ツォファルの2回目の弁論 2024年5月01日(水曜 聖書と祈りの会)

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ツォファルの2回目の弁論

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 20章1節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:1 ナアマ人ツォファルは答えた。
20:2 心がいらだち、答えよと私に迫る。/私はせきたてられているのだ。
20:3 諭しが私を辱めるのを私は聞く。/しかし、霊は私の分別によって私に答える。
20:4 あなたも昔からのことを知っているのではないか/人が地上に置かれて以来のことを。
20:5 悪しき者の喜びは短く/神を敬わない者の楽しみは/つかの間にすぎないのだ。
20:6 たとえ、彼の高慢が天に上り/その頭が雲に達しても
20:7 彼は自分の汚物のように永遠に消えうせ/彼を見たことのある者は言うだろう/「彼はどこにいるのか」と。
20:8 彼は夢のように飛び去って/見いだされることはなく/夜の幻のように消え去る。
20:9 彼を見た目は再び彼を見ることはなく/彼のいた所はもはや彼を認めない。
20:10 その子は弱い人々に施しを求め/その手は富を引き渡す。
20:11 その骨は若さに溢れていたが/彼と共に塵に伏すだろう。
20:12 たとえ、悪が彼の口に甘く/彼が舌の陰にそれを隠しても
20:13 その甘さを惜しみ/捨てずに口の中に残すとしても
20:14 彼の食べた物は腹の中で変わり/体内でコブラの毒となる。
20:15 彼は富を呑み込んでも吐き出す。/神がそれを彼の腹から追い出す。
20:16 彼はコブラの毒を吸い/毒蛇の舌が彼を殺す。
20:17 彼は流れを見ることがない/蜜と凝乳の川を。
20:18 彼は労苦して得たものを取り戻しても呑み込めず/商いで得た富を喜ぶことができない。
20:19 彼は弱い人々を虐げて見捨て/家を奪い取っても、建てることはしなかったからだ。
20:20 その腹は平穏を知らず/欲望から逃れられない。
20:21 彼が食べた後には、何も残らない。/このように、彼の繁栄は続かない。
20:22 豊かさが満ちた時に、彼は苦境に陥り/労苦の手がことごとく彼に臨む。
20:23 彼が腹を満たそうとすると/神は燃える怒りを送り/彼の上に食物として注ぐ。
20:24 彼が鉄の武器から逃れても/青銅の弓が彼を射抜く。
20:25 彼が引き抜こうとすると、矢は背中から出て来る。/きらめく矢尻は胆嚢から。/彼は恐怖に震え上がる。
20:26 あらゆる闇が彼の財産として蓄えられ/人の手によらない火が彼を焼き尽くし/天幕に残るものを滅ぼす。
20:27 天は彼の過ちをあらわにし/地は彼に向かって立ち上がる。
20:28 彼の家の実りは消えうせ/神の怒りの日に滅び去る。
20:29 これは、悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである。
ヨブ記 20章1節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第20章1節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、ナアマ人ツォファルの2回目の弁論が記されています。ツォファルの言葉は大きく二つに分けることができます。2節と3節は、ツォファルの心の内を語る言葉です。4節から29節までは、悪人の滅びについて語る言葉です。

 1節から3節までをお読みします。

 ナアマ人ツォファルは答えた。

 心がいらだち、答えよと私に迫る。私はせきたてられているのだ。諭しが私を辱めるのを私は聞く。しかし、霊は私の分別によって私に答える。

 このツォファルの言葉は、直前のヨブの警告を受けてのものと読むことができます。ヨブは、第19章28節と29節でこう言っていました。

 「どのように彼を追い詰めようか」と/あなたがたは言い/事の起こりを私は見いだす。あなたがたは剣を恐れよ。剣の罰は神の憤り。それによって、あなたがたは裁きのあることを知るであろう。

 このようなヨブの警告を受けて、さらには、第19章6節以下のヨブの主張、「神が自分を不当に扱っている。正しくないのは自分ではなく、むしろ神の方である」という主張を受けて、ツォファルは、「心がいらだち、答えよと私に迫る。私はせきたてられているのだ」と言うのです。しかし、ツォファルは、冷静さを保とうとしています。ツォファルは、「自分を辱めるのは、諭しであり、自分は分別をもって答えよう」と言うのです。

 4節から11節までをお読みします。

 あなたも昔からのことを知っているのではないか/人が地上に置かれて以来のことを。悪しき者の喜びは短く/神を敬わない者の楽しみは/つかの間にすぎないのだ。たとえ、彼の高慢が天に上り/その頭が雲に達しても/彼は自分の汚物のように永遠に消えうせ/彼を見たことのある者は言うだろう/「彼はどこにいるのか」と。彼は夢のように飛び去って/見いだされることはなく/夜の幻のように消え去る。彼を見た目は再び彼を見ることはなく/彼のいた所はもはや彼を認めない。その子は弱い人々に施しを求め/その手は富を引き渡す。その骨は若さに溢れていたが/彼と共に塵に伏すだろう。

 ツォファルは、ヨブも知っている理(ことわり)、道理について語ります。ツォファルは、「悪しき者の喜びは短く/神を敬わない者の楽しみは/つかの間にすぎない」と言うのです。その前提にあるのは、神は良い行いには良い報いを与え、悪い行いには悪い報いを与えるという応報思想です。ツォファルは、「人が地上に置かれて以来のこと」と言っていますが、神がはじめの人アダムに与えた掟も応報思想を前提にしています。神は、アダムにこう言われました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはならない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世2:17)。神はアダムに、神の掟に背くという悪い行いに対して、死ぬという悪い報いを与えると言われたのです。それは裏を返せば、神の掟に従うという良い行いに対しては、命という良い報いを与えるということです。エデンの園の中央には、善悪の知識の木だけではなく、命の木も生えていました(創世2:9参照)。命の木は、神の掟を守るならば、アダムに命という良い報いが与えることを示していたのです。良い行いをすれば良い報いを受け、悪い行いをすれば悪い報いを受ける。このような応報思想は、私たち人間の心にも刻みこまれています(ローマ2:15「こういう人々は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も証ししています」参照)。それゆえ、人間社会には道徳や倫理が成り立つわけです。しかし、ヨブは、「自分は正しいのに悪い報いを受けている。神が自分に対して不正を行っている」と主張するのです。このようなヨブの主張は、応報思想を土台とする道徳や倫理を破壊しかねない発言であり、三人の友人たちには到底受け入れられないことでした。ですから、ツォファルは、神が人を地上に置いた時に遡って、悪しき者は必ず滅びると言うのです。悪しき者が栄えても、それは一時的なことであり、汚物のように永遠に消え失せてしまう。そればかりか、悪しき者の子孫は、人々に富を引き渡すことになり、早死にすることになると、ツォファルは言うのです。

 12節から22節までをお読みします。

 たとえ、悪が彼の口に甘く/彼が舌の陰にそれを隠しても/その甘さを惜しみ/捨てずに口の中に残すとしても/彼の食べた物は腹の中で変わり/体内でコブラの毒となる。彼は富を呑み込んでも吐き出す。神がそれを彼の腹から追い出す。彼はコブラの毒を吸い/毒蛇の舌が彼を殺す。彼は流れを見ることがない。蜜と凝乳の川を。彼は労苦して得たものを取り戻しても呑み込めず/商いで得た富を喜ぶことができない。彼は弱い人々を虐げて見捨て/家を奪い取っても、建てることはしなかったからだ。その腹は平穏を知らず/欲望から逃れられない。彼が食べた後には、何も残らない。このように、彼の繁栄は続かない。豊かさが満ちた時に、彼は苦境に陥り/労苦の手がことごとく彼に臨む。

 ここでツォファルは、悪を食べ物にたとえて語っています。悪は口に甘くても、腹の中でコブラの毒になると言うのです(申命32:32~35参照)。それと同じように、悪しき者が弱い人々を虐げて蓄えた富は、彼らから失われることになるのです。悪しき者の心は平穏を知らず、欲望の奴隷となっているのです。悪しき者は豊かさが満ちた時に苦境に陥り、労苦の手がことごとく彼に臨むのです。そのように悪しき者の繁栄は決して続かないのです。そして、このことは、神によることであるのです(20:15「彼はそれを彼の腹から吐き出す。神がそれを彼の腹から追い出す」参照)。

 23節から29節までをお読みします。

 彼が腹を満たそうとすると/神は燃える怒りを送り/彼の上に食物として注ぐ。彼が鉄の武器から逃れても/青銅の弓が彼を射抜く。彼が引き抜こうとすると、矢は背中から出て来る。きらめく矢尻は胆のうから。彼は恐怖に震え上がる。あらゆる闇が彼の財産として蓄えられ/人の手によらない火が彼を焼き尽くし/天幕に残るものを滅ぼす。天は彼の過ちをあらわにし/地は彼に向かって立ち上がる。彼の家の実りは消えうせ/神の怒りの日に滅び去る。これは、悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである。

 ここで、ツォファルは、悪しき者に対する神の裁きについて語っています。「悪しき者は、神の裁きを逃れることができない」とツォファルは言うのです。それは、鉄の武器から逃れても、青銅の弓によって射抜かれるようなものです。悪しき者の財産は、人の手によらない火、つまり、神の火によって焼き尽くされてしまうのです。27節に、「天は彼の過ちをあらわにし/地は彼に向かって立ち上がる」とあります。このツォファルの言葉は、第19章25節のヨブの言葉に対する反論であります。第19章25節で、ヨブはこう言っていました。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる」。ヨブは、「神が陰府の塵のうえに立って、『ヨブは正しい』と証言してくださる」と語りました。しかし、ツォファルが問題にするのは、神が人間を置かれた地上のことであって、死者の世界である陰府における証言など、現実逃避以外の何ものでもないのです。ツォファルにとって、悪しき者の過ちを証しするのは、天であり、また地であるのです(申命31:1参照)。

 28節と29節に、こう記されています。「彼の家の実りは消えうせ/神の怒りの日は滅び去る。これは、悪しき者が神から受ける分/神から告げられた受け継ぐべきものである」。ここで、ツォファルは、ヨブのことを念頭において語っているようです。ヨブは、同じ日に財産と子供たちを失いました。また、自らも全身を悪性の腫れ物で打たれていました。それこそ、悪しき者であるヨブが神から受け継ぐべきものであるとツォファルは言うのです。このように、ツォファルは、陰府に希望をつなぐヨブを、地上での有様から悪しき者と決めつけるのです。

 しかし、ここでツォファルが語っていること。この地上において、悪しき者が滅びることは、必ずしもそのとおりにはなっていません(21章参照)。ですから、ここでツォファルが語っていることは、「そうあるべきだ」という願望であると言えます。確かに、神は正しい者に良い報いを与え、悪しき者には悪い報いを与える御方であります(38:13~15参照)。そのことは、『創世記』に記されているノアの洪水やバベルの塔やソドムとゴモラの滅亡のお話しを読めば、分かります。アブラハムが言ったように、「全地を裁かれる方が公正な裁きを行わないことなど、決してありません」(創世18:25)。では、ツォファルが語ったように、この地上において、神の裁きが完全に行われるかと言えば、そうではないのです。そうでないからこそ、ヨブは、陰府の塵の上に立って、自分の無罪を証言してくれる神を望み見たのです。この地上で正しい裁きが行われるとは限らないからこそ、私たちも主イエス・キリストの正しい裁きを待ち望んでいるのです。  

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