ツォファルの2回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2024年5月08日(水曜 聖書と祈りの会)
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ツォファルの2回目の弁論を受けてのヨブの答え①
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- 説教
- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 21章1節~16節
聖書の言葉
21:1 ヨブは答えた。
21:2 私の言葉をよく聞いてほしい。/これがあなたがたの慰めとなるように。
21:3 私を立てて、この私に語らせてほしい。/私が語った後で、嘲ってくれ。
21:4 私の嘆きは人に向かってであろうか。/どうして、私の気が短くなってはいけないのか。
21:5 私を見て驚け。/口に手を当てよ。
21:6 私は思い出す度におびえ/私の肉は揺さぶられる。
21:7 どうして、悪しき者が生き長らえ/老年に達して、なお力を増すのか。
21:8 その子孫は彼らの前に/その裔は彼らの目の前に揺るぎなく立つ。
21:9 彼らの家は平和で、恐れもなく/神の杖が彼らに臨むことはない。
21:10 その雄牛は子を宿らせて、損じることなく/雌牛は出産で子を死なせることはない。
21:11 彼らは子らを群れのように連れ出し/子どもたちは舞い踊る。
21:12 彼らはタンバリンや琴に合わせて歌い/笛の音に歓喜する。
21:13 彼らはその一生を幸せに過ごし/平穏に陰府に下る。
21:14 彼らは神に向かって言う。/「私たちから離れてくれ。/あなたの道など、私たちは知ろうとは思わない。
21:15 全能者とは何者なのか/我々が仕えなければならないとは。/彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と。
21:16 彼らの幸いはその手の内にないというのか。/悪しき者の謀は私から遠い。ヨブ記 21章1節~16節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第21章1節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、ツォファルの二回目の弁論を受けてのヨブの答えが記されています。
第20章で、ツォファルは、善い行いには良い報いが与えられ、悪い行いには悪い報いが与えられるという応報思想に基づいて、悪人の滅びについて語りました。ツォファルは、悪しき者の楽しみは束の間であり、必ず消え去ると語りました。ここにあるのは、応報思想を徹底化し、必ずそうなるとする応報原理です。その応報原理から、ツォファルは、悪い報いを受けているヨブを、悪しき者であると決めつけるのです(20:19参照)。神は、良い行いには良い報いを与え、悪い行いには悪い報いを与えられます。ですから、神は応報思想の神であるとも言えます。しかし、その応報思想を原理として、神を規定するとすれば、それは人間の傲慢であると言えるのです。三人の友人たちの間違いはこの点にあります。彼らは、応報思想を原理として、神を規定するのです。ヨブは応報思想の神を信じていますが、応報原理の神は信じていません。ここに、ヨブと友人たちとの大きな違いがあるのです(ヨブ42:7参照)。
ヨブはこれまで、正しい自分が災いを受けていることを根拠に、友人たちが説く応報原理を否定してきました。今朝の御言葉では、悪しき者が幸いを受けていることを根拠に、友人たちの説く応報原理を否定しています。
1節から6節までをお読みします。
ヨブは答えた。私の言葉をよく聞いてほしい。これがあなたがたの慰めとなるように。私を立てて、この私に語らせてほしい。私が語った後で、嘲ってくれ。私の嘆きは人に向かってであろうか。どうして、私の気が短くなっていけないのか。私を見て驚け。口に手を当てよ。私は思い出す度におびえ/わたしの肉は揺さぶられる。
ヨブは友人たちに、「私の言葉をよく聞いてほしい」「私を立てて、この私に語らせてほしい」と言います。また、「私が語った後で、嘲ってくれ」と言います。それは、ヨブのこれから語ろうとする言葉が、三人の友人たちには聞くに耐えない言葉であるからです。三人の友人たちは、悪しき者の滅びについて語ってきました。しかし、ヨブは、悪しき者の繁栄について語るのです。それは、応報思想を信じるヨブにとって、おびえを引き起こし、肉を揺さぶられるようなことであるのです。
7節から16節までをお読みします。
どうして、悪しき者が生き長らえ/老年に達して、なお力を増すのか。その子孫は彼らの前に/その裔は彼らの目の前に揺るぎなく立つ。彼らの家は平和で、恐れもなく/神の杖が彼らに臨むことはない。その雄牛は子を宿らせて、損じることなく/雌牛は出産で子を死なせることはない。彼らは子らを群れのように連れ出し/子どもたちは舞い踊る。彼らはタンバリンや琴に合わせて歌い/笛の音に歓喜する。彼らは一生を幸せに過ごし/平穏に陰府に下る。彼らは神に向かって言う。「私たちから離れてくれ。あなたの道など、私たちは知ろうとは思わない。全能者とは何者なのか。我々が仕えなければならないとは。彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と。彼らの幸いはその手の内にないというのか。悪しき者の謀は私から遠い。
ツォファルは第20章5節と6節でこう言いました。「悪しき者の楽しみは/つかの間にすぎないのだ。たとえ、彼の高慢が天に上り/その頭が雲に達しても/彼は自分の汚物のように永遠に消えうせ」る。しかし、ヨブは、「悪しき者が生き長らえ/老年に達して、なお力を増している」現実を語るのです。三人の友人たちが応報原理に基づいて語るのに対して、ヨブは現実に基づいて、悪しき者の繁栄を語ります。悪しき者の家は平和で、恐れもなく、神の杖が彼らに臨むことはありません。悪しき者は健康で、子孫に囲まれ、多くの家畜を持ち、一生を幸せに過ごし、平穏に陰府に下ります。悪しき者は神の道を知ろうとせず、神に仕えようとはしません。悪しき者は、「神に仕える目的は利益を得るためである」と考えます。それゆえ、幸いを手にしている悪しき者は、神に仕えようとはしないのです。
しかし、ヨブは、16節後半で、「悪しき者の謀は私から遠い」と言います。このヨブの言葉は大切です。「悪しき者の謀は私から遠い」。この言葉によって、ヨブは悪しき者たちと自分との間に一線を引いているのです。悪しき者は「全能者とは何者なのか。我々が仕えなければならないとは、彼に願ったところで/私たちにどんな利益があるのか」と言います。悪しき者にとって、神に仕えるのは利益を得るためであるのです。つまり、悪しき者の信仰はご利益信仰であるのです。このことは、サタンが主に対して、ヨブについて語ったことでもあります。サタンは主にこう言いました。「ヨブが理由もなしに神を畏れるでしょうか。あなたは彼のために、その家のために、また彼のすべての所有物のために周りに垣根を巡らしているではありせんか。あなたが彼の手の業を祝福するので、彼の家畜は地に溢れています。しかし、あなたの手を伸ばして、彼のすべての所有物を打ってごらんなさい。彼は必ずや面と向かって、あなたを呪うに違いありません」(1:9〜11)。このように、サタンの信仰理解と悪しき者の信仰理解は同じであると言えます。しかし、主の僕であるヨブの信仰理解は違います。財産と子どもたちを失ったヨブは、上着を引き裂いて、頭をそり、地にひれ伏して、こう言いました。「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」(1:20、21)。ヨブは利益を得るためではなく、神によって造られ、生かされている被造物として神を礼拝したのです。ヨブは自分の利益のためではなく、神が神であるゆえに、神に仕えていたのです。