主の力と救いを喜ぶ王 2024年7月14日(日曜 夕方の礼拝)

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主の力と救いを喜ぶ王

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 21章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
21:2 主よ、王はあなたの力を喜び/あなたの救いにどれほど喜び躍ることか。
21:3 あなたは王の心の望みを許し/唇の願いを拒まなかった。〔セラ
21:4 あなたは恵みの祝福をもって彼を迎え/その頭に黄金の冠を載せた。
21:5 彼が命を願うと/あなたは長寿を代々とこしえまでも与えた。
21:6 王の栄光はあなたの救いによって大きくなり/あなたは威厳と輝きを彼の上に置く。
21:7 あなたは永遠の祝福を彼に与え/御前の喜びによって彼を楽しませる。
21:8 王は主に信頼し/いと高き方の慈しみにより、揺らぐことはない。
21:9 あなたの手はすべての敵を探り出し/右の手はあなたを憎む者を探り出す。
21:10 主よ、御顔を現すとき/あなたは彼らを火のついた炉のようにする。/主は怒りで彼らを呑み尽くし/火は彼らを食らい尽くす。
21:11 あなたは彼らの実りを地から/その種を人の子らの中から滅ぼす。
21:12 彼らがあなたに悪事を重ね/策略を巡らしても、果たせはしない。
21:13 あなたは彼らを敗走させ/彼らの顔に向けて弓を引き絞る。
21:14 主よ、力に満ちて、高くいませ。/私たちはあなたの力強い業を歌い/ほめ歌を歌おう。
詩編 21章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 月に一度の夕べの礼拝では、『詩編』からお話ししています。今夕は、第21編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 第21編は、その直前の第20編と同じく、王の詩編です。第20編については、2023年6月28日の「聖書と祈りの会」でお話ししました。第20編は、王の勝利を願う詩編でありました(戦勝祈願の詩編)。続く第21編は、王の勝利を祝う詩編であるのです(戦勝祝賀の詩編)。

 1節に、「ダビデの詩」とあるように、第21編は、ダビデが歌った詩編です。では、2節の「王」とは誰のことでしょうか。ここでの「王」は、ダビデが仕えた「サウル王」のことであると解釈したいと思います。ダビデは、羊飼いであり、琴を奏でる詩人でありました。『サムエル記上』の第16章に、ダビデが琴の名手であり、サウル王に仕えたことが記されています。旧約の438ページです。第16章14節から23節までをお読みします。

 主の霊はサウルから離れて、主からの悪い霊が彼をさいなむようになった。サウルの僕たちは彼に言った。「御覧ください。あなたをさいなむのは神からの悪い霊です。王様、どうか御前に仕える僕どもに命じて、琴を弾くのが巧みな者を探させてください。神からの悪い霊があなたを襲うとき、その者が琴を奏でれば、あなたの気分はよくなるでしょう。」サウルは家来たちに言った。「琴の名手を見つけ出し、ここに連れて来てくれ。」従者の一人が答えた。「申し上げます。私はベツレヘム人エッサイの息子に会ったことがありますが、彼は琴を弾くのが巧みで、力ある勇士でもあり、戦士でもあります。しかも、聡明で容姿に優れ、主が彼と共におられます。」そこでサウルはエッサイのもとに使者を遣わして言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを私のもとによこしなさい。」エッサイはパンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋、それに子山羊一匹を用意して、息子ダビデに持たせ、サウルに送った。ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルはダビデが非常に気に入り、自分の武器を持つ従者とした。サウルはエッサイに人を遣わして言った。「ダビデを私に仕えさせてほしい。彼は私の目に適った。」神の霊がサウルを襲う度に、ダビデは琴を手にして爪弾いた。するとサウルの霊は休まり、良くなって、悪い霊は彼を離れた。

 ここには記されていませんが、ダビデは、琴を奏でるだけではなく、サウル王のための詩編を歌ったのではないかと思います。ダビデは、王の勝利を願う詩編や、王の勝利を祝う詩編を歌うことによって、サウル王の心を慰めたのです。詩編の第20編と第21編は、もともとは、ダビデがサウル王の心を慰めるために歌った詩編であると考えられるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の837ページです。

 1節と2節をお読みします。

 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。

主よ、王はあなたの力を喜び/あなたの救いにどれほど喜び踊ることか。

 「主」とはヤハウェと発音されたであろう神のお名前で、「私はいる」という意味です(出エジプト3:14)。主、ヤハウェというお名前には、「私はあなたと共にいる」という約束が含まれています(出エジプト3:12)。主こそ、イスラエルのまことの王であり、イスラエルに救いをもたらしてくださるお方です。イスラエルの神、主は、預言者サムエルによって、サウルの頭に油を注ぎ、イスラエルの王としました(サムエル上10章参照)。主はサウル王と共にいてくださり、イスラエルに救いをもたらしてくださいました(サムエル上11章参照)。それゆえ、王は、主の力を喜び、主の救いを喜び踊るのです。敵との戦いに勝利をもたらしてくださった主の力を、王は喜ぶのです。

 3節から5節までをお読みします。

 あなたは王の心の望みを許し/唇の願いを拒まなかった。あなたは恵みの祝福をもって彼を迎え/その頭に黄金の冠を載せた。彼が命を願うと/あなたは長寿を代々とこしえまでも与えた。

 主は、王の心の望みを許し、唇の願いを拒みませんでした。王の心の望みとは、敵との戦いに勝利することでしょう。そのような王の望みを主は叶えてくださいました。主は、戦いに勝利して帰って来た王を、恵みの祝福をもって迎え、その頭に黄金の冠を載せてくださるのです。主は、王が命を願うと、長寿をとこしえまでも与えられるのです。このような王の詩編は、サウル王の心をどれほど慰めたことかと思います。しかし、私たちは、サウル王がペリシテ人と戦って、ギルボア山で戦死したことを知っています(サムエル上31章参照)。では、「王が命を願うと、あなたは長寿を代々とこしえまでも与えた」という神の御言葉は、空しく地に落ちたことになるのでしょうか。そうではありません。なぜなら、ここでの王は、サウル王だけに留まることなく、主が油を注がれた方を指しているからです。この預言は、サウルに代わる王として立てられるダビデ自身に、さらには、ダビデの子孫であるイエス・キリストにおいて実現することになるのです。ダビデの王の詩編は、サウル王に留まることなく、ダビデ自身のことを、さらには、ダビデの子孫であるイエス・キリストのことを歌っているのです。ダビデの詩編は、預言の言葉でもあるのです(使徒言行録の第2章のペトロの説教を参照)。

 6節から8節までをお読みします。

 王の栄光はあなたの救いによって大きくなり/あなたの威厳と輝きを彼の上に置く。あなたは永遠の祝福を彼に与え/御前の喜びによって彼を楽しませる。王は主に信頼し/いと高き方の慈しみにより、揺らぐことはない。

 このようなダビデの言葉も、サウル王の心を慰めたと思います。しかし、このような王についての言葉は、サウル王において実現することはありませんでした。なぜなら、サウルは主に信頼しなかったからです。『サムエル記上』の第15章で、主はサウルに、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは滅ぼし尽くしなさい」と命じられました。しかし、サウルは、兵士たちを恐れて、羊と牛の最も良いものを取っておいたのです。それゆえ、サムエルは、サウルにこう言いました。「あなたが主の言葉を退けたので、主はあなたをイスラエルの王位から退けられた」(サムエル上15:26)。このようにサウルは、王の位を失うことになるのです。では、サウルに代わって王となったダビデはどうでしょうか。ダビデは、サウルのような罪を犯さなかったのかと言えば、そうではありません。ダビデは、ウリヤの妻であるバトシェバと姦淫の罪を犯し、その発覚を恐れて、ウリヤをアンモン人の手によって殺してしました(サムエル下11章参照)。ダビデも主の御言葉に従うことができなかったのです(サムエル下11:27「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」参照)。しかし、主は、その慈しみ(ヘセド)のゆえに、ご自分の契約に対する誠実な愛のゆえに、ダビデの家を永遠に祝福し、揺らぐことのないようにしてくださるのです。ダビデが姦淫と殺人の罪を犯す前に、主はダビデと契約を結んでくださいました。『サムエル記下』の第7章に「ナタンの預言」、いわゆるダビデ契約が記されています。その11節から16節までをお読みします。旧約の475ページです。

 昔、私の民イスラエルの上に士師を立てた頃のように、私はあなたの敵をことごとく退け、あなたに休息を与える。主は告げられる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」

 主は、「ダビデとその子孫から慈しみを取り去ることはない」と言われます。この主の慈しみのゆえに、ダビデとその子孫であるイエス・キリストは永遠の祝福を受け、揺らぐことがないのです。復活されたイエス・キリストが、天の父なる神の右の座に着かれたことはダビデ契約の成就であるのです。

 今夕の御言葉に戻ります。旧約の836ページです。

 9節から14節までをお読みします。

 あなたの手はすべての敵を探り出し/右の手はあなたを憎む者を探り出す。主よ、御顔を現すとき/あなたは彼らを火のついた炉のようにする。主は怒りで彼らを呑み尽くし/火は彼らを食らい尽くす。あなたは彼らの実りを地から/その種を人の子らの中から滅ぼす。彼らがあなたに悪事を重ね/策略を巡らしても、果たせはしない。あなたは彼らを敗走させ/彼らの顔に向けて矢を引き絞る。主よ、力に満ちて、高くいませ。私たちはあなたの力強い業を歌い/ほめ歌を歌おう。

 ここでの「あなた」は、イスラエルの神、主のことです。ダビデは、王の戦いを、主の戦いと見なしています(サムエル上17:47「この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される」参照)。主は、人間の王を用いて、ご自分の敵を滅ぼされるのです。王の勝利を祝うダビデは、王に勝利をもたらす主の力強い業をほめ歌います。このダビデの言葉を読むと、主の敵となることがいかに恐ろしいことかが分かります。新約時代に生きる私たちにとって、「主」とは「主イエス・キリスト」のことです。かつて私たちも、主イエス・キリストに敵対して歩んでいました。しかし、主イエス・キリストは、私たちを一方的に愛してくださり、十字架の血潮によって、私たちを贖ってくださいました。そのようして、主イエス・キリストは、私たちの王となってくださったのです。私たちは、主イエス・キリストによって、神の敵である悪魔の支配から解放され、自由な神の子とされました。それゆえ、私たちは、週の初めの日ごとに集まり、主イエス・キリストの力強い御業をほめたたえているのです。私たちも油(聖霊)を注がれた王として、主イエス・キリストの力と救いを喜びたたえているのです(新共同訳、黙示1:6「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」参照)。今夕の説教題を「主の力と救いを喜ぶ王」とつけました。「主の力と救いを喜ぶ王」とは、私たち自身のことであるのです。

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