ビルダドの3回目の弁論を受けてのヨブの答え 2024年7月10日(水曜 聖書と祈りの会)
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ビルダドの3回目の弁論を受けてのヨブの答え
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 26章1節~14節
聖書の言葉
26:1 ヨブは答えた。
26:2 どのようにして、あなたは力のない者を助け/無力な腕を救ったのか。
26:3 どのようにして、知恵のない者に助言し/豊かでよき考えを授けたのか。
26:4 あなたは誰に対して言葉を告げ/誰の息があなたから出たのか。
26:5 死者の霊は恐れおののく。/彼らは水の下におり、そこに住む者たちである。
26:6 神の前では陰府もあらわで/滅びの国には覆いがない。
26:7 神は北の果てを虚空に張り/地を何もないものの上に架ける。
26:8 神は雨雲の中に水を蓄えるが/雲の底は裂けることがない。
26:9 神は御座の面を覆い/その上に雲を広げ
26:10 水の面に円を描いて/光と闇との境とした。
26:11 天の柱は震え/神の叱咤に恐れおののく。
26:12 神はその力によって海を鎮め/英知をもってラハブを打つ。
26:13 その息によって天は晴れ渡り/御手は逃げる蛇を刺し貫く。
26:14 見よ、これらは神の道の一端。/神について聞きうる言葉はなんと僅かなことか。/その力ある雷鳴を誰が悟りえようか。ヨブ記 26章1節~14節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第26章1節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、ビルダドの3回目の弁論を受けてのヨブの答えが記されています。
1節から4節までをお読みします。
ヨブは答えた。どのようにして、あなたは力のない者を助け/無力な腕を救ったのか。どのようにして、知恵のない者に助言し/豊かでよき考えを授けたのか。あなたは誰に対して言葉を告げ/誰の息があなたから出たのか。
ここでヨブは、疑問を投げかけることによって、ビルダドに、自己吟味を迫っています。ビルダドは、神の絶対的な主権について語り、人は神に対して正しくありえない、神にとって人は虫けらに過ぎないと言いました。このビルダドの言葉は正しい言葉です。しかし、力のない者を助け、知恵のない者に助言する言葉としては正しくないのです。そのことを、ヨブは、疑問を投げかけることによって、ビルダドに考えさせるのです。「私の言葉は、力のない者を助ける言葉であろうか。私の言葉は、知恵のない者に、豊かで良き考えを授ける言葉であろうか。私は、誰に対して語っているのか。私は、神の霊に導かれて語っているだろうか」。そのようなことを、ヨブは、ビルダドに考えさせるのです。このことは、舌を制することができない私たちにとっても、有益な視点ですね。「私の言葉は、力のない者を助ける言葉であろうか。私の言葉は、知恵のない者に、豊かで良き考えを授ける言葉であろうか。私は、誰に対して語っているのか。私は、神の霊に導かれて語っているだろうか」。このような自己吟味をすることが、私たちにも求められるのです。
5節から14節までをお読みします。
死者の霊は恐れおののく。彼らは水の下におり、そこに住む者たちである。神の前では陰府もあらわで/滅びの国には覆いがない。神は北の果てを虚空に張り/地を何もないものの上に架ける。神は雨雲の中に水を蓄えるが/雲の底は裂けることがない。神は御座の面を覆い/その上に雲を広げ/水の面に円を描いて/光と闇との境とした。天の柱は震え/神の叱咤に恐れおののく。神はその力によって海を鎮め/英知をもってラハブを打つ。その息によって天は晴れ渡り/御手は逃げる蛇を刺し貫く。見よ、これらは神の道の一端。神について聞きうる言葉はなんと僅かなことか。その力ある雷鳴を誰が悟り得ようか。
前回、私は、5節から14節までは、ビルダドが語ろうとしていたことを、ヨブが先取りして自分の口で語った言葉であると申しました。ビルダドは、第25章で、天における神の主権について語りました。それを引き継いで、ヨブは、地下(陰府)における神の主権と地上における神の主権について語るのです。
5節と6節に、「死者の霊は恐れおののく。彼らは水の下におり、そこに住む者たちである。神の前では陰府もあらわで/滅びの国には覆いがない」とあります。ヨブは、死者の領域である陰府においても、神は主権者として振る舞われると言うのです。
ヨブは、7節から13節で、神の創造の御業について語ります。そのことによって、地上における神の主権を語るのです。このヨブの言葉の背景には、古代オリエント世界の創造神話があるようです。例えば、12節に、「神はその力によって海を鎮め/英知をもってラハブを打つ」とあります。「ラハブ」とは海の怪物のことです。神はご自分に逆らう海をその力で鎮め、英知をもって海の怪物であるラハブを打たれます。神はその息、聖霊によって、天を晴れ渡らせ、蛇を刺し貫くのです。このような神の創造の御業は、神の道、神の支配の一端に過ぎません。人間が神について聞きうる言葉は、僅かなものでしかないのです。
14節の最後に、「その力ある雷鳴を誰が悟りえようか」とあります。古代の人々は、雷鳴を神の声と考えていました。日本でも雷(神鳴り)は、神が鳴らすものと考えられていました。その力ある雷鳴を誰も悟ることはできないとヨブは言うのです。神は雷鳴によって語っているのですが、誰もそれを理解することはできないのです。このヨブの言葉を読んで、私は、聖書のある箇所を思い起こしました。それは、『ヨハネによる福音書』の第12章に記されている御言葉です。新約の188ページです。第12章27節から29節までをお読みします。
「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
イエス様は、天からの声、「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」という声を聞きました。しかし、その天からの声を聞いた群衆は、「雷が鳴った」と言ったのです。ヨブは、「その力ある雷鳴を誰が悟りえようか」と言いましたが、神の御子であるイエス・キリストは、力ある雷鳴を悟ることができるお方であるのです。それは、イエス・キリストが、万物を造られた神その方であるからです(ヨハネ1:1~3「初めに言があった。言は神であった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらず成ったものは何一つなかった」参照)。