知恵の賛歌 2024年7月24日(水曜 聖書と祈りの会)
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知恵の賛歌
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 28章1節~28節
聖書の言葉
28:1 銀には鉱山があり/金には精錬する場所がある。
28:2 鉄は土から取り出され/石を溶かすと、銅が取り出される。
28:3 人は闇の果てに身を置いて/あらゆる地の極みまで訪ね/暗闇と死の陰の石を探し出す。
28:4 住まいから離れて坑道を掘り/道を行く人々から忘れられ/地下深く身をつり下げ、揺れている。
28:5 食物を産み出す大地も/地下では火のように熱く沸き返っている。
28:6 鉱石はラピスラズリのある場所にある。/そこには金の粒もある。
28:7 猛禽もその道を知らず/隼の目もそれを見つけることはできない。
28:8 誇り高い獣たちもそれを踏まず/獅子もそこを通らない。
28:9 人は硬い岩に手を伸ばし/山々を根元から覆す。
28:10 岩に坑道を掘り/その目は価値あるものを見つける。
28:11 流れをせき止め/その隠されたものに光を当てる。
28:12 では、知恵はどこに見いだされるのか。/分別はどこにあるのか。
28:13 人はそこに至る道を知らない。/生ける者の地には見いだされない。
28:14 深い淵は言う/「それは私の中にはない」と。/海は言う/「私のところにもない」と。
28:15 知恵によって純金を得ることはできず/銀がその値として量られることもない。
28:16 オフィルの金でも、高価なカーネリアンや/ラピスラズリでも引き換えにできない。
28:17 金もガラスもそれに比べることはできず/純金の器もそれと交換できない。
28:18 さんごと水晶は言うに及ばず/知恵から得るものは真珠にまさる。
28:19 クシュのトパーズもそれに比べることはできず/純金でも引き換えにできない。
28:20 では、知恵はどこから来るのか。/分別はどこにあるのか。
28:21 それは生ける者すべての目に隠され/空の鳥にも隠されている。
28:22 滅びの国も死も言う。/「私たちは耳でそれを伝え聞いたことがある。」
28:23 神はその道を悟り/神がその場所を知っておられる。
28:24 神は地の果てまで目を凝らし/天の下をことごとく見ておられる。
28:25 神は風に重さを与え/水を秤で量る。
28:26 雨には定めを/稲妻には道を与えたとき
28:27 神は知恵を見て、これについて語り/これを確かめ、探し出した。
28:28 そして、人に言われた。/「主を畏れること、これが知恵である。/悪を離れること、これが分別である。」
ヨブ記 28章1節~28節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第28章1節から28節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には「知恵の賛歌」が記されています。この「知恵の賛歌」はヨブが語ったものとして記されているのでしょうか。それとも、後の世代の人が、ヨブと友人たちの論争が終わった幕間(まくあい)として、書き加えたものでしょうか。私には、ヨブが語った言葉とは思えないので、後の世代の人が、幕間として書き加えたものであると解釈したいと思います。そのような解釈に基づいて、お話しいたします。
1節から14節までをお読みします。
銀には鉱山があり/金には精錬する場所がある。鉄は土から取り出され/石を溶かすと、銅が取り出される。人は闇の果てに身を置いて/あらゆる地の極みまで訪ね/暗闇と死の陰の石を探し出す。住まいから離れて坑道を堀り/道を行く人々から忘れられ/地下深く身をつり下げ、揺れている。食物を生み出す大地も/地下では火のように熱く沸き返っている。鉱石はラピスラズリのある場所にある。そこには金の粒もある。猛禽もその道を知らず/隼の目もそれを見つけることはできない。誇り高い獣たちもそれを踏まず/獅子もそこを通らない。人は硬い岩に手を伸ばし/山々を根元から覆す。岩に坑道を堀り/その目は価値あるものを見つける。流れをせき止め/その隠されたものに光を当てる。では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか。人はそこに至る道を知らない。生けるものの地には見いだされない。深い淵は言う/「それは私の中にはない」と。海は言う/「私のところにもない」と。
人間は銀、金、鉄、銅といった金属やラピスラズリといった宝石を手に入れるために、坑道を堀り、地下深く身をつり下げて探します。人間は岩に坑道を掘り、価値あるものを見つけ出すのです(日本だと佐渡金山が有名)。しかし、そのような人間であっても、知恵を見つけることはできません。12節と13節にこう記されています。「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか。人はそこに至る道を知らない。生ける者の地には見いだされない」。知恵は、金属や宝石のように、どこかにあって、見つけることができるものではないのです。知恵は、生ける者の地にも、深い淵の中にも、海のところにもないのです。
15節から19節までをお読みします。
知恵によって純金を得ることはできず/銀がその値として量られることもない。オフィルの金でも、高価なカーネリアンや/ラピスラズリでも引き換えにできない。金もガラスもそれに比べることはできず/純金の器もそれと交換できない。さんごと水晶は言うに及ばず/知恵から得るものは真珠にまさる。クシュのトパーズもそれに比べることはできず/純金でも引き換えにできない。
15節の前半に、「知恵によって純金を得ることはできず」とありますが、新共同訳では、「知恵は純金によっても買えず」と訳していました(新改訳2017「それは純金をしても得られない」)。人間は、純金によって、あるいは銀を量って、欲しい物を手に入れることができます。しかし、知恵はそうはいきません。知恵は純金によって得ることができず、その価値を銀で量ることもできないのです。知恵は、貴金属や宝石と引き換えにしたり、比べたりすることができないほど価値があるのです。
20節から28節までをお読みします。
では、知恵はどこから来るのか。分別はどこにあるのか。それは生ける者のすべての目に隠され/空の鳥にも隠されている。滅びの国も死も言う。「私たちは耳でそれを伝え聞いたことがある。」神はその道を悟り/神がその場所を知っておられる。神は地の果てまで目を凝らし/天の下をことごとく見ておられる。神は風に重さを与え/水を秤で量る。雨には定めを/稲妻には道を与えたとき/神は知恵を見て、これについて語り/これを確かめ/探し出した。そして、人に言われた。「主を畏れること、これが知恵である。悪を離れること、これが分別である。」
どのような宝石にも比べられず、純金でも引き換えにできない知恵は、どこにあるのでしょうか。それは生ける者のすべての目に隠されていると言います。遙か先を見ることのできる鳥の目にも隠されているのです。また、滅びの国も死も、伝え聞いたことがあるだけで、その場所を知らないのです。
知恵はどこから来るのか。分別はどこにあるのか。その答えが、23節に記されています。「神はその道を悟り/神がその場所を知っておられる」。人は知恵に至る道を知りません。また、人は知恵がどこから来るのか知りません。しかし、神は知恵に至る道を悟り、神は知恵が来る場所を知っているのです。24節から25節には、天の下に起こる神の摂理の御業が記されています。神は吹く風に重さを与え、雨に降る量を定め、稲妻に道を与えられます。それらはすべて神の知恵によるのです。知恵の源は、すべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられる神にあるのです。それゆえ、神は人にこう言われるのです。「主を畏れること、これが知恵である。悪を離れること、これが分別である」。神は、このような知恵と分別を、自由な主権によって、恵みとして与えてくださるのです(ルカ10:21、22参照)。「主を畏れること、これが知恵である」と言うとき、その主とは、「主イエス・キリスト」のことです(フィリピ2:11参照)。主イエス・キリストを畏れること、主イエス・キリストを愛し、信じること、それが神の知恵であるのです。主イエス・キリストは、私たちの罪を担って、十字架の上で命を捨ててくださいました。それゆえ、私たちは纏わりつく悪を憎んで離れることができるのです。そのようにして、私たちは分別をも与えられているのです。「主を畏れること、これが知恵である。悪を離れること、これが分別である」。このことを心に刻んで、神の知恵であり、思慮分別の霊である聖霊に従って歩んでいきたいと願います(ヤコブ3:17、二テモテ1:7参照)。