたの真実によって導き教えてください」。このダビデの祈りは、御言葉と聖霊を求める祈りであると言えます。私たちが神様の御心に適う生き方を知り、実際に生きるためには、御言葉と聖霊が必要であるからです。ダビデは、多くの敵から苦しめられており、自分で自分を救うことができないようです。それゆえ、ダビデは、日夜、救いの神である主を待ち望むのです。そして、こう祈るのです。「主よ、思い起こしてください/あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの」。ダビデは、主の憐れみと慈しみに訴えて、自分を救ってくださいと願うのです。ダビデは、預言者サムエルを通して、油を注がれて、イスラエルの指導者とされていました(サムエル上16:13参照)。そのことを念頭に置きながら、主の憐れみと慈しみに訴えるのです。7節でダビデは、「私の若き日の罪や背きは思い起こさず」と言います。「若き日の罪や背き」とは、律法の軛を負う前の、13歳になる前の罪や背きのことです。子供の頃に犯した罪は、しばしば私たちを苦しめます。そのような「若い日の罪や背きを思い起こさずに、あなたの慈しみにふさわしく、あなたの恵みのゆえに、私を思い起こしてください」とダビデは言うのです。ここでの「あなたの恵み」を、私たちは、「イエス・キリスト」に置き換えて読むことができると思います。私たちは、「主よ、あなたの慈しみにふさわしく/イエス・キリストのゆえに、私を思い起こしてください」と祈ることができるのです。

 8節から14節までをお読みします。

 主は恵み深く、正しい。それゆえに、罪人に道を示す。主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。主の契約と定めを守る者にとって/主の道はすべて慈しみとまこと。主よ、御名のゆえに/私の過ちをお赦しください。それはあまりにも大きいからです。主を畏れる人とは誰か。主はその人に選ぶべき道を示す。その魂は恵みのうちに宿り/子孫は地を受け継ぐ。主はご自分を畏れる者と親しくし/彼らに契約を知らせる。

 ここで、ダビデは、主がどのような御方であるかを語ります。主は恵み深く、正しい御方であるゆえに、罪人に道を示してくださいます。主は罪人を断罪して切り捨ててしまう御方ではなく、罪人にどのように生きるべきかを示されるのです。また、主は苦しむ人を見捨てることなく、公正に導き、道を教えてくださいます。主の契約と定めを守ろうとする人は、主の道はすべて慈しみとまことであることが分かるのです。ダビデは、11節で、「主よ、御名のゆえに/私の過ちをお赦しください。それはあまりにも大きいからです」と言います。ここでもダビデは、罪の赦しの根拠を自分にではなくて、主御自身にあると言います。かつて、主は、モーセにこう宣言されました。「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み/幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方」(出エジプト34:6、7)。主は憐れみ深く、恵みに満ちた神。慈しみとまことに富み、過ちと背きと罪とを赦す方であるのです。そのあなたの御名にふさわしく、私の過ちをお赦しくださいと、ダビデは言うのです。このような神のご性質が、人となって現れたのが、神の御子イエス・キリストであります。神様は、御子イエス・キリストのゆえに、私たちの罪がどんなに大きくても、赦してくださるのです。

 12節で、ダビデは、「主を畏れる人は誰か」と問い、「主はその人に選ぶべき道を示す」と言います。ダビデは、「その人は主の道を歩む人」とは言わないのですね。主を畏れる人は、主が選ぶべき道を示された人だと言うのです。ここでダビデは、神の主権的な選びについて語っています。イエス・キリストの使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第1章で、イエス・キリストを信じる私たちは、天地創造の前から、イエス・キリストにあって選ばれた者たちであると記しています。主を畏れる、主イエス・キリストを信じることの背景には、神のイエス・キリストにある選びがあるのです。主はご自分を畏れる人の魂を恵みのうちに宿らせ、その子孫に地を受け継がせてくださいます。主はご自分を畏れる者と親しくしてくださり、契約を知らせてくださるのです。新約時代に生きる私たちは、イエス・キリストが実現してくださった新しい契約の恵みのうちに歩む者とされています。そして、イエス・キリストと共に、新しい天と新しい地を受け継ぐ者とされているのです(ローマ8:17参照)。

 15節から22節までをお読みします。

 私の目は絶えず主に向かっている。主は私の足を網から引き出す。御顔を向けて、私に恵みを与えてください。私は独り、苦しんでいます。心の苦悩から解き放ち/苦難から私を引き出してください。見てください。私の苦しみと労苦を。取り除いてください。私の罪のすべてを。見てください、どれほど私の敵が多く/残忍なまでに私を憎んでいるかを。私の魂を守り、助け出し/恥をさらすことがないようにしてください。私はあなたのもとに逃れます。完全と正しさが私を守るように。私はあなたを待ち望む。神よ、すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください。

 ダビデは、多くの敵から憎まれている危機的な状況の中で、こう言います。「御顔を向けて、私に恵みを与えてください。私は独り、苦しんでいます。心の苦悩から解き放ち/苦難から私を引き出してください。見てください。私の苦しみと労苦を。取り除いてください、私の罪のすべてを」。聖書は、人間の苦しみと労苦の原因が人間の罪にあると教えています(創世3章参照)。それゆえ、ダビデは、「苦しみから解き放ってください。罪を取り除いてください」と願うのです。

 ダビデは、主に、自分の敵がどれほど多く、残忍なまでに自分を憎んでいるかを語ったうえで、こう言います。「私の魂を守り、助け出し/恥をさらすことがないようにしてください。私はあなたのもとに逃れます。完全と正しさが私を守るように」。この「完全と正しさ」は、主の完全と正しさですね。「主の完全と正しさが、自分を憎む敵から守ってくれる」と言うのです。私たちも敵である悪しき者から、主のもとに逃れます。そして、そのとき、私たちの主イエス・キリストの完全と正しさによって守られるのです。ダビデは、「私はあなたを待ち望む」と言います。この祈りは、私たちにとって、主イエス・キリストの再臨を待ち望む祈りと言えます。「主イエスよ、来りませ」という祈りと重なる祈りであるのです。

 22節に、「神よ、すべての苦しみから/イスラエルを贖い出してください」とあります。ここでは、ダビデは、自分の救いでなく、神の民であるイスラエルの救いを祈っています。神様は、ダビデだけではなく、御自分の民イスラエルをすべての苦しみから贖ってくださる御方であるのです。この「苦しみからの贖い」「罪からの贖い」は、神の御子イエス・キリストの命によって成し遂げられました。そして、その救いは、イエス・キリストが天から再び来られる日に完成するのです。それゆえ、私たちも、日夜、主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるのです(詩25:5「あなたこそ、わが救いの神/私は日夜、あなたを待ち望んだ」参照)。「然り、私はすぐに来る」という主イエス・キリストの約束を信じて、「アーメン、主イエスよ、来りませ」と祈っているのです(黙22:20)。

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