エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2024年6月12日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 24章1節~12節
聖書の言葉
24:1 全能者は時を隠していないのに/なぜその方を知る者が/その日を見ることができないのか。
24:2 人々は地の境を動かし/家畜の群れを奪い取って、それを飼う。
24:3 彼らはみなしごのろばを連れ去り/やもめの雄牛を質に取る。
24:4 彼らは貧しい人を道から押しのけるので/その地の苦しむ人々は皆、身を隠す。
24:5 見よ、荒れ野の野ろばを。/彼らも労苦するために出て行く。/荒れ地で獲物を探し、子どもたちの食物にする。
24:6 野で飼い葉を集め/悪しき者のぶどう園で、摘み残しの実を集める。
24:7 衣服もなく、裸で夜を過ごし/寒さを防ぐ覆いもない。
24:8 山の雨に濡れ/身を避ける所もなく、岩にしがみつく。
24:9 みなしごは母の乳房から引き離され/貧しい人の乳飲み子は質に取られる。
24:10 衣服もなく、裸で歩き/飢えたまま麦の束を運ぶ。
24:11 オリーブの並木の間で油を搾り/搾り場でぶどうを踏んで、なお渇く。
24:12 町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない。ヨブ記 24章1節~12節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第24章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。ここには、エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの言葉が記されています。
1節から12節までをお読みします。
全能者は時を隠していないのに/なぜその方を知る者が/その日を見ることができないのか。人々は地の境を動かし/家畜の群れを奪い取って、それを飼う。彼らはみなしごのろばを連れ去り/やもめの雄牛を質に取る。彼らは貧しい人を道から押しのけるので/その地の苦しむ人々は皆、身を隠す。見よ、荒れ野の野ろばを。彼らも労苦するために出て行く。荒れ地で獲物を探し、子どもたちの食物にする。野で飼い葉を集め/悪しき者のぶどう園で、摘み残しの実を集める。衣服もなく、裸で夜を過ごし/寒さを防ぐ覆いもない。山の雨に濡れ/身を避ける所もなく、岩にしがみつく。みなしごは母の乳房から引き離され/貧しい人の乳飲み子は質に取られる。衣服もなく、裸で歩き/飢えたまま麦の束を運ぶ。オリーブの並木の間で油を搾り/搾り場でぶどうを踏んで、なお渇く。町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない。
ヨブは、1節で、「全能者は時を隠していないのに/なぜその方を知る者が/その日を見ることができないのか」と言います。ここでの「時」は「神の裁きの時」であり、「その日」とは「神が悪しき者を裁かれる日」のことです。ヨブは、応報原理の神は信じていませんが、応報思想の神は信じています。ヨブは、神が悪い行いには悪い報いを与え、良い行いには良い報いを与えることを信じています。ヨブは神の正しい裁きを信じているのです。しかし、問題は、神を知る者、神を頼りとする者が、神の裁きの日を見ることができないということであるのです。
『ヨブ記』は、旧約聖書の中でも後期の文書であると考えられています(ただし、物語の時代設定としては族長時代である。42:11、創世33:19「ケシタ」参照)。ある研究者は、『ヨブ記』が執筆されたのは、バビロン捕囚後の時代、紀元前5世紀頃であると言っています。『ヨブ記』は知恵文学であり、登場人物であるヨブも三人の友人もエドム人という設定です。しかし、『ヨブ記』はヘブライ語で記されており、神の掟を知っているイスラエルの民に向けて記されています(『ヨブ記』の読者は神の掟を知っているイスラエルの民である)。今朝の御言葉も、イスラエルの民に与えられた神の掟を前提にして記されています。
2節に、「人々は地の境を動かし/家畜の群れを奪い取って、それを飼う」とあります。神がイスラエルに与えた掟によれば、地の境を動かしてはなりませんでした。『申命記』の第19章14節に、こう記されています。「あなたが受け継ぐ相続地、あなたの神、主があなたに所有させる地で、先祖が初めに定めた隣人との地境を動かしてはならない」。しかし、悪しき人々は地境を動かして、所有地を広げ、他人の家畜を暴力によって奪い取っていたのです。
悪しき者は、親がいないみなしごのろばを連れ去り、夫となくしたやもめの雄牛を質に取ります。「みなしごとやもめ」は、社会的な弱者であり、神が特別に心にかけてくださる者たちでした。『出エジプト記』の第22章21節から26節までをお読みします。旧約の121ページです。
いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる。あなたのところにいる私の民、貧しい者たちに金を貸すときは、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利息を取ってはならない。もしあなたの隣人の上着を質に取るようなことがあっても、日が沈むまでに彼に返さなければならない。それは、彼のただ1つの服、肌を覆う上着だからである。彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。彼が私に向かって叫ぶとき、私はそれを聞き入れる。私は憐れみ深いからである。
古代の家父長制社会において、父親がいないみなしごと夫がいないやもめは、寄る辺のない者たちでした。それゆえ、神は「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない」と言われるのです。神は「寡婦と孤児の叫びを必ず聞いて、報復する」と言われるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の793ページです。
神は、「いかなるやもめもみなしごも苦しめてはならない」と言われました。しかし、神を恐れない悪しき人々にとって、やもめとみなしごは搾取の対象であったのです。悪しき者はみなしごのろばを連れ去り、やもめの雄牛を質に取って、彼らを無一文にして、苦しめるのです。
悪しき者によって苦しめられ、生活を追われた人々を、ヨブは「荒れ野の野ろば」にたとえます(5節)。荒れ野の野ろばが食べ物を探してうろつくように、貧しい人々も食べ物を求めてうろつくのです。6節に、「悪しき者のぶどう園で、摘み残しの実を集める」とあります。この記述は『申命記』の第24章21節の御言葉を思い起こさせます。「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである」。悪しき者が、神の掟に従って、ぶどうを摘み残しておいたとは考えにくいことです。そうであれば、私たちはここに、貧しい人々に対する神の養いを見ることができます。
7節に、「衣服もなく、裸で夜を過ごし/寒さを防ぐ覆いもない」とあります。裸とは動物と同じ状態であり、人間の尊厳が奪われた状態を表しています。先程、『出エジプト記』の第22章に記されている掟を読みました。そこには、「あなたの隣人の上着を質に取るようなことがあっても、日が沈むまでに彼に返さなければならない。それは、彼のただ1つの服、肌を覆う上着だからである。彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか」とありました。しかし、ヨブが語る貧しい人々は、「衣服もなく、裸で夜を過ごし、寒さを防ぐ覆いもない」のです。
みなしごは母親から引き離され、貧しい人の子どもは質に取られて、奴隷とされます(列王下4:1参照)。奴隷とされた子どもは、衣服もなく、裸で歩き、飢えたまま、麦の束を運ぶのです。また、搾り場でぶどうを踏みながら、渇くのです。奴隷とされた子どもには、神が家畜に許されたことさえ、許されていないのです。『申命記』の第25章4節にこう記されています。「脱穀している牛に、口籠をはめてはならない」。神は、脱穀している牛が、その実を食べることを許されました。しかし、奴隷とされた子どもは、背負っている麦を食べることも、踏んでいるぶどうの汁を飲むことも許されていないのです。
苦しみの中にある人々は呻き、神に向かって叫びます。しかし、「神はその惨状を心に留めない」とヨブは言うのです。先程お読みした『出エジプト記』の第22章に、「彼が私に向かって叫ぶとき、私はそれを聞き入れる。私は憐れみ深いからである」と記されていました。しかし、ヨブは、「町から男たちの呻きが聞こえ/傷ついた者たちの魂が叫ぶが/神はその惨状を心に留めない」と言うのです。
けれども、本当にそうでしょうか。私たちが確認してきたように、神は「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない」と命じられました。また、「ぶどうの摘み残したものは、寡婦や孤児の食糧である」と言われました。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」のであれば、人間がお腹を空かせながら麦を運び、渇きながらぶどうを踏むことは、あってはならないことです。これらの神の掟から分かることは、神は貧しい人々の惨状に心を留めてくださる御方であるということです。
何より、「神はその惨状を心に留めない」と言ったヨブが、やもめとみなしごを保護していました。第31章16節から22節でヨブはこう言っています。旧約801ページです。
もし、私が弱い人々の喜びとするものを拒み/やもめの目を衰えさせたなら。食べ物を独り占めにして食べ/みなしごに食べさせなかったことがあるなら。そうだ、私は若い頃から父親のように彼を育て/私の母の胎にいたときから彼女を導いたのだ。もし、私が、衣服もなく死にゆく人や/覆うものがない貧しい人を見たときに/彼が私を祝福せず/私の羊の毛で彼が温められなかったなら/もし、私に味方する者が門にいるのを/見たからといって/私がみなしごに手を振り上げたならば/私の肩の骨が肩から落ち/私の腕が付け根からおられてもかまわない。
ヨブは、「神はその惨状を心に留めない」と言いました。しかし、そのヨブを通して、神はやもめとみなしごを保護し、裸の者に衣服を与えてくださったのです。同じことが、私たちにも言えます。父なる神は、私たちに憐れみの心を与えて、私たちの憐れみの業を用いて、苦しむ人々の祈りに応えてくださっているのです。私たちの施しは、神の憐れみの業であります。憐れみ深い神は、私たちの施しを用いて、苦しむ人々を助けてくださるのです(摂理論の協働の教理、ルカ12:32~34「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」参照)。