ヨブの潔白の主張④ 2024年9月04日(水曜 聖書と祈りの会)

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ヨブの潔白の主張④

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 31章13節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

31:13 僕や仕え女が私と争ったとき/もし、彼らの権利を私が退けたことがあるなら
31:14 神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。/神が尋ねるときに、私は何と答えようか。
31:15 私を胎内に造った方は/彼らをも造られたのではないか。/唯一の方が私たちを/母の胎に形づくられたのではないか。
31:16 もし、私が弱い人々の喜びとするものを拒み/やもめの目を衰えさせたなら。
31:17 食べ物を独り占めにして食べ/みなしごに食べさせなかったことがあるなら。
31:18 そうだ、私は若い頃から父親のように彼を育て/私の母の胎にいたときから彼女を導いたのだ。
31:19 もし、私が、衣服もなく死にゆく人や/覆うものがない貧しい人を見たときに
31:20 彼が私を祝福せず/私の羊の毛で彼が温められなかったなら
31:21 もし、私に味方する者が門にいるのを/見たからといって/私がみなしごに手を振り上げたならば
31:22 私の肩の骨が肩から落ち/私の腕が付け根から折られてもかまわない。
31:23 神の災いは私には恐怖であって/その威厳のゆえに私は堪えられない。ヨブ記 31章13節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 ヨブは、第29章で、神が共におられた昔の日々について語りました。また、第30章で、神が冷酷となり、責め立てる今について語りました。なぜ、神はヨブに対する態度を変えられたのでしょうか。友人たちは、ヨブが大きな罪を犯したからであると考えました。しかし、ヨブは自分が正しく、潔白であることを知っていました。それゆえ、ヨブにとって、神の変わりようは不可解であり、理不尽であるのです。そのような神に対して、ヨブは自分が潔白であることを、誓いの言葉によって言い表すのです。

 今朝は、第31章13節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 13節から15節までをお読みします。

 僕や仕え女が私と争ったとき/もし、彼らの権利を私が退けたことがあるなら/神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。神が尋ねるときに、私は何と答えようか。私を胎内に造った方は/彼らをも造られたのではないか。唯一の方が私たちを/母の胎に形づくられたのではないか。

 ヨブには多くの僕や仕え女がいました(ヨブ1:3参照)。古代の世界において、僕や仕え女は主人の所有物のように考えられていました(出エジプト20:17参照)。僕や仕え女は弱い立場にあったのです。しかし、ヨブは、僕や仕え女の権利を退けたことはないと言います。ヨブは、もしあるなら、「神が立ち上がるときに、私は何をなしえようか。神が尋ねるときに、私は何と答えようか」と言います。このヨブの発言の背景には、権利を退けられた僕や仕え女が主に向かって叫ぶならば、神がその叫びを聞いて、正当な裁きをするために立ち上がるという信仰があります(出エジプト22:20~26参照)。ヨブは、社会的弱者の保護者である神を畏れる者として、僕や仕え女の権利を退けたことはないのです。また、ヨブが僕や仕え女の権利を退けなかったのは、ヨブを胎内において造った神が、僕や仕え女をも造られたからです。ヨブは第10章8節から12節でこう言っていました。旧約の774ページです。

 あなたの手が私をかたどり、私を造ったのに/あなたは私と私を取り巻くものを/呑み込もうとしています。思い出してください。あなたが泥をこねるように私を造ったことを。あなたは私を塵に返そうとされます。あなたは私を乳のように注ぎ出し/チーズのように固まらせたのではありませんか。あなたは私に皮膚と肉をまとわせ/骨と筋とで私を編み合わせたのではありませんか。あなたは私に命と慈しみを授け/私を顧みて、私の霊を見守りました。

 ここに記されていることは、ヨブだけではなく、僕や仕え女においても当てはまるのです。神はヨブを造られただけではなく、僕や仕え女をも造られたのです。それゆえ、ヨブは、僕や仕え女の権利を重んじたのです(人権の思想の萌芽)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の801ページです。

 16節から23節までをお読みします。

 もし、私が弱い人々の喜びとするものを拒み/やもめの目を衰えさせたなら。食べ物を独り占めして食べ/みなしごに食べさせなかったことがあるなら。そうだ、私は若い頃から父親のように彼を育て/私の母の胎にいたときから彼女を導いたのだ。もし、私が、衣服もなく死にゆく人や/覆うものがない貧しい人を見たときに/彼が私を祝福せず/私の羊の毛で彼が温められなかったなら/もし、私に味方する者が門にいるのを見たからといって/私がみなしごに手を振り上げたならば/私の肩の骨が肩から落ち/私の腕が付け根から折られてもかまわない。神の災いは私には恐怖であって/その威厳のゆえに私は堪えられない。

 『出エジプト記』の第22章に、社会的弱者であるやもめとみなしごを苦しめてはならないと記されています。ヨブは、やもめとみなしごを苦しめないだけではなく、積極的に彼らを助け、養ったのです。18節に、「そうだ、私は若い頃から父親のように彼を育て/私の母の胎にいたときから彼女を導いたのだ」とあります。これは、明らかに誇張表現ですね。ヨブは若い頃から、やもめとみなしごを助けて来たのです。それは、ヨブを造られた唯一の神が、やもめとみなしごをも造られたからです。ヨブは、衣服もなく死にゆく人や覆うものがない貧しい人を見たとき、羊の毛で彼らを温めました。ヨブが所有していた七千匹の羊の毛は、死に行く人や貧しい人を温めたのです(ヨブ1:3参照)。ヨブは、自分に味方する者が多いのを見て、みなしごに手を振り上げるようなことはしませんでした。もしそのようなことをしたならば、「私の肩の骨が肩から落ち/私の腕が付け根から折られてもかまわない」と言うのです。このようにヨブが振る舞ってきたのは、神がやもめやみなしごを苦しめてはならないと命じておられるからです。さらには、神がやもめやみなしごを苦しめる者に、災いを下すと言われているからです(出エジプト22:21~23「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる」参照)。ヨブは、神の災いを恐れて、また、そのように命じる神の威厳のゆえに、やもめとみなしごを助け、養ったのです。また、衣服のない貧しい人を羊の毛で温めたのです。ここでヨブがしていることは、神が命じている以上のことです。神は、やもめとみなしごを苦しめてはならないと命じられました。そして、ヨブはやもめとみなしごを助け、養ったのです。ヨブは「罪が禁じられている場合には、反対の義務が命じられている」と理解していたのです(ウェストミンスター大教理の問99の4参照)。「やもめとみなしごを苦しめてはならない」という掟は、「やもめとみなしごを助け、養え」という掟であるとヨブは理解していたのです。このヨブの理解は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という主イエス・キリストの御言葉に通じるものです(マタイ7:12)。主イエス・キリストは、私たちに、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と命じられました。お腹が空いていれば何か食べたいと思う。喉が渇いていたら何か飲みたいと思う。裸で寒ければ衣服を着て温まりたいと思う。そうであれば、私たちは、お腹を空かしている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に飲み物を与え、裸で震えている人に衣服を与えるべきであるのです(マタイ25:31~46参照)。

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