エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え③ 2024年6月26日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え③
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 24章13節~25節
聖書の言葉
24:13 光に逆らう者たちがいる。/彼らは光の道を知らず/その道にとどまらない。
24:14 人殺しは夜明け前に起き/苦しむ人と貧しい人を殺し/夜には盗人になる。
24:15 姦淫する者の目は夕暮れを待ち/「誰の目も私を見ていない」と言って顔を覆う。
24:16 暗闇の中で家々に忍び込み/昼は閉じこもって、光を知らない。
24:17 彼らにとって朝は死の陰に等しい。/死の陰の恐怖を彼らはよく知っているからだ。
24:18 こういう者は水面から速やかに消え去る。/その取り分はこの地で呪われ/誰もぶどう園の道に向かわない。
24:19 日照りと暑さが雪解けの水を奪うように/陰府は罪を犯す者を奪い去る。
24:20 母の胎は彼を忘れ/蛆が彼に吸い付き/もはや彼は思い出されない。/不正は木のように折られる。
24:21 彼は子を産めない不妊の女を食い物にし/やもめを幸せにしなかった。
24:22 彼はその力で権力を持つ者をも従わせるが/身を立てても、人生に頼れるものがない。
24:23 神が彼に安泰を与えるので/彼は安らかに過ごすが/神の目は彼らの道に注がれる。
24:24 彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。/彼らは低くされ/すべての者と同じように刈り集められ/麦の穂先のようにしおれてしまう。
24:25 もしそうでなかったら/一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか。
ヨブ記 24章13節~25節
メッセージ
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前回学んだ、1節から12節で、ヨブは悪しき者によって苦しめられる人々の悲惨な有り様について語りました。ヨブは、12節でこう言いました。「町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない」。このようにヨブは言うのですが、ヨブ自身は、やもめとみなしごを保護し、裸の者を羊の毛で覆いました。そのようなヨブの憐れみの業を通して、神は貧しい人々の祈りに応えてくださったのです。今朝は、その続き、第24章13節から25節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉も、エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの言葉です。
13節から17節までをお読みします。
光に逆らう者たちがいる。彼らは光の道を知らず/その道にとどまらない。人殺しは夜明け前に起き/苦しむ人と貧しい人を殺し/夜には盗人になる。姦淫する者の目は夕暮れを待ち/「誰の目も私を見ていない」と言って顔を覆う。暗闇の中で家々に忍び込み/昼は閉じこもって、光を知らない。彼らにとって朝は死の陰に等しい。死の陰の恐怖を彼らはよく知っているからだ。
ヨブが、「光に逆らう者たちがいる。彼らは光の道を知らず、その道にとどまらない」と言うとき、「光」とは神のことであり、「光の道」とは神の教え、律法のことです。前回も申しましたが、『ヨブ記』はバビロン捕囚後に記された知恵文学であり、ヨブも友人たちも、エドムの人という設定です。しかし、その読者はイスラエルの民であり、神の律法を知っていることを前提に記されています。『詩編』の第27編1節に、「主はわが光、わが救い」とあるように、「光」とは神のことであるのです。悪しき者は正しい神に逆らい、正しい神の道を知らず、正しい神の道にとどまろうとはしません。そのような彼らは光ではなく、闇に属する者であるのです。そして、実際、彼らは夜に罪を犯すのです。
ここに記されている悪しき者の罪は、殺人、盗み、姦淫の大きく3つです。悪しき者たちも、十の言葉(十戒)の「あなたは殺してはならない」(第6戒)、「あなたは盗んではならない」(第8戒)、「あなたは姦淫してはならない」(第7戒)という戒めを知っていたはずです(ローマ2:15「律法の命じる行いがその心に記されている」も参照)。しかし、悪しき者たちは、夜明け前に起き、苦しむ人と貧しい人を殺し、夜には盗人になるのです。また、悪しき者たちは、夕暮れを待ち、「誰の目も私を見ていない」と言って顔を覆い、暗闇の中で家々に忍び込み姦淫を行うのです。このような殺人や盗みや姦淫の標的とされるのが、貧しい人々であるのです。なぜなら、貧しい人々には、保護者がいないからです。悪しき者たちにとって、寄る辺のないやもめとみなしごは、搾取の対象だけではなく、犯罪の標的でもあったのです。
暗闇に紛れて罪を犯す悪しき者は、昼は閉じこもって、光を避けます。彼らにとって、朝は死の陰に等しいのです。『ヨハネによる福音書』の第3章20節に、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」とあります。同じことが、ヨブが語る悪しき者にも言えるのです。悪しき者にとって、自分たちの罪を明るみにしてしまう光こそ、恐るべき死の陰であるのです。
18節から25節までをお読みします。
こういう者は水面から速やかに消え去る。その取り分はこの地で呪われ/誰もがぶどう園の道に向かわない。日照りと暑さが雪解けの水を奪うように/陰府は罪を犯す者を奪い去る。母の胎は彼を忘れ/蛆が彼に吸い付き/もはや彼は思い出されない。不正は木のように折られる。彼は子を産めない不妊の女を食い物にし/やもめを幸せにしなかった。彼はその力で権力を持つ者をも従わせるが/身を立てても、人生に頼れるものがない。神が彼に安泰を与えるので/彼は安らかに過ごすが/神の目は彼らの道に注がれる。彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。彼らは低くされ/すべての者と同じように駆り集められ/麦の穂先のようにしおれてしまう。もしそうでなかったら/一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか。
私たちが以前に用いていた新共同訳は、18節から24節をカッコで括って、ヨブが友人たちの言葉を引用したと解釈していました。新共同訳で、ヨブは、友人たちの言葉を引用したうえで、「だが、そうなっていないのだから/誰が、わたしをうそつきと呼び/わたしの言葉をむなしいものと/断じることができるか」と言うのです。「あなたたちは『悪人は滅びる』と言うけれども、その通りになっていないじゃないか。だから、私が語った『悪人は繁栄している』ことを、誰も偽りと言うことはできない」とヨブは言うのです。
しかし、聖書協会共同訳では、そのような解釈をとらないで、18節から24節を、ヨブ自身の言葉としています。何度も申しますように、ヨブは友人たちの語る応報原理の神を信じていませんが、応報思想の神は信じています。ヨブは、「良い行いには、良い報いを与え、悪い行いには悪い報いを与える神」を信じているのです。そして、そのような神を信じる人が増えれば増えるほど、その社会は、罪を犯す悪しき者が速やかに消え去る社会となるのです。例えば、「いじめをする人は悪い」という価値観が多くの人に共有されることになれば、社会からいじめは無くなっていくわけです。しかし、もし、「いじめられる方が悪い」という価値観が多くの人に共有されるならば、いつまでも、その社会からいじめは無くならないわけです。
ヨブは、18節から24節で、悪しき者が受ける悪い報いについて語るわけですが、それは応報思想から「かくあるべし」と、机上の空論を語るのではなく、これまでのように、社会の現実から語っているのだと思います。ですから、ヨブは、23節で、「神が彼に安泰を与えるので、彼は安らかに過ごす」と言うのです。第21章でヨブは、悪しき者の繁栄を語りましたが、現実の社会では、神が悪人に安泰を与えているとしか思えないことがあるのです。しかし、それでも、ヨブは神がすべてをご覧になっており、悪しき者を滅ぼされることを信じています。24節で、ヨブはこう言います。「彼らはしばらくの間、高くされるが/やがて姿を消す。彼らは低くされ/すべての者と同じように刈り集められ/麦の穂のようにしおれてしまう」。このように、ヨブは正しい神が悪しき者に罰を与えて、滅ぼされることを信じているのです。ヨブは続けてこう言います。「もしそうでなかったら、一体、誰が私を偽り者とし/私の言葉を空しくすることができるだろうか」。ここでの「私」とは、「自分は正しいのに、不正な扱いを受けていると主張するヨブ」のことです。また、「私の言葉」とは、「私は正しいのに不正な扱いを受けている。正しくないのは神の方である」というヨブの言葉のことです。ヨブにとって、神が悪しき者には悪い報いを与えるという応報思想は、自分の正しさを主張するための土台でもあるのです。ヨブは、正しい者には良い報いを与え、悪しき者には悪い報いを与える神を信じるゆえに、正しい自分が災いを被っていることを、神の不正として告発することができるのです。