ツォファルの2回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2024年5月15日(水曜 聖書と祈りの会)
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ツォファルの2回目の弁論を受けてのヨブの答え②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 21章17節~34節
聖書の言葉
21:17 幾たびも、悪しき者の灯は消え/災いが彼らに臨み/神が怒りによって滅びを与える。
21:18 彼らは風に吹かれるわらのようになり/もみ殻のように突風に吹き払われる。
21:19 神がその子らのために富を取っておき/彼に報いを与えることを、彼は知るであろう。
21:20 彼の目は自分の不幸を見/全能者の憤りを飲む。
21:21 彼の年月が尽き果てたとき/残された家にどんな喜びがあるだろう。
21:22 彼は神に知識を教えるのだろうか/神は高きにいる人々をも裁くのではないか。
21:23 ある者は十分に満ち足りて死ぬ。 /彼らは皆、平穏で安らかだ。
21:24 彼の器は乳で満ち/骨の髄まで潤っている。
21:25 しかし、ある者は魂の苦しみを抱いて死に/幸せを享受することがない。
21:26 彼らは等しく塵に伏し/蛆が彼らを覆う。
21:27 私はあなたがたの企てを知っている/私を害するたくらみを。
21:28 あなたがたは言う。/「貴族の家はどこにあるか。/悪しき者が住んでいる天幕はどこにあるか」と。
21:29 あなたがたは道を通る人に尋ねなかったのか。/彼らの証言を認めなかったのか。
21:30 悪人は災いの日を免れ/怒りの日に連れ出されている。
21:31 誰が彼に向かってその道を示すことができるのか。/誰がその仕業に報いることができるのか。
21:32 彼は墓に運ばれ/塚の上には見張りが立つ。
21:33 彼には谷間の土くれも心地よく/人は皆、彼の後に従い/彼の前にも人は数えきれない。
21:34 どうして、あなたがたは/空しい言葉で私を慰めるのか。/あなたがたの答えは欺きにすぎない。ヨブ記 21章17節~34節
メッセージ
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直前の第20章で、ツォファルは応報思想の徹底化とも言える応報原理によって、悪しき者の滅びについて語りました。それに対して第21章で、ヨブは恐れつつも、悪しき者が栄えている現実について語るのです。悪しき者は、神にこう言います。第21章14節と15節です。「私たちから離れてくれ。あなたの道など、私たちは知ろうとは思わない。全能者とは何者なのか。我々が仕えなければならないとは。彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」。悪しき者にとって、神に仕えるのは自分の利益のためでありました。それゆえ、健康で、子どもたちに囲まれ、多くの財産を持ち、幸せに過ごしている悪しき者は、神に仕える必要を感じないのです。そのような悪しき者の考えから、ヨブは遠いと言います。16節の後半に、「悪しき者の謀は私から遠い」とありますが、これによって、ヨブは自分と悪しき者との間に一線を引いているのです。ここまでは前回の振り返りです。今朝は、17節から34節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
17節から21節までをお読みします。
幾たびも、悪しき者の灯は消え/災いが彼らに臨み/神が怒りによって滅びを与える。彼らは風に吹かれるわらのようになり/もみ殻のように突風に吹き払われる。神がその子らのために富を取っておき/彼に報いを与えることを、彼は知るであろう。彼の目は自分の不幸を見/全能者の憤りを飲む。彼の年月が尽き果てたとき/残された家にどんな喜びがあるだろう。
16節で、「悪しき者の謀は私から遠い」と言ったヨブは、応報思想を否定するものではありません。ヨブが否定するのはいつもそうなるとする応報原理であります。それゆえ、ヨブは「幾たびも」と言うのです。神は怒りによって悪しき者に滅びを与えられます。しかし、それは必ずではなく、「幾たびも」であるのです。現実には、悪しき者が幸せに一生を過ごし、平穏に陰府に下ることもあるのです。悪しき者がもみ殻のように突風に拭き払われることも必ずではなく、「幾たびも」であるのです(口語訳参照)。
私たちが用いている聖書協会共同訳は、17節以下を平叙文で訳しています。しかし、以前用いていた新共同訳は疑問文で訳していました(口語訳、新改訳、新改訳2017も同じ)。新共同訳で、17節から21節までをお読みします。
神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い/神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。藁のように風に吹き散らされ/もみ殻のように/突風に吹き飛ばされたことがあろうか。神は彼への罰を/その子らの代にまで延ばしておかれるのか。彼自身を罰して思い知らせてくださればよいのに。自分の目で自分の不幸を見/全能者の怒りを飲み干せばよいのだ。人生の年月が尽きてしまえば、残された家はどうなってもよいのだから。
新共同訳の翻訳ですと、意味がよく分かります。ヨブは、「神が怒って悪しき者を滅ぼしたことが何度あろうか」と問うことによって、滅ぼされない現実を認めています。しかし、だからと言って、自分も悪を行おうとは思いません。むしろ、ヨブは神が悪しき者を罰して、思い知らせてくださればよいのにと言うのです。イスラエルには、「先祖の罪をその子孫が負う」という考え方がありました(エゼキエル18章「父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」参照)。しかし、ヨブは、悪しき者が生きている内に、自分でその罰を受けるべきであると言うのです。
22節から26節までをお読みします。
彼は神に知識を教えるのだろうか/神は高きにいる人々をも裁くのではないか。ある者は十分に満ち足りて死ぬ。彼らは皆、平穏で安らかだ。彼の器は乳で満ち/骨の髄まで潤っている。しかし、ある者は魂の苦しみを抱いて死に/幸せを享受することがない。彼らは等しく塵に伏し/蛆が彼らを覆う。
「彼は神に知識を教えるだろうか」の「彼」は文脈から言うと「悪しき者」のことです。「悪しき者は神に知識を教えるだろうか」。ここでヨブが言いたいことは、悪しき者の振る舞いによって、神の自由が拘束されることはないということです。高きにいる人々(天使?)をも裁かれる神は、自由に裁くのです。そして、その神の自由を、私たち人間が束縛することはできないのです。神は自由な主権によって、ある者を満ち足らせて、安らぎを与えられます。また、神は自由な主権によって、ある者を苦しめ、幸せを享受することがないようにするのです。その人が悪しき者であるか、正しい者であるかにかかわらず、神はある者を満ちたらせ、また、ある者を苦しめるのです。そして、神はすべての人間を等しく塵に伏させ、蛆で覆われるのです。満ち足りた者も苦しむ者も等しく死ぬことになるのです(コヘレト9:1~3参照)。
27節から34節までをお読みします。
私はあなたがたの企てを知っている。私を害するたくらみを。あなたがたは言う。「貴族の家はどこにあるか。悪しき者が住んでいる天幕はどこにあるか」と。あなたがたは道を通る人に尋ねなかったのか。悪人は災いの日を免れ/怒りの日に連れ出されている。誰が彼に向かってその道を示すことができるのか。誰がその仕業に報いることができるのか。彼は墓に運ばれ/塚の上には見張りが立つ。彼には谷間の土くれも心地よく/人は皆、彼の後に従い/彼の前にも人は数えきれない。どうして、あなたがたは、空しい言葉で私を慰めるのか。あなたがたの答えは欺きにすぎない。
ヨブは、「あなたがたは、私を害することを企んでいる」と言って、友人たちを非難します。友人たちは、「貴族の家はどこにあるか。悪しき者が住んでいる天幕はどこにあるか」と言って、悪しき者は人々の記憶から消え失せると語りました(18:17、18参照)。しかし、道を通る人、旅人に尋ねるならば、そうではないことが分かると言うのです。ここでもヨブは、現実に基づいて、悪人が災いの日を免れていること。立派な墓に葬られ、その塚の上には見張りが立つことを指摘します。三人の友人たちの発言は、応報原理に基づくものであり、「かくあるべし」という彼らの願望であるのです。それゆえ、ヨブは、友人たちの言葉を空しい言葉であると言うのです。さらには、友人たちの答えは欺きに過ぎないと言うのです。このように、ヨブは応報思想の神を信じていても、応報原理の神を信じていないのです。