友人たちへの最後のヨブの言葉 2024年7月17日(水曜 聖書と祈りの会)

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友人たちへの最後のヨブの言葉

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 27章1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:1 ヨブはまた言葉を続けた。
27:2 生ける神は私の権利を奪い/全能者は私の魂を苦しめる。
27:3 私の息が私の内にあり/神の息吹が私の鼻にあるかぎり
27:4 この唇は不正を語らず/この舌は欺きを言わない。
27:5 私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。
27:6 私は自分の義を保ち、手放さず/心は私の日々を責めることはない。
27:7 私の敵は悪しき者のようになれ。/私に立ち向かう者は不法な者のようになれ。
27:8 神を敬わない者に何の望みがあろうか/神が彼の命を絶ち、その魂を取り去るときに。
27:9 神は彼の叫びを聞くだろうか/苦難が彼に臨むときに。
27:10 彼は全能者を喜びとするだろうか。/どんな時にも神を呼び求めるだろうか。
27:11 私は全能者と共にあるものを隠さず/神の手についてあなたがたに教える。
27:12 あなたがたは皆、それを見たのに/どうして空しいことを吐くのか。
27:13 これは悪しき者が神から受ける分/冷酷な者が全能者から受け継ぐもの。
27:14 たとえその子らが増えても、剣にかかり/子孫はパンに満ち足りることがない。
27:15 生き残った者も死んで葬られ/やもめたちは泣きもしない。
27:16 彼が銀を塵のように積み上げても/泥のように衣服を貯め込んでも
27:17 貯め込んだものは正しき人がまとい/銀は罪なき人が分け合う。
27:18 彼は虫のように自分の家を建てる/見張りが作る仮小屋のように。
27:19 富める身で寝ても、何も集められず/目を開ければ、何もない。
27:20 恐怖が大水のように彼を襲い/突風が夜の間に彼を吹き払う。
27:21 東風が彼を運び去り/彼のいた場所からさらっていく。
27:22 東風は彼を圧倒して容赦せず/彼はその手から何とか逃れようとする。
27:23 人は彼のことで手を叩き/彼を嘲り、その場所から追い払う。
ヨブ記 27章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第27章1節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第4章から「ヨブと3人の友人の論争」が長々と記されてきましたが、今朝の御言葉は、「友人たちへの最後のヨブの言葉」であります。

 今朝の御言葉である第27章は、大きく三つに分けることができます。第一の区分は、1節から6節までで、ヨブの「自分は正しい」という主張が記されています。第二の区分は、7節から12節までで、友人たちを断罪する言葉が記されています。第三の区分は、13節から23節までで、友人たちが受けることになる滅びについて記されています。この第三の区分、13節から23節までは、ツォファルが語ったであろう言葉を、ヨブが先取りして語ったものです。友人たちは、ヨブを罪人であると定めて、滅びを語りました。その彼らの言葉を用いて、ヨブは友人たちの滅びについて語るのです。

 1節から6節までをお読みします。

 ヨブはまた言葉を続けた。生ける神は私の権利を奪い/全能者は私の魂を苦しめる。私の息が私の内にあり/神の息吹が私の鼻にあるかぎり/この唇は不正を語らず/この舌は欺きを言わない。私があなたがたを義とすることは断じてなく/死ぬまで、私は自分の潔白を捨てない。私は自分の義を保ち、手放さず/心は私の日々を責めることはない。

 2節に、「生ける神は私の権利を奪い/全能者は私の魂を苦しめる」とあります。かつて用いていた新共同訳を見ると、このところをヨブの誓いの言葉として翻訳しています。「わたしの権利を取り上げる神にかけて/わたしの魂を苦しめる全能者にかけて/わたしは誓う」。ヨブは、自分の権利を奪う生ける神にかけて、自分を苦しめる全能者にかけて、自分が潔白であることを誓うのです。そのような誓いによって、友人たちとの論争を終わらせようとするのです(ヘブライ6:16「そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反論を終わらせる保証となります」参照)。ヨブは、自分が生きている限り、不正を語らず、欺きを言わないと誓います。ヨブが語る言葉は真実であるのです。友人たちは、ヨブの悪は多く、過ちは果てしないと主張しました(22:5参照)。しかし、ヨブが、友人たちを正しいとすることは決してありません。ヨブは死ぬまで、自分の潔白を捨てることはないのです。ヨブは、自分の義、正しさを保って、手放すことはないのです。6節の後半に、「心は私の日々を責めることはない」とあります。ヨブの良心、ヨブのことを知っているもう一人の自分も、生涯、ヨブを責めることはないのです(新改訳2017「私の良心は生涯私を責めはしない」参照)。ここでヨブは、自分の権利を奪う生ける神にかけて、また、自分の魂を苦しめる全能者にかけて、自分の正しさを誓うことにより、友人たちを罪(偽証罪)に定めるのです。

 7節から12節までをお読みします。

 私の敵は悪しき者のようになれ。私に立ち向かう者は不法な者のようになれ。神を敬わない者に何の望みがあろうか/神が彼の命を絶ち、その魂を取り去るときに。神は彼の叫びを聞くだろうか。苦難が彼に臨むときに。彼は全能者を喜びとするだろうか。どんな時にも神を呼び求めるだろうか。私は全能者と共にあるものを隠さず/神の手についてあなたがたに教える。あなたがたは皆、それを見たのに/どうして空しいことを吐くのか。

 7節の「私の敵」とは、ヨブを罪人であると主張する友人たちのことです。ヨブは、友人たちを「私の敵」と呼んで、「悪しき者のようになれ」と言います。また、友人たちを「私に立ち向かう者」と呼んで、「不法な者のようになれ」と言います。さらに、ヨブは友人たちを「神を敬わない者」と呼びます。このようにヨブが言うのは、友人たちが応報原理の神を信じており、生けるまことの神を敬っていないからです。友人たちは、自分たちが思い描く神、応報原理の神を信じているのであって、生けるまことの神を敬っていないのです。それゆえ、彼らは自分に苦難が臨むとき、全能者を喜ぶことができないのです。彼らは自分に苦難が臨むとき、神を礼拝することができないのです。しかし、ヨブは違います。ヨブは応報思想の神を信じていても、応報原理の神を信じていませんでした。それゆえ、ヨブは苦難の中にありながら、神を喜びとし、神を礼拝することができたのです。自分の権利を奪う神を、自分の魂を苦しめる全能者を、自分の真実の拠り所とすることができたのです。

 12節に、「あなたがたは皆、それを見たのに/どうして空しいことを吐くのか」とあります。友人たちが見た「それ」とは何でしょうか。「それ」とは、正しい者でありながら全能者によって苦しめられているヨブの姿のことです。ヨブの姿そのものが、神の手について友人たちに教えているのです。つまり、苦しみの原因は、その人が犯した罪にあるとは必ずしも言えないことを、苦しみの中にある正しい人ヨブの姿が教えているのです。しかし、友人たちはヨブの姿を見ているにもかかわらず、自分たちの理屈である応報原理によってヨブを罪に定めて、空しいことを語ってきたのです。

 13節から23節までをお読みします。

 これは悪しき者が神から受ける分/冷酷な者が全能者から受け継ぐもの。たとえその子らが増えても、剣にかかり/子孫はパンに満ち足りることがない。生き残った者も死んで葬られ/やもめたちは泣きもしない。彼が銀を塵のように積み上げても/泥のように衣服を貯め込んでも/貯め込んだものは正しき人がまとい/銀は罪なき人が分け合う。彼は虫のように自分の家を建てる/見張りが作る仮小屋のように。富める身で寝ても/何も集められず/目を開ければ、何もない。恐怖が大水のように彼を襲い/突風が夜の間に彼を吹き払う。東風が彼を運び去り/彼のいた場所からさらっていく。東風は彼を圧倒して容赦せず/彼はその手から何とか逃れようとする。人は彼のことで手を叩き/彼を嘲り、その場所から追い払う。

 13節に、「これは悪しき者が神から受ける分/冷酷な者が全能者から受け継ぐもの」とあります。この言葉は、ツォファルの第二回目の弁論の最後の言葉とほぼ同じです。第20章29節で、ツォファルはこう言っています。「これは悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである」。このように、ツォファルは、悪しき者の滅びについて語っていたのです。ヨブは、そのツォファルの言葉を引き継いで、第27章13節以下を語るのです。つまり、ヨブは、ツォファルが語ったであろう言葉を、自分の口で語ってみせるのです。しかし、その際、「悪しき者」とはヨブのことではありません。ここでの「悪しき者」は、ヨブについて偽りの証言をし、神を敬わない友人たちのことです。ヨブは友人たちの言葉を用いて、彼らの滅びについて語るのです。イエス様は、弟子たちに、「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる」と言われました(マタイ7:1、2)。まさに、友人たちは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られるのです。

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