ヨブの潔白の主張③ 2024年8月28日(水曜 聖書と祈りの会)

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ヨブの潔白の主張③

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 31章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

31:1 私は自分の目と契約を結んだ。/どうしておとめに目を注ぐことがあろうか。
31:2 高みにおられる神から受ける分とは何か。/高き所の全能者から受け継ぐものとは何か。
31:3 不法な者には災いがあり/悪事を働く者には災難があるはずではないか。
31:4 神は私の道を見つめ/私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。
31:5 もし、私が空しいものと共に歩み/私の足が欺きへと急いだとするなら
31:6 神に、義の秤で私を量り/私の潔白を知ってもらいたい。
31:7 もし、私の歩みが道からそれ/私の心が目の向くままに進み/私の手に汚れが付いているならば
31:8 私が蒔いたものを他人が食べ/私の子孫が絶やされてもかまわない。
31:9 もし、私の心が女に誘惑され/私が隣人の戸口で待ち伏せしたことがあるなら
31:10 私の妻が他人のために粉を挽き/ほかの男たちが彼女と寝てもかまわない。
31:11 これは恥ずべき行為/裁判で罰せられることだ。
31:12 まことに、それは滅びの国に至るまで焼き尽くす火。/私の収穫すべてを根こそぎにしてもかまわない。ヨブ記 31章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 ヨブは、第29章で、神が共におられた昔の日々について語りました。また、第30章で、神が冷酷になり、責め立てる今について語りました。なぜ、ヨブの味方であった神がヨブの敵となってしまったのでしょうか。三人の友人たちは、ヨブが大きな罪を犯したからに違いないと考えました。ヨブが大きな罪を犯したので、神はヨブに対する態度を変えたと言ったのです。しかし、ヨブは「自分は正しい、潔白である」と主張しました。今朝の御言葉、第31章でも、ヨブは神に対して、「自分は潔白である」と主張しています。

 今朝は、第31章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から6節までをお読みします。

 私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を注ぐことがあろうか。高みにおられる神から受ける分とは何か。高き所の全能者から受け継ぐものとは何か。不法な者には災いがあり/悪事を働く者には災難があるはずではないか。神は私の道を見つめ/私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。もし、私が空しいものと共に歩み/私の足が欺きへと急いだとするなら/神に、義の秤で私を量り/私の潔白を知ってもらいたい。

 2節と3節にこう記されています。「高みにおられる神から受ける分とは何か。高き所の全能者から受け継ぐものとは何か。不法な者には災いがあり/悪事を働く者には災難があるはずではないか」。ここでヨブが語っていることは、「神は良い行いには良い報いを与え、悪い行いには悪い報いを与える」という応報思想です。ヨブは、神から災いを受けていますが、それは不法な者が受けるべきであり、正しい者であるヨブが受けるべきではないのです。そのことをヨブの道を見つめ、その歩みのすべてを数えている神は知っているはずであるのに、神はヨブに災いをもたらすのです。このことは、ヨブにとって不可解であり、不条理なことであります。それゆえ、ヨブは、「神に、義の秤で私を量り、私の潔白を知ってもらいたい」と言うのです。

 1節に、「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を注ぐことがあろうか」とあります。ここでヨブは、「おとめに目を注いだことはない」と言います。おとめを見ることはあっても、おとめを見続けたことはないと言うのです。もし、おとめを見続けるならば、みだらな思いを抱くかも知れないからです。ヨブは結婚して妻がいますので、みだらな思いは姦淫の罪を犯す誘惑となります。それゆえ、ヨブは「自分の目と契約を結んだ」と言うのです。ヨブは、みだらな思いを抱くことがないように、目の働きをしっかりと制御(コントロール)しているのです。私たちは、ヨブの倫理観がとても高いことに驚きを覚えます。ヨブは、神が言葉や振る舞いだけではなく、心の思いをも裁かれることを知っているのです(出エジプト20:17「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」参照)。このような高い倫理観は、主イエス・キリストが山上の説教で教えられたことであります。『マタイによる福音書』の第5章27節から30節までをお読みします。新約の7ページです。

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」

 「姦淫」とは「不倫の関係」ですから、ここでイエス様は、配偶者のいる既婚者に対して語っています。配偶者のいる既婚者が情欲を抱いて女(異性)を見るならば、それは姦淫の罪を犯す誘惑となるのです。ここでイエス様が教えておられることは、神様は、姦淫という行為だけでなく、姦淫の原因とも言える情欲を抱いて異性を見ることを裁かれるということです。ですから、イエス様は「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」と言われるのです。これは誇張法であり、そのとおりに実行してはなりません(誇張法とは、修辞法の一つで、事物を過度に大きくまた小さく形容する表現方法のこと)。それほどの決意をもって、既婚者である人は、情欲を抱いて異性を見ないようにすべきであるのです。それこそ、ヨブが語っているように、自分の目と契約を結ぶべきであるのです。ヨブの高い倫理観は、イエス・キリストが山上の説教で教えられた「神の国の倫理」へとつながっているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の801ページです。

 7節と8節をお読みします。

 もし、私の歩みが道からそれ/私の心が目の向くままに進み/私の手に汚れが付いているならば/私が蒔いたものを他人が食べ/私の子孫が絶やされてもかまわない。

 ヨブは、「もし、私が何々をしたら、何々してもかまわない」という誓いの言葉によって、自分が潔白であることを語っていきます。ヨブは、6節で、「神に、義の秤で私を量り、私の潔白を知ってもらいたい」と言いました。その自分の潔白を誓いの言葉によって言い表していくのです。7節は、盗みのことを言っているようです。ヨブは目の向くままに、他人のものを盗んだことはありません。「もし、あるならば、自分が蒔いたものを他人が食べ、自分の子孫が絶やされてもかまわない」とヨブは言います。ここでの罰は、犯した罪と関係しています。盗みには、作物を盗むこと、子供を盗むこと(誘拐)が含まれているので、ヨブは、「自分が盗みを働いたのであれば、自分の作物を他人が食べ、自分の子孫が絶やされてもかまわない」と言うのです。この背景には、「目には目を、歯に歯を」といった同害報復法があります(出エジプト21:24参照)。このような誓いの言葉によって、ヨブは自分が盗みの罪を犯したことはないと断言するのです。

 9節から12節までをお読みします。

 もし、私の心が女に誘惑され/私が隣人の戸口で待ち伏せしたことがあるなら/私の妻が他人のために粉を挽き/ほかの男たちが彼女と寝てもかまわない。これは恥ずべき行為/裁判で罰せられることだ。まことに、それは滅びの国に至るまで焼き尽くす火。私の収穫すべてを根こそぎにしてもかまわない。

 ここでヨブは、自分が姦淫の罪を犯していないことを誓います。もし、自分が姦淫の罪を犯したならば、「私の妻が他人のために粉を挽き/ほかの男たちが彼女と寝てもかまわない」と言うのです。このヨブの発言は、古代の世界において、妻が夫の所有物と考えられていたことを前提にしています。ヨブの妻が辱められることによって、ヨブ自身も辱められるのです。姦淫は、相手の家庭を破壊するだけではなく、自分の家庭をも破壊してしまう罪です。ヨブは、姦淫の罪が恥ずべき行為であり、共同体に対しても、神に対しても、裁かれるべき罪であることを知っているのです。12節に、「まことに、それは滅びの国に至るまで焼き尽くす火」とあります。このヨブの言葉は、先程のイエス・キリストの御言葉に通じます。もう一度、『マタイによる福音書』の第5章27節以下を見てみたいと思います。新約の7ページです。

 イエス様は、既婚者に、情欲を抱いて異性を見ることを禁じただけではなく、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい」と言われました。「つまずかせる」とは、「姦淫の罪を犯させる」ということです。イエス様は、「右の目があなたに姦淫の罪を犯させるならば、えぐり出して捨てなさい」と言われたのです。これは誇張法ですが、なぜ、イエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、「体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである」からです。このイエス様の発言に先立って、ヨブは「まことに、それは滅びの国に至るまで焼き尽くす火」と語ったのです。ヨブは「滅びの国」について語りました。そして、イエス様は、「ゲヘナ(地獄)」について語るのです。

 ウェストミンスター小教理問答の問84に次のように記されています。

問84 すべての罪は、何に価しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。

 このことを、私たちは改めて、心に刻みたいと思います。

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