主は私の羊飼い
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 詩編 23編1節~6節
23:1 賛歌。ダビデの詩。/主は私の羊飼い。/私は乏しいことがない。
23:2 主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。
23:3 主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。/あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
23:5 私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。/私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
23:6 命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。/私は主の家に住もう/日の続くかぎり。
詩編 23編1節~6節
序.
先月で『コヘレトの言葉』の学びを終えましたので、今月から月に一度の夕べの礼拝では『詩編』をご一緒に学びたいと思います。今夕は、第23編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.主は私の羊飼い
1節をお読みします。
賛歌。ダビデの詩。主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
1節前半に、「賛歌。ダビデの詩」とあるように、第23編は、イスラエルの王であるダビデの詩です。ダビデは、ペリシテ人の代表戦士であるゴリアトを倒して、サウル王に見いだされるまで、羊飼いでした(サムエル上17:34〜36参照)。かつて羊飼いであったダビデが、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」と言うのです。ここでの「主」は、その昔、神様がホレブの山で、モーセに示されたお名前です。「主」とはヤハウェと発音されたであろうお名前で、「私はいる」という意味です(出エジプト3:14参照)。主、ヤハウェというお名前には、「私はあなたと共にいる」という約束が含まれているのです(出エジプト3:12参照)。主は、イスラエルの民をエジプトから導き出し、40年間荒れ野で養われ、約束の地カナンに住まわせてくださいました。そればかりか、主は、イスラエルの民からダビデを選び、その頭に油を注いで、イスラエルのメシア、王としてくださいました。その主を、ダビデは「私の羊飼い」と呼ぶのです。ここでは、主が羊飼いに、ダビデがその羊に喩えられています。そして、「羊飼い」には「王」という意味もあるのです(エゼキエル34:23参照)。ですから、「主は私の羊飼い」というダビデの言葉には、「主は私の王」という意味も込められているのです。イスラエルの民にとって、羊は身近な家畜でした。羊は弱く、自分で餌にありつくことも、自分で狼から身を守ることもできません。羊は近くのものしか見えず、すぐ迷子になってしまいます(ルカ15:1〜7参照)。ダビデは、自分をそのような羊であると言うのです。そして、その羊である自分を導き、養い、守ってくださる羊飼い、王こそ、主であると言うのです。ダビデは、「私は乏しいことがない」と言いますが、それはひとえに、「主が私の羊飼い」であるからです。ダビデは、羊飼いである主への全幅の信頼から、「私は乏しいことがない」と言うのです。新約時代に生きる私たちにとって、羊飼いである主とは、主イエス・キリストであります。『ヨハネによる福音書』の第10章で、イエス様は、こう言われました。「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。私たちの良い羊飼いであるイエス・キリストは、私たちが命を得るために、自らの命を捨ててくださいました。私たちは良い羊飼いであるイエス・キリストにあって、永遠の命を与えられているのです。ですから、私たちもダビデと同じように、「私は乏しいことがない」と言うことができるのです。
2.魂を生き返らせ、正しい道へ導かれる
2節と3節をお読みします。
主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ/御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
ここには、「私は乏しいことがない」という状態がどのような状態であるかが記されています。イスラエルは荒れ野の多い、緑の少ないところですが、羊飼いである主は、御自分の羊であるダビデを、緑の野に伏させ、憩いの汀に伴ってくださるのです。ここには、食べ物と飲み物を十分に与えられて、安心してくつろいでいる羊の姿が描かれています。良い羊飼いであるイエス・キリストは、私たちに日毎の糧を与えてくださり、心と体を休ませる場所を備えてくださいます。主イエス・キリストは、霊の糧である御言葉をもって、私たちの魂を生き返らせてくださいます。主は聖霊と御言葉によって、私たちを神の御心に適う正しい道へと導いてくださるのです。
3.死の陰の谷を歩むとも
4節をお読みします。
たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
「死の陰の谷」とは「死が迫っている人生の苦難」を意味します。ダビデは、サウル王に命を狙われて、逃亡生活をしました。また、息子アブサロムからも命を狙われて、逃亡生活をしました。ダビデの生涯には、死の陰の谷としか言い表せない苦難のときがあったのです。しかし、そのようなときも、「私は災いを恐れない」と言うのです。それは、羊飼いである主が、ダビデと共にいてくださるからです。羊飼いである主の鞭と杖がダビデを慰めるからです。「鞭」は羊を狼から守るための道具です。また、「杖」は羊を導くための道具です。ですから、「主の鞭と杖」とは、「主の守りと導き」を意味しています。どのような困難の中にあっても、主イエス・キリストが聖霊と御言葉において、私たちと共にいてくださり、私たちを悪しき者から守り、私たちを憩いの汀である礼拝へと導いてくださる。そのようにして、主イエス・キリストは、私たちを慰め、励まし、力づけてくださるのです(マタイ1:23、28:20参照)。
4.食卓を整えてくださる
5節をお読みします。
私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる。
1節から4節までは、主が羊飼いに、ダビデが羊に喩えられていました。5節と6節では、主が客をもてなす主人に、ダビデが敵から逃れて来た客人に喩えられています。アラビアの砂漠の民にとって、住居である天幕は聖なる逃れの場でした(創世19:8参照)。ダビデは、自分を主の幕屋に迎えられた客人に喩えて、こう歌います。「私を苦しめる者の前で/あなたは私に食卓を整えられる」。実際に、このようなことがあったことが、『サムエル記下』の第17章に記されています。旧約の495ページです。第17章27節から29節までをお読みします。
ダビデがマハナイムに着くと、ラバ出身のアンモン人ナハシュの子ショビ、ロ・デバル出身のアミエルの子マキル、ロゲリム出身のギルアド人バルジライとが、寝具、平鉢、陶器、小麦、大麦、麦粉、炒り麦、豆、レンズ豆、炒り豆、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデや彼と共にいる人々に食べてもらおうと持ってきた。人々が荒れ野で飢え、疲れ、渇いていると思ったからである。
このように主は、アブサロムの手から逃れて来たダビデたちに、食卓を整えてくださったのです。主はダビデの頭に油を注いで、イスラエルの王としてくださり、ダビデの杯とも言える人生を祝福で満たしてくださるのです。このようなダビデの実体験が詩編の背後にはあるのです。
今夕の御言葉に戻ります。旧約の839ページです。
先程、私は、「アラビアの砂漠の民にとって、天幕は聖なる逃れ場であった」と申しました。私たちにとって、教会でささげられる礼拝こそ、聖なる逃れ場であると言えます。その礼拝の場において、主イエス・キリストは、パンとぶどう汁からなる食卓を整えてくださいます(主の晩餐の礼典)。主イエス・キリストは、私たちに聖霊を注いで、私たちのそれぞれの人生を祝福で満たしてくださるのです(祝祷、祝福の言葉)。
結.主の家に住もう
6節をお読みします。
命あるかぎり/恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう/日の続くかぎり。
ここでダビデは、「自分を追うのは、命を狙う者や苦しめる者ではなくて、主の恵みと慈しみである」と言います。ダビデは主によって油を注がれ、祝福された者として、「命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う」と言うのです。私たちも主イエス・キリストによって聖霊を注がれ、祝福されている者として、「命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う」と言うことができます(ローマ8:28参照)。
ダビデが、「私は主の家に住もう、日の続くかぎり」と言うとき、その「主の家」とは、主の天幕のことではなく、息子のソロモンが建てる神殿のことを言っているようです(サムエル下7:12、13参照)。ダビデは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によって、「私は主の家に住もう/日の続くかぎり」と言うのです(新共同訳、ヘブライ11:1参照)。新約時代に生きる私たちにとって、「主の家」とは「キリストの教会」であります。さらに言えば、主イエス・キリストの再臨によって到来する新しい天と新しい地であります(黙示21:3「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる」参照)。良い羊飼いである主イエス・キリストによって、礼拝へと導かれ、聖霊を注がれ、主の食卓にあずかっている私たちは、主イエス・キリストがおられる新しい天と新しい地に、とこしえに住むことになるのです。