栄光の王とは誰か 2024年8月11日(日曜 夕方の礼拝)
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栄光の王とは誰か
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- 村田寿和 牧師
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詩編 24編1節~10節
聖書の言葉
24:1 ダビデの詩。賛歌。/地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは主のもの。
24:2 主が大海の上に地の基を築き/大河の上に世界を据えたから。
24:3 誰が主の山に上り/誰がその聖所に立つのか。
24:4 汚れのない手と清い心を持つ人。/魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。
24:5 その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる。
24:6 これこそ、主を尋ね求める人々/ヤコブの神の御顔を求める者。〔セラ
24:7 門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。/栄光の王が入る。
24:8 栄光の王とは誰か。/強く勇ましい主。/戦いの勇者なる主。
24:9 門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。/栄光の王が入る。
24:10 栄光の王とは誰か。/万軍の主、主こそ栄光の王。〔セラ
詩編 24編1節~10節
メッセージ
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月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』からお話ししています。今夕は第24編から、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節の前半に、「ダビデの詩。賛歌」とあるように、第24編は、ダビデが歌った詩編であります。ダビデは、紀元前11世紀に活躍したイスラエルの王様です。ダビデは、第24編をどのような状況で歌ったのでしょうか。7節に、「門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る」とあります。この御言葉は、9節でも繰り返されます。この御言葉から想定できる状況は、ダビデが神の箱をエルサレムへ運び上げたことです。『サムエル記下』の第6章12節から19節までをお読みします。旧約の474ページです。
神の箱のゆえに、主がオベド・エドムの家族および持ち物すべてを祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。そこで、ダビデは行って、喜びのうちに、神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町へと運び上げた。主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは雄牛と肥えた家畜をいけにえとして献げた。主の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。
人々は主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に置いた。ダビデは主の前に焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げた。焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げ終わると、ダビデは万軍の主の名によって民を祝福した。そして民全員、イスラエルの群衆全体は、男にも女にも、それぞれ、輪形のパン菓子一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。民は皆、それぞれ自分の家に帰って行った。
その昔、神様はモーセに、「神の箱」を造るように命じられました。その際、神様は、神の箱の蓋である贖いの座にある2つのケルビムの間から、モーセに語ると約束されました(出エジプト25:10~24参照)。神の箱は神様が御臨在される場であるのです。その神の箱を、ダビデは、エルサレムへと運び上げました。そして、心から喜んで、力のかぎり踊ったのです。このような出来事が、『詩編』の第24編の背景にあると考えられるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の839ページです。
1節後半と2節をお読みします。
地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは主のもの。主が大海の上に地の基を築き/大河の上に世界を据えたから。
ダビデは、神の箱をエルサレムに運び上げるにあたって、主がどのような御方であるかを語ります。「主」とは、その昔、モーセに示された神様の御名前です。その意味は、「私はいる」という意味です(出エジプト3:14「私はいる、という者である」参照)。ダビデは、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のものである」と言います。この世界は神様のもの、神様の所有物であるのです。それは、主が大海の上に地の基を築き、大河の上に世界を据えられたからです。大海と大河は無秩序で御しがたい混沌、カオスを象徴しています。その大海と大河を制御して、主は地の基を築き、世界を据えられました。主が世界の所有者であられるのは、主が世界の創造主であるからなのです。主という御名前の意味は、「私はいる」という意味であると申しましたが、主は世界が造られる前からおられるのです(詩90:2参照)。
3節から6節までをお読みします。
誰が主の山に上り/誰がその聖所に立つのか。汚れのない手と清い心を持つ人。魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる。これこそ、主を尋ね求める人々/ヤコブの神の御顔を求める者。
「主の山」とは、神の箱が運び上げられるエルサレムがあるシオンの山です。神の箱が運び上げられることにより、エルサレムは聖なる場所、聖所となります。その聖所に立つ者、主を礼拝する者について、ダビデは記します。主の山に上り、聖所に立つのは、どのような人か。それは、汚れのない手と清い心を持つ人。魂を空しいものに向けず、偽りの誓いをしない人であるのです。他人に悪を行わず、真っ直ぐな心で、主だけに依り頼み、真実の言葉を語る人。そのような人が主を礼拝するのにふさわしい人であると言うのです。このことは、『イザヤ書』の第1章で、主がイスラエルの人々に言われていることでもあります。『イザヤ書』の第1章10節から17節をお読みします。旧約の1046ページです。
ソドムの支配者たちよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、私たちの神の教えに耳を傾けよ。主は言われる。あなたがたのいけにえが多くても/それが私にとって何なのか。私は雄羊の焼き尽くすいけにえと/肥えた家畜の脂肪に飽きた。私は、雄牛や小羊や雄山羊の血を喜ばない。あなたがたは私の前に出て来るが/誰が私の庭を踏みつけるよう/あなたがたに求めたのか。もう二度と空しい供え物を携えて来るな。香の煙はまさに私の忌み嫌うもの。新月祭、安息日、集会など不正が伴う集いに私は耐えられない。あなたがたの新月祭と定めの祭りを/私の魂は憎む。それらのものは私には重荷であり/担うのに疲れ果てた。また、あなたがたが両手を広げても/私は目をそらし/あなたがたが祈りを多く献げても、聞くことはない。あなたがたの手は血にまみれている。洗え。身を清くせよ。あなたは悪い行いを私の前から取り除け。悪を行うことをやめよ。善を行うことを学べ。公正を追い求め、虐げられた者を救い/孤児のために裁き、寡婦を弁護せよ。
なぜ、神様はイスラエルの民が両手を広げて祈っても、聞いてくださらないのか。それは、イスラエルの民の両手が血にまみれているからです。イスラエルの民は、悪を行うことをやめることなく、汚れたままで、聖なる神様を礼拝していたのです。それゆえ、主は、「洗え。身を清くせよ」「善を行うことを学び」「虐げられている者、孤児、寡婦を助けよ」と言われるのです。ここで私たちが教えられることは、宗教的なきよさと道徳的な正しさは一体的な関係にあるということです。神様は汚れのない手と清い心を持つ人を求められます。魂を空しいものに向けず、偽りの誓いをしない人を求められるのです。こう聞きますと、私たちは不安になると思います。「自分はそのような者であろうか」と思うわけです。そのような私たちに、主はこう言われます。18節です。
主は言われる。さあ、論じ合おう。あなたがたの罪がたとえ緋のようでも/雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても/羊毛のように白くなる。
この主の御言葉は、世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストにおいて実現することになります。私たちは、イエス・キリストによって罪を贖われて、きよい者、聖なる者とされました。神様は、私たちを、イエス・キリストにあって、汚れのない手と清い心の人、魂を空しいものに向けず、偽りの誓いをしない人と見なしてくださり、私たちのささげる礼拝を喜んで受け入れてくださるのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの御名によって集まり、イエス・キリストの御名を通して、神様を礼拝しているのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の839ページです。
5節に、「その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる」とあります。ここに、私たちが礼拝をささげている目的があります。私たちは主からの祝福をいただくために、また、救いの神から正義をいただくために、礼拝をささげているのです。神様の祝福と正義にあずかれる時と場所、それがイエス・キリストの御名によってささげられる礼拝であるのです。また、イエス・キリストの御名によって礼拝する者たちこそ、主を尋ね求める人々であり、ヤコブの神の御顔を求める者であるのです(ヨハネ4:23「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」参照)。
7節から10節までをお読みします。
門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る。栄光の王とは誰か。強く勇ましい主。戦いの勇者なる主。門よ、頭を上げよ。とこしえの扉よ、上がれ。栄光の王が入る。栄光の王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光の王。
ダビデは、擬人法を用いて、門や扉に呼びかけます。「門よ、頭を上げよ/とこしえの扉よ、上がれ」。栄光の王を迎え入れるために、門も扉も、精一杯自分を広くするようにと、ダビデは言います。「栄光の王とは誰か」。それは、「強く勇ましい主。戦いの勇者なる主」であります。神の箱に臨在される主は、ダビデと共にいてくださり、ダビデと共に戦い、勝利を賜る主であられます(サムエル下5:17~25参照)。エルサレムに入る栄光の王は、万軍の主であられるのです。ここでの「万軍」は夜空の星々に象徴される天使たちのことです。ですから、万軍の主とは、天使たちを統べ治められる主ということです。主は世界を造られ、所有する御方であり、天使たちを統べ治められる万軍の主であられます。そのような主を、ダビデは、また、イスラエルの民は、自分たちの王として迎え入れるのです。それはまことに喜ばしいこと、力の限り踊らずにはおれない喜びであるのです。
そのような喜びを私たちも与えられています。なぜなら、栄光の王である主イエス・キリストは、私たちの心の門を開いてくださり、私たちの心の王座に着いてくださったからです。主イエス・キリストは、聖霊において、私たちと共にいてくださり、私たちを悪しき者から守ってくださいます。そして、世の終わりに、生きている者と死んだ者とを裁く、栄光の主として、この地上に再び来てくださるのです。そのとき、私たちは頭を上げて、主をお迎えすることができるのです(ルカ21:28「このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからである」参照)。