エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2024年6月05日(水曜 聖書と祈りの会)

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エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 23章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:1 ヨブは答えた。
23:2 今日もまた、私の不平は激しく/私の手は嘆きのゆえに重い。
23:3 私は知りたい。/どうしたら、私はその方に会えるのか/御座にまで行けるのか。
23:4 私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。
23:5 私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。
23:6 その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。/いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。
23:7 そこでは、正しい人がその方と論じることができ/私は永遠に裁きから解放される。
23:8 しかし、私が東に進んでも、その方はおらず/西に行っても、認めることはない。
23:9 北でその方が事をなしても、私には見えず/南で向きを変えても、見ることはできない。
23:10 しかし、神は私と共にある道を知っている。/その方が私を試せば、私は金のように価値を現す。
23:11 私の足はその方の歩みをしっかりと捉え/私はその道を守って、それることはない。
23:12 その唇が与えた戒めから私は離れず/私の掟よりも、その口から出た言葉を心に納める。
23:13 しかし、神は唯一であり/誰もその心を翻すことはできない。/神は望むがままに行う。
23:14 神は私の掟を行うが/そのような掟は、数多く神の心にある。
23:15 それゆえに、私は御前でおびえ/思い巡らすほど、神を恐れる。
23:16 神は私の心を弱くし/全能者は私をおびえさせる。
23:17 暗闇を前にしても/目の前を闇で覆われても/私が滅ぼされることはない。
ヨブ記 23章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第23章1節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、「エリファズの3回目の弁論を受けてのヨブの答え」が記されています。

 1節から9節までをお読みします。

 ヨブは答えた。

 今日もまた、私の不平は激しく/私の手は嘆きのゆえに重い。私は知りたい。どうしたら、私はその方に会えるのか/御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べ/口を極めて抗議したい。私はその方の答えを知り/私に言われることを悟りたい。その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。いや、きっと私を心に留めてくださるだろう。そこでは、正しい人がその方と論じることができ/私は永遠に裁きから解放される。しかし、私が東に進んでも、その方はおらず/西に行っても、認めることはない。北でその方が事をなしても、私には見えず/南で向きを変えても、見ることはできない。

 第22章で、エリファズは、ヨブが被っている災いから、ヨブが悪しき者であると決めつけ、不義を離れて立ち帰るようにと語りました。そうすれば、幸いが訪れ、元どおりにされると語ったのでした。しかし、ヨブにとって問題は、将来ではなく、今日であるのです。ヨブは、「今日もまた、私の不平は激しく/私の手は嘆きのゆえに重い」と語ります。それは、ヨブを苦しめている災いがヨブの罪のゆえではなく、神のゆえであるからです。

 エリファズは、第22章4節で、「神を畏れるからといって、神はあなたを弁護し、あなたと共に裁きの場に臨むだろうか」と言いました。このエリファズの言葉を受けて、ヨブは、「私は知りたい。どうしたら、私はその方に会えるのか/御座にまで行けるのか。私は御前で訴えを並べて、口を極めて抗議したい」と言うのです。ヨブは三人の友人たちと議論を重ねてきました。しかし、ヨブが本当に議論したい御方は神であるのです。三人の友人たちは、「ヨブは悪しき者である。ヨブの苦しみはヨブの罪が原因である」と語りました。しかし、ヨブが知りたいことは、神の答えであり、神が自分に何と言われるかであるのです。ヨブは神の御前に出て、訴えを並べ立てる自分の姿を思い描きます。さらには、その自分に対して神がどのように振る舞われるかを思い描くのです。「その方は強大な力を発揮して/私と論争するだろうか。いや、きっと私を心に留めてくださるだろう」。ヨブは、神が自分を有罪に定めるのではなく、無罪を宣告してくださることを期待します。ここには、ヨブの自分は正しいという自負心があります。ヨブは、自分が神の法廷に出ることができれば、「永遠に裁きから解放される」と言うのです。これは、神の御前に正しい者として公に宣言されて、友人たちとの議論からも解放されるということでしょう。しかし、問題は、神がヨブから身を隠しておられるということです。東に進んでも、西に行っても、北でも、南でも、神を見いだすことはできないのです。ヨブは神にお会いして、「なぜ、私をこのような災いに遭わせられるのか」と抗議したいのに、神はヨブから身を隠しておられるのです。

 10節から17節までをお読みします。

 しかし、神は私と共にある道を知っている。その方が私を試せば、私は金のように価値を現す。私の足はその方の歩みをしっかりと捉え/私はその道を守って、それることはない。その唇が与えた戒めから私は離れず/私の掟よりもその口から出た言葉を心に納める。しかし、神は唯一であり/誰もその心を翻すことはできない。神は望むままに行う。神は私の掟を行うが/そのような掟は、数多く神の心にある。それゆえに、私は御前でおびえ/思い巡らすほど、神を恐れる。神は私の心を弱くし/全能者は私をおびえさせる。暗闇を前にしても/目の前を闇で覆われても/私が滅ぼされることはない。

 このヨブの言葉は、第22章のエリファズの言葉への反論とも言えます。エリファズは、第22章5節で「あなたの悪は多く/あなたの過ちは果てしないではないか」と言いました。エリファズは、ヨブは多くの悪と過ちを犯したと言うのです。そして、ヨブに覚えのない罪を数え上げて、ヨブの発言をねじ曲げて、悪しき者であると断罪するのです。しかし、ヨブは、「神は私と共にある道を知っている。その方が私を試せば、私は金のように価値を現す」と言うのです。ヨブの関心は、人から裁かれることではなく、神によって裁かれることであるのです。ヨブは、神による裁きだけが正しい裁きであることを知っているのです。ヨブは、自分が神の御心に適う道をしっかりと歩んできたと言います。エリファズは、第22章22節で、「神の口から教えを受け/その言葉を心に留めてほしい」と言いました。そのようなことは、エリファズに言われるまでもないことです。ヨブは神の戒めから離れず、その言葉を心に納めて歩んできたのです。では、そのようなヨブが、なぜ、悪しき者であるかのように災いを被っているのか。その謎は、唯一の神にあるのです。神は自由な主権をもって、望むままに行われます。14節に、「神は私の掟を行うが、そのような掟は、数多く神の心にある」とあります。ここでの「掟」を新共同訳は「定めたところ」と訳していました。「わたしのために定めたことを実行し/ほかにも多くのことを定めておられる」(新共同訳)。ヨブの今の状態も、これから起こることも、神が定められたことであるのです。それゆえ、ヨブは御前でおびえ、そのことを思い巡らすほど神を恐れると言うのです。ヨブにとって神は得体の知れない神であるからですね。ヨブは、正しい行いには良い報いを与え、悪い行いには悪い報いを与える応報思想の神を信じていました。しかし、正しい自分が悪い報いを受けることによって、神が暴君のような恐ろしい存在となってしまったわけです。神は、ヨブから財産と子供たちと健康と社会的な地位を奪うことにより、ヨブの心を弱くし、脅えさせます。しかし、ヨブは、「暗闇を前にしても/目の前を闇で覆われても/私が滅ぼされることはない」と言うのです。「私が神の道を歩んできたことを知っている神は、私を滅ぼすことはなさらない」と言うのです。ヨブは神を恐れながらも、神が正しい自分を心に留めてくださることを信じているのです。

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