ヨブの潔白の主張② 2024年8月21日(水曜 聖書と祈りの会)
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ヨブの潔白の主張②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 30章1節~31節
聖書の言葉
30:1 しかし今は、私より年若い者が私を笑っている。/彼らの父親は、私が退け/群れの番犬と一緒に置いた者だ。
30:2 その手の力は私に何の役にも立たず/その気力はうせていた。
30:3 欠乏と飢饉で収穫もなく/廃虚と荒廃の暗闇で乾いた地をかんでいた。
30:4 やぶの中からあかざを摘み取り/えにしだの根を食物としていた。
30:5 人々は彼らを世間から追い払い/盗人呼ばわりした。
30:6 彼らは谷の斜面や/土の穴や洞穴に住み
30:7 やぶの間でうなり声を上げ/いらくさの下で群れていた。
30:8 彼らは愚か者たち、名もない者たち/土地から追い出された者たちであった。
30:9 しかし今は、私が彼らの嘲りの歌となり/彼らの笑いぐさとなっている。
30:10 彼らは私を忌み嫌い、私を遠ざけ/容赦なく顔に唾を吐きかける。
30:11 神が私の綱を解いて苦しめたので/彼らも私の前で慎みを捨てたのだ。
30:12 悪党どもが右に立ち、私の足を払いのけ/私に向かって災いの道を築き上げる。
30:13 彼らは私の道を壊し/災いへと追いやろうとするが/彼らを止める者はいない。
30:14 彼らは広い破れ口から/なだれ込むように入って来て/廃虚の中に押し寄せる。
30:15 恐怖が私に押し寄せ/私の威厳を風のように追い払い/私の繁栄は雲のように過ぎ去った。
30:16 今や、私の魂が私の上に注ぎ出され/苦しみの日々が私を捕らえる。
30:17 夜が私の中から骨をえぐり取り/私の痛みはやむことがない。
30:18 大きな力によって私の衣は姿を変え/上着の襟のように私を締め付ける。
30:19 神は私を泥の中に投げ込み/私は塵や灰のようになった。
30:20 私があなたに向かって叫び求めても/あなたは答えず/私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。
30:21 あなたは私に対して冷酷になり/御手の力で私を責めたてる。
30:22 あなたは私を抱えて風に乗せ/嵐のうなり声で私を砕く。
30:23 私は知っている/あなたは私を死へと/生ける者すべてが集まる家へと帰らせることを。
30:24 災いの中で叫び求める者がいても/人は瓦礫の山に手を差し伸べない。
30:25 だが、私は苦難の日を送る人のために/泣かなかっただろうか。/私の魂は貧しい人のために/悲しまなかっただろうか。
30:26 私は幸いを望んだのに、災いがやって来た。/光を待っていたのに、闇がやって来た。
30:27 私の腹は煮えたぎって、鎮まらないのに/私は苦しみの日々に向かい合わなければならない。
30:28 私は日にも当たらず、嘆いて歩み/集いの中に立って助けを叫び求めている。
30:29 私はジャッカルの兄弟となり/鷲みみずくの仲間となった。
30:30 私の皮膚は黒くなって剥げ落ち/私の骨は熱で焼ける。
30:31 私の琴は嘆きの調べとなり/私の笛は泣く者たちの声となった。
ヨブ記 30章1節~31節
メッセージ
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前回(先々週)私たちは、第29章に記されている、かつてのヨブについて学びました。今朝の第30章には、今のヨブについて記されています。
1節から8節までをお読みします。
しかし今は、私より年若い者が私を笑っている。彼らの父親は、私が退け/群れの番犬と一緒に置いた者だ。その手の力は私に何の役にも立たず/その気力はうせていた。欠乏と飢饉で収穫もなく/廃墟と荒廃の暗闇で乾いた地をかんでいた。やぶの中からあかざを摘み取り/えにしだの根を食物としていた。人々は彼らを世間から追い払い/盗人呼ばわりした。彼らは谷の斜面や/土の穴や洞穴に住み/やぶの間でうなり声を上げ/いらくさの下で群れていた。彼らは愚かな者たち、名もない者たち/土地から追い出された者たちであった。
「しかし今は」とありますが、この今は、多くの家畜と子供たちを失い、全身を悪性の腫れ物で打たれ、地位と名誉を失った今のことです。かつての日々において、ヨブが広場に座を設けたとき、老いた者たちさえ起立しました。年配の人たちさえ、ヨブに敬意を表したのです。しかし今は、年若い者がヨブを嘲笑います。ヨブは、自分を笑う年若い者の父親について、こう言います。「彼らの父親は、私が退け/群れの番犬と一緒に置いた者だ」。ユダヤにおいて、犬は卑しい動物であると考えられていました。ヨブは、自分を笑う年若い者の父親を犬と同じ卑しい者であったと言うのです。ヨブは、自分を笑う年若い者たちの父親のみじめな生活ぶりを語った後で、こう言います。「彼らは愚かな者たち、名もない者たち、土地から追い出された者たちであった」。このようにヨブが語るのは、彼らを憐れむためではなく、そのような彼らに笑われている、自分を憐れむためであるのです。
9節から15節までをお読みします。
しかし今は、私が彼らの嘲りの歌となり/彼らの笑いぐさとなっている。彼らは私を忌み嫌い、私を遠ざけ/容赦なく顔に唾を吐きかける。神が私の綱を解いて苦しめたので/彼らも私の前で慎みを捨てたのだ。悪党どもが右に立ち、私の足を払いのけ/私に向かって災いの道を築き上げる。彼らは私の道を壊し/災いへと追いやろうとするが/彼らを止める者はいない。彼らは広い破れ口から/なだれ込むように入って来て/廃墟の中に押し寄せる。恐怖が私に押し寄せ/私の威厳を風のように追い払い/私の繁栄は雲のように過ぎ去った。
かつてのヨブは広場に座を設け、指導者たちからも重んじられていました。しかし今は、愚かな者たちの嘲りの歌、名もない者たちの笑いぐさとなっています。彼らはヨブを忌み嫌い、ヨブの顔に唾を吐きかけるのです。人の顔に唾を吐きかけることは、人を最も侮辱する行為です。なぜ、これほどまでに、ヨブは落ちぶれてしまったのでしょうか。その原因を、ヨブは神にあると語ります。11節です。「神が私の綱を解いて苦しめたので/彼らも私の前で慎みを捨てたのだ」。神が解いた「私の綱」とは、「私の天幕の綱」であると解釈できます(4:21「天幕の綱が引き抜かれれば/彼らは死んで、知恵も役に立たない」参照)。神がヨブの綱を解いて苦しめた。このことは具体的には、ヨブが子供と財産を失い、全身を悪性の腫れ物で打たれ、地位も名誉も失ったことを指しています。神がそのようにヨブを扱われるので、悪党どもは安心して、神からの公認であるかのように、ヨブを辱め、災いへと追いやるのです。このところを読むと、十字架刑に処せられたイエス様のことを思い起こします。『マルコによる福音書』の第14章を読むと、イエス様がユダヤ人の議員たちから唾を吐きかけられ、こぶしで殴られたことが記されています。それは、最高法院での裁判において、イエス様を死刑にすることが決議されたからです。最高法院での裁判は神の名による裁判であり、イエス様は神の名によって有罪とされ、死刑判決を受けたのです。それゆえ、ユダヤ人の議員たちは、イエス様に唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけたのです。神がヨブを重んじていたとき、人々もヨブを重んじていました。しかし、神がヨブを軽んじるようになると、人々もヨブを軽んじるようになるのです。悪党どもは、神の御心を知ることなく、あるいは自分の都合のいいように解釈して、ヨブを苦しめるのです。このとき、悪党どもは気分がよかったと思います。軍勢の王のようであったヨブを、辱めることによって、自分たちが偉くなったかのように錯覚し、優越感に酔いしれたと思います。イエス様を侮辱したユダヤの議員たちとローマの兵士たちも同じであったと思います。イエス様は、ユダヤ人とローマ人から唾を吐きかけられ、殴られるのです(マルコ14:65、15:19参照)。ユダヤ人の王であるイエス様に唾を吐きかけ、侮辱することは、自分たちが偉くなったかのような錯覚を呼び起こしたと思います。彼らは優越感に酔いしれながら、イエス様を十字架につけたのです。
ヨブを苦しめていたのは、財産や子供を失ったこと、病にかかったこと。地位や名誉を失ったことだけではありません。悪党どもが押し寄せてくる恐怖があったのです。その恐怖がヨブの威厳を風のように追い払います。そして、ヨブは、かつての繁栄が雲のように過ぎ去ったことを知るのです。
16節から23節までをお読みします。
今や、私の魂が私の上に注ぎ出され/苦しみの日々が私を捕らえる。夜が私の中から骨をえぐり取り/私の痛みはやむことがない。大きな力によって私の衣は姿を変え/上着の襟のように私を締め付ける。神は私を泥の中に投げ込み/私は塵や灰のようになった。私があなたに向かって叫び求めても/あなたは答えず/私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。あなたは私に対して冷酷になり/御手の力で私を責めたてる。あなたは私を抱えて風に乗せ/嵐のうなり声で私を砕く。私は知っている/あなたは私を死へと/生ける者すべてが集まる家へと帰らせることを。
17節から19節には、全身を悪性の腫れ物で打たれたヨブの姿が記されています。ヨブの痛みはやむことなく、その衣(皮膚)は姿を変えて塵や灰のようになったのです。昔の日々において、ヨブは神との親しい交わりの中に生きていました。全能者がヨブと共にいてくださったのです。しかし、今は、ヨブが叫び求めても、神は顧みてくださらない。神はヨブに対して冷酷になり、御手の力でヨブを苦しめるのです。ヨブは、神が自分を死の家へと帰らせることを知っていると言います。しかし、ヨブにも分からないことがある。それは、神の変わりようの理由です。昔の日々において、ヨブは神との親しい交わりの中に生きていました。しかし、今は、神はヨブに対して冷酷になられた。神はヨブの祈りを聞いてくださらず、御手の力でヨブを責めたてるのです。
24節から31節までをお読みします。
災いの中で叫び求める者がいても/人は瓦礫の山に手を差し伸べない。だが、私は苦難の日を送る人のために/泣かなかっただろうか。わたしの魂は貧しい人のために/悲しまなかっただろうか。私は幸いを望んだのに、災いがやって来た。光を待っていたのに、闇がやって来た。私の腹は煮えたぎって鎮まらないのに/私は苦しみの日々に向かい合わなければならない。私は日にも当たらず、嘆いて歩み/集いの中に立って助けを叫び求めている。私はジャッカルの兄弟となり/鷲みみずくの仲間となった。私の皮膚は黒くなって剥げ落ち/私の骨は熱で焼ける。私の琴は嘆きの調べとなり/私の笛は泣く者たちの声となった。
災いの中で叫び求める者がいても、人は瓦礫の山に手を差し伸べない。強盗に襲われて倒れている人の横を通り過ぎるレビ人や祭司のように、人は見て見ぬふりをするのです(ルカ10:31、32参照)。しかし、ヨブは、違います。ヨブは、苦難の日を送る人のために泣き、貧しい人のために悲しんだのです。半殺しにされて倒れている人を深く憐れんだサマリア人のように、ヨブは振る舞ったのです(ルカ10:33~35参照)。しかし、神はどうでしょうか。ヨブが叫び求めても神は答えず、立ち尽くすヨブを顧みてくださらない。神は、幸いを望むヨブに災いをもたらし、光を待っていたヨブに闇をもたらすのです。
27節に、「私の腹は煮えたぎって、鎮まらない」とあります。その煮えたぎる怒りは、理不尽な神に対する怒りでしょう。先程も申しましたように、ヨブには、親しかった神が冷酷な神に変わってしまった理由が分からないのです。ヨブは理不尽な神に対する怒りを鎮めることができないまま、苦しみの日々に向かい合わねばならないのです。ヨブは、日にも当たらず、嘆いて歩む者となりました。かつてヨブは、嘆く者を慰める人でした。しかし今は、集いの中に立って助けを叫び求めているのです。ヨブは、「私はジャッカルの兄弟となり、鷲みみずくの仲間となった」と言います。ヨブは人間の兄弟も仲間もいない孤独な身の上となったのです。ヨブの皮膚は黒くなって剥げ落ち、骨は熱で焼けるようである。そのヨブの口から発せられるのは、嘆きの調べであり、泣く者たちの声であるのです。ヨブは自分のために葬儀の歌(弔いの歌)を歌うのです。