聖霊の働き 2024年5月19日(日曜 夕方の礼拝)

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聖霊の働き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 16章4節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ヨハネによる福音書 16章4節~24節

原稿のアイコンメッセージ

(この説教は、村田牧師が代理牧師として宇都宮教会で語った説教です)

序.ペンテコステを迎えて

 今朝は、教会の暦によりますと、聖霊の降臨をお祝いするペンテコステの礼拝です。ペンテコステは、ギリシャ語の序数で「50番目の」という意味です。過越の祭りから50日目に行われる五旬祭において、約束の聖霊は、イエス・キリストの弟子たちに遣わされました(使徒2章参照)。聖霊は、聖なる神の霊であり、目に見ることはできません。しかし、「イエスは主である」と告白している私たちには、確かに聖霊が与えられているのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」参照)。真理の霊は、「イエスは主である」と告白している私たちのもとに、既に来てくださっているのです。その聖霊のお働きについて、今朝は、『ヨハネによる福音書』から、御一緒に教えられたいと願います。

1.パラクレートスである聖霊

『ヨハネによる福音書』の第13章から第16章には、イエス様が捕らえられる前に、弟子たちに語られた、いわゆる告別説教が記されています。イエス様は、数時間後に、御自分がユダヤ人たちによって捕らえられ、裁きを受け、十字架に上げられることを御存じでありました。また、イエス様は、御自分が死者の中から上げられ、天へと上げられ、父のもとへと帰ることをご存じでありました。イエス様は、弟子たちのもとを去って行こうとしておられます。弟子たちにとって、そのことは大きな悲しみでした。「どこへ行くのか」と尋ねられないほどに、弟子たちの心は悲しみで満たされていたのです。そのような弟子たちに、イエス様はこう言われます。7節。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。ここで「実を言うと」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「わたしはあなたがたに真理を言う」となります。イエス様は、ここで真理を教えてくださっているのです。イエス様が弟子たちのもとを去って、父のもとに行くことは、弟子たちのためになること、弟子たちの益になることであるのです。なぜなら、イエス様が父なる神のもとに行かなければ、弁護者は弟子たちのもとへ来ないからです。「弁護者」と訳されている言葉は、パラクレートスというギリシャ語です。元々の意味は、「傍らに呼ばれた者」という意味です。傍らに呼ばれた者は、弁護をしてくれる者である。それで、新共同訳は「弁護者」と翻訳しています。新改訳2017は「助け主」と翻訳しています。傍らに呼ばれた者は、助けてくれる者であると理解するのです。弁護者であり、助け主であるパラクレートスとは、イエス様が御自分の名によって、父のもとから遣わしてくださる聖霊のことであります。聖霊は、天の父のもとから、イエス様によって遣わされるのです。イエス様に代わる、別の弁護者、助け主として、聖霊は来られるのです。

2.聖霊の働き(1)世の誤りを明らかにする

 イエス様は、聖霊のお働きについて、こう言われます。8節から11節です。「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。「その方が来れば・・・世の誤りを明らかにする」とありますが、ここでの「世」は神様によって造られておりながら、神様が遣わされたイエス・キリストを受け入れない人々のことです。聖霊は、弟子たちにとっては弁護者ですが、世に対しては誤りを告発する検察官であるのです。聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにします。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」。ここでの「彼ら」は、世の代表者とも言えるユダヤ人たちのことです。『ヨハネによる福音書』において、「ユダヤ人たち」は民族のことではなく、イエス様を信じない者たちのことです(民族としては、イエス様も弟子たちもユダヤ人)。ユダヤ人たちは、イエス様を、神を冒涜する罪人として、十字架の呪いの死に引き渡しました。しかし、聖霊が来られるとき、明らかになることは「罪とはイエス・キリストを信じないこと」であるのです。神から遣わされたイエス・キリストを信じないことこそ罪であることが、聖霊のお働きによって明らかとなるのです。また、義(正しさ)について、イエス様はこう言われます。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。神様は、十字架に上げられたイエス・キリストを、死者の中から上げられ、天の御自分のもとへと上げられました。そのようにして、神様は、イエス様が正しい者であることを明かとされるのです。さらに、裁きについて、イエス様はこう言われます。「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。「この世の支配者」とは、イエス様を信じない人たちの背後に働く悪魔のことです。イエス様は、ユダヤ人たちによって裁かれ、十字架につけられ、死なれました。そこでは、イエス様が裁かれたように見えます。しかし、そこで裁かれ、罪に定められたのは、この世の支配者、悪魔であるのです。悪魔は、罪のない御方を死に定めることによって罪を犯すのです。悪魔は、何一つ罪を犯したことのないイエス様を死に定めたことによって、断罪されるのです。

 私たちも、かつては、世に属する者でありました。しかし、イエス様が遣わされた聖霊によって、罪について、義について、裁きについて、正しく知る者とされたのです。

3.聖霊の働き(2)真理をことごとく悟らせる

聖霊の第一のお働き、それは世の誤りを明らかにすることでありました。では、第二のお働きは何でしょうか。それは、真理をことごとく悟らせることです。イエス様は、弟子たちにこう言われます。12節から15節。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は、わたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」。イエス様は、「弁護者」である聖霊のことを「真理の霊」と言われます。それは、聖霊が、弟子たちを導いて真理をことごとく悟らせてくださる御方であるからです。その真理とは、イエス様と別の真理ではありません。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語る」とあるように、聖霊は、弟子たちがイエス様から聞いたことを語って、真理をことごとく悟らせてくださるのです。一つの具体例として、第2章に記されている「神殿から商人を追い出す」というお話を取り上げたいと思います。新約の166ページです。第2章13節以下に、イエス様が神殿から商人を追い出すお話しが記されています。ユダヤ人たちがイエス様に「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました。するとイエス様はこうお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。それでユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。その後の21節と22節で、福音書記者ヨハネはこう記しています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが、死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。これが、弟子たちを導いて真理を悟らせる聖霊のお働きであるのです(12:16も参照)。

今朝の御言葉に戻ります。新約の200ページです。

 13節で、イエス様は、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われます。ここでの「真理」とは、イエス様御自身のことです。なぜなら、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われる御方であるからです(14:6)。神の真理は、神の独り子イエス・キリストを通して現れました(1:17「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」参照)。真理の霊である聖霊は、御子イエス・キリストのものを受けて語ります。そして、父なる神が持っておられるものは、すべて御子イエス・キリストのものであるのです。ここで言われていることは、聖霊が弟子たちに告げることは、御子イエス・キリストの言葉であり、それは御父によって示された言葉であるということです(三位一体の神は、そのメッセージにおいても一つ)。

神の真理は、御子イエス・キリストにおいて示されました。しかし、生まれながらの人間は、その真理を正しく知ることができません。ただ、イエス・キリストが遣わしてくださる真理の霊に導かれるとき、イエス・キリストの言葉が神の言葉であり、真理であることを悟ることができるのです。ですから、私たちは、説教を聴く前に、聖霊の導きを祈り求めるのです。それは、聖霊なる神様が、私たちに真理をことごとく悟らせてくださる御方であるからです。イエス様は、「その方はわたしに栄光を与える」と言われます。このことも説教において言えることですね。聖霊は、説教者を用いて御言葉を解き明かし、主イエス・キリストの栄光をあらわされるのです。

4.聖霊の働き(3)イエス・キリストの霊的な臨在をもたらす

 聖霊の第一のお働きは、世の誤りを明らかにすることでした。そして、第二のお働きは、弟子たちに真理をことごとく悟らせることでした。今朝は、第三のお働きを学んで終わりたいと思います。聖霊の第三のお働きは、イエス・キリストの霊的な臨在をもたらすことです。16節以下に、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という御言葉を巡るイエス様と弟子たちとの対話が記されています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。日本語の翻訳ですと同じ「見る」という言葉が用いられています。しかし、元のギリシャ語では違う言葉が用いられています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」は、「肉の目で、物理的に見ることがない」という意味です(セオレオー)。他方、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」は「信仰の目によって見る」「霊的に、人格的にお会いする」という意味です(ホラオー)。イエス様は、これから十字架に上げられ、死者の中から上げられ、天へと上げられます。それゆえ、弟子たちは、イエス様を肉の目で見ることができなくなります。しかし、イエス様は御父のもとから別の弁護者である聖霊を遣わしてくださいます。聖霊と御言葉において、弟子たちは、イエス様と人格的にお会いすることができるのです。私たちは、復活されたイエス・キリストを肉の目で見たことはありません。しかし、私たちは、イエス・キリストの言葉と霊によって、イエス・キリストと人格的にお会いして、心から喜んでいるのです(礼拝の根本にある喜び)。

結.聖霊における父と子との喜びの交わり

 私たちは、聖霊によってイエス・キリストに結び合わされた神の子として、父なる神との親しい交わり、永遠の命を与えられています。ですから、イエス様は、今朝の御言葉の最後、第16章23節と24節でこう言われるのです。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によって願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。御子イエス・キリストの名によって祈ること、それは御子イエス・キリストに結ばれた神の子として祈るということです。私たちは、御子イエス・キリストの名によって、神様を「父なる神よ」と呼び、祈ることができる特権を与えられているのです(1:12「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」参照)。父なる神は、御子イエス・キリストを信じる御自分の子供たちの願いを喜んで聞いてくださいます。それゆえ、私たちは、喜びに満たされて、何でも願うことができるのです。祈りとは、聖霊における父と子との喜びの交わりであるのです。

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