ヨブの潔白の主張⑤ 2024年9月11日(水曜 聖書と祈りの会)
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ヨブの潔白の主張⑤
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 31章24節~40節
聖書の言葉
31:24 もし、私が金を頼みとし/純金を私のよりどころだと言うなら
31:25 もし、私が富の豊かさと/私の手が多くを得たことを喜んだならば
31:26 もし、私が光を放つ太陽と/照らして行く月を仰いで
31:27 ひそかに私の心が惑わされ/私の手がそれらに口づけを送ることが/あったならば
31:28 これもまた、裁判で罰せられることだ。/私が高みにおられる神を否んだからである。
31:29 もし、私を憎む者の不幸を私が喜び/彼が災いに遭ったときに歓喜したなら
31:30 いや、私は自分の口が罪を犯すのを許さず/呪いによってその命を求めることなどしなかった。
31:31 もし、私の天幕の人々が/「あの人の肉で誰もが満足した」と言わないなら
31:32 いや、寄留者は外で夜を過ごしたことはなく/私は旅人に戸口を開いていた。
31:33 もし、私がアダムのように背きを覆い隠し/過ちを私の胸に隠したことがあったなら
31:34 群衆の騒ぎに震え上がり、一族の蔑みにおののき/沈黙して戸口に出なかったことがあったなら。
31:35 ああ、私の言葉を聞いてくれる者が/いればよいのだが。/ここに私の署名がある。/全能者よ、私に答えてほしい。/私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。
31:36 それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。
31:37 私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう。
31:38 もし、私の畑が私に向かって叫び/その畝が共に泣いたことがあったならば
31:39 もし、私が銀を払わずにその作物を食べ/その持ち主の命を失わせることがあったならば
31:40 小麦の代わりにあざみが生じ/大麦の代わりに雑草が生えてもかまわない。ヨブの言葉は完結した。
ヨブ記 31章24節~40節
メッセージ
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第31章で、ヨブは、誓いの言葉によって、自分が潔白であることを主張しています。このヨブの主張の背景には、神がヨブに対して態度を変えられたのは、ヨブが罪を犯したからであるという考え方があります。このような考え方は、三人の友人の考え方でしたが、ヨブも同じような考え方をしているのです。それゆえ、ヨブは、友人たちに対して自分の潔白を主張したように、神に対しても自分の潔白を主張しているのです。
今朝は、24節から40節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
24節から28節までをお読みします。
もし、私が金を頼みとし/純金を私のよりどころだと言うなら/もし、私が富の豊かさと/私の手が多くを得たことを喜んだなら/もし、私が光を放つ太陽と照らして行く月を仰いで/ひそかに私の心が惑わされ/私の手がそれらに口づけを送ることがあったならば/これもまた、裁判で罰せられることだ。私が高みにおられる神を否んだからである。
ここでヨブは、「私は金を頼みとし、純金をよりどころとしたことはない」と言います。主イエスは、山上の説教で、弟子たちにこう言われました。「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。このように人間は富に仕える者、富に依り頼む者となりやすいのです。『コヘレトの言葉』の第10章19節に、「銀はすべてに応えてくれる」とあるように、金さえあれば安心だと考えやすいのです。しかし、神様よりも金に依り頼むのであれば、私たちは富を神とする偶像崇拝の罪を犯しているのです。ヨブは、「私は金に依り頼み、富の豊かさを喜ぶ偶像崇拝の罪を犯してはいない」と言うのです。
また、ヨブは、「私は太陽と月を仰いで、心を惑わされ、口づけを送ったことはない」と言います。古代のオリエント世界において、太陽と月は礼拝の対象とされていました。「口づけを送る」ことは、礼拝行為の一つであると考えられています。『申命記』の第4章に、「偶像崇拝に対する警告」が記されています。そこにはこう記されています。「目を天に向け、太陽や月、星などの天の万象を見て、それらに惑わされ、ひれ伏し、仕えないようにしなさい。それは、あなたの神、主が、天の下のすべての民に分け与えられたものである」(申命4:19)。太陽や月は、神様が造られた被造物であるのです。よって、被造物を創造主である神のように拝んではならないのです。
富に依り頼むこと、太陽や月を礼拝すること、それらは高みにおらえる神を否定する罪であるのです。
29節と30節をお読みします。
もし、私を憎む者の不幸を私が喜び/彼が災いに遭ったときに歓喜したなら/いや、私は自分の口が罪を犯すのを許さず/呪いによってその命を求めることなどしなかった。
ヨブは、「私は、自分を憎む者の不幸を喜んだことはない」と言います。このことは、『箴言』において戒められていることでもあります。『箴言』の第24章17節に、こう記されています。「敵が倒れても喜ぶな。敵がよろめいても心を躍らせるな」。ヨブは、この戒めを、完全に守っていたのです。ヨブは、自分を憎む者の不幸を喜ぶことはしませんでした。また、自分を憎む者を呪って、その命を求めることはしませんでした。このヨブの振る舞いは、大変立派なものです。しかし、主イエスは、さらに上を行きます。主イエスは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」と言われるのです(ルカ6:27、28)。そして、実際、主イエスは、自分を十字架につける者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られたのです(ルカ23:34)。
31節から34節までをお読みします。
もし、私の天幕の人々が「あの人の肉で誰もが満足した」と言わないなら/いや、寄留者は外で夜を過ごしたことはなく/わたしは旅人に戸口を開いていた。もし、私がアダムのように背きを覆い隠し/過ちを私の胸に隠したことがあったなら/群衆の騒ぎに震え上がり、一族の蔑みにおののき/沈黙して戸口に出なかったことがあったなら。
古代オリエントの世界において、旅人を自分の天幕に迎え入れることは、聖なる義務と考えられていました。ヨブはその聖なる義務を十分に果たしたのです。ヨブは天幕に迎え入れた旅人にご馳走を振る舞ったのです。外で夜を過ごすことは、身に危険を招くことでした。それゆえ、ヨブは、誰にでも戸口を開いたのです。『創世記』の第19章に、ソドムに住んでいたロトが、町の広場で夜を過ごそうとしていた二人の人を自分の家に招き入れたことが記されています。ヨブも、町の広場にいる人を、自分の天幕へと招き入れたのです。
33節に、「もし、私がアダムのように背きを覆い隠し/過ちを私の胸に隠したことがあったなら」とあります。この「アダム」がはじめの人アダムであるなら、ヨブは、アダムがエデンの園で禁じられていた木の実を食べて、神を恐れ、身を隠したことを言っていると解釈できます。しかし、そうすると、ヨブはアダムの罪責と腐敗を受け継いでいない、アダムから独立した存在となってしまいます。ですから、私は「アダム」を「人々」と訳すのがよいと思います。ちなみに、岩波書店から出ている旧約聖書(『ヨブ記』は並木浩一訳)は、33節を次にように訳しています。「もし、私が人々のようにわが罪過を隠し、わが胸の内に私の咎をしまい込んだことがあったなら」。このように、「アダムのように」は「人々のように」とも訳すことができるのです(口語訳「人々の前に」参照)。
34節に、「群衆の騒ぎに震え上がり、一族の蔑みにおののき/沈黙して戸口に出なかったことがあったなら」とあります。『創世記』の第19章は、ロトが二人の人を自分の家に迎え入れたこと。そのロトの家をソドムの住人が取り囲んで、二人の人を自分たちに引き渡すように要求したことが記されています。ここでも、そのような状況が考えられます。つまり、ヨブが迎え入れた旅人を、群衆や一族の者が快く思わなかったのです。しかし、ヨブは、戸口に立って説得し、彼らを自分の天幕から追い出すことはしなかったのです。
35節から37節までをお読みします。
ああ、私の言葉を聞いてくれる者が/いればよいのだが。ここにわたしの署名がある。全能者よ、私に答えてほしい。私を訴える者が書いた告訴状があればよいのだが。それをしかと肩に担い/私の冠として結び付けよう。私の歩みの数を彼に告げ/君主のように彼に近づこう。
ここで、ついにヨブは神に呼びかけます。「ここにわたしの署名がある」とは、第31章で語ってきた、潔白の主張のことです。実際にはそのような書類はありませんが、ヨブは自分が潔白である証明書に署名した書類があるかのように言うのです。その潔白証明書を持って、ヨブは神に挑戦するのです。ヨブは神に対して、自分を罪に定めるのであれば、告訴状を出してほしいと言うのです。そうすれば、その告訴状を公然と掲げて、神に自分の歩みを告げ、君主のように近づこうと言うのです。
38節から40節までをお読みします。
もし、私の畑が私に向かって叫び/その畝が共に泣いたことがあったならば/もし、私が銀を払わずにその作物を食べ/その持ち主の命を失わせることがあったならば/小麦の代わりにあざみが生じ/大麦の代わりに雑草が生えてもかまわない。
ヨブの言葉は完結した。
最後にヨブは、擬人法を用いて、畑を適切に用いたと主張します。『出エジプト記』の第23章に、「六年間は地に種を蒔き、その産物を収穫しなさい。しかし、七年目は地を休ませ、そのままにしておきなさい」と記されています(出エジプト23:10、11)。ヨブは、畑を酷使することなく、しっかりと休ませたのです(いわゆる休閑地)。また、ヨブは、銀を払わずにその作物を食べるようなことはしませんでした。ヨブは労働者たちにちゃんと賃金を支払ったのです(ヤコブ5:4参照)。ヨブは、もしそうでなければ、「小麦の代わりにあざみが生じ/大麦の代わりに雑草が生えてもかまわない」と言うのです(創世3:18参照)。
これによってヨブの言葉は完結しました。ヨブは、神に対して自分は潔白であるとの主張を語り尽くしたのです。