ビルダドの二回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2024年4月24日(水曜 聖書と祈りの会)
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ビルダドの二回目の弁論を受けてのヨブの答え②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 19章23節~29節
聖書の言葉
19:23 どうか私の言葉が書き留められるように。/どうか碑文に刻まれるように。
19:24 鉄の筆と鉛によって/永遠に岩に彫られるように。
19:25 私は知っている。/私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる。
19:26 私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後/私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。
19:27 この私が仰ぎ見る。/ほかならぬ私のこの目で見る。/私のはらわたは私の内で焦がれる。
19:28 「どのように彼を追い詰めようか」と/あなたがたは言い/事の起こりを私に見いだす。
19:29 あなたがたは剣を恐れよ。/剣の罰は神の憤り。/それによって、あなたがたは裁きのあることを/知るであろう。ヨブ記 19章23節~29節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第19章23節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第19章には、「ビルダドの二回目の弁論を受けてのヨブの答え」が記されています。今朝の御言葉、23節から29節は大きく二つに分けることができます。23節から27節には、祈りとも言えるヨブの言葉が記されています。28節と29節は、友人たちに対する警告の言葉が記されています。
23節から27節までをお読みします。
どうか私の言葉が書き留められるように。どうか碑文に刻まれるように。鉄の筆と鉛によって/永遠に岩に掘られるように。私は知っている。私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後/私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私の内で焦がれる。
ヨブは、自分の言葉が書き留められるように。碑文に刻まれるようにと願います。この碑文に刻まれる言葉は、「ヨブは正しい、潔白である」という証言でしょう。考古学の発展によって、岩に掘った文字に鉛を流し込む技術が古代にあったことが分かっています。ヨブは、自分が死んで、陰府に降ろうとも、自分が正しく、潔白であった証しを地上に残したいと願うのです。
ヨブは、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ/後の日に塵の上に立たれる」と言います。ここで「贖う方」と訳されている言葉(ゴーエール)は、一般的には、家族の権利とその存続を守るために介入する近親者のことを言います(ルツ2:20参照)。ヨブは、自分の権利とその存続を守るために、神が介入してくださると言うのです。ヨブが、「私を贖う方は生きておられる」と言うとき、その「贖う方」は、生ける神のことです。ヨブは、自分を苦しめる神が、自分を苦しみから解放してくれると言うのです。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる」。この「塵」は、死者の世界である「陰府の塵」のことです。ヨブは、第17章15節と16節で、こう言っていました。「私の望みは一体どこにあるのか。誰が私の望みを見つけるだろうか。それは陰府に下り、私たちは皆、共に塵の上に横たわる」。この陰府の塵のうえに、ヨブを贖う、生ける神は立たれると言うのです。ここでの「立たれる」は、法廷においての証言者として立たれるという意味です。ヨブが死んで、陰府に降ったとしても、その陰府の塵の上に、生ける神はヨブを贖う方として、ヨブを正しいと宣言する方として立たれるのです。ヨブは、この地上において神を見ることはできなくても、肉を離れて死んだ後に、神を仰ぎ見ると言うのです。
ヨブが「私を贖う方は生きておられる」と言うとき、その背景には、これまでのヨブの信仰の告白があります。ヨブは第9章で、自分と神の二人の上に手を置く仲裁者について語りました(9:33、34「我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。どうか、神が私から杖を取り去り/その恐怖で私をおびえさせないように」参照)。また、第16章では、天にいる自分の証人について語りました(16:19、20「今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高いところにいる。私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す」参照)。第9章の「仲裁者」と第16章の「証人」が、第19章の「贖う方」につながっているわけです。また、ヨブは陰府についてもこれまで語ってきました。第14章で、ヨブは「自分を陰府にかくまってください」と神に願っていました(14:13「どうか、私を陰府にかくまい/あなたの怒りが鎮まるまで私を隠し/私のために境界を定め/わたしを覚えていてください」参照)。その陰府に、生ける神が自分を贖う方として立たれるとヨブは言うのです。このように、第19章には、ヨブの最も深い信仰の言葉が記されているのです。そのような深い信仰の言葉をヨブが語ることができたのは、ヨブが深い孤独の中にあったからです。ヨブは神によって苦しめられるほど、神に信頼するのです。ヨブは、まさしく主の僕であったのです。
27節に、「この私が仰ぎ見る」とあります。このところを、岩波書店から出ている翻訳聖書は、「私は彼をわが味方として見るであろう」と訳しています(フランシスコ会訳も同じ)。ヨブは、11節で、神は「私を自分の敵のように見なす」と言っていました。しかし、陰府においてヨブが仰ぎ見る神は、ヨブを贖い、正しいと宣言してくださる、味方であるのです。
旧約において、死者の領域である陰府は神がおられない所であり、神がほめたたえられない所であると考えられていました(詩88:12、13参照)。しかし、ヨブは、その陰府で、神を味方として仰ぎ見ると言うのです。ヨブは神を仰ぎ見るという希望を、死者の領域である陰府につなぐのです。
28節と29節をお読みします。
「どのように彼を追い詰めようか」とあなたがたは言い/事の起こりを私に見いだす。あなたがたは剣を恐れよ。剣の罰は神の憤り。それによって、あなたがたは裁きのあることを知るであろう。
ここには、ヨブを罪に定める友人たちへの警告が記されています。この地上で苦難の死を死んだとしても、陰府において、神から正しいと宣言されると確信するヨブは、友人たちが偽りの証人として裁きを受けることになると警告するのです。『申命記』の第19章に、偽りの証人が受ける罰について記されています。旧約の296ページです。第19章15節から19節までをお読みします。
どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。悪意のある証人が立ち、相手に対して不利な証言をするならば、争っている二人は主の前に進み、その時、任についている祭司と裁き人の前に立ちなさい。裁き人は子細に調査し、その証人が偽りの証人であり、同胞に対して偽証したのであれば、その者が同胞にたくらんだことを彼に行って、あなたの中から悪を取り除きなさい。
ヨブは、自分を追い詰めて罪に定めようとする友人たちに、あなたたちは偽りの証人として裁きを受けることになると警告するのです。ヨブは、神によって正しいとされるという確信から、友人たちに警告の言葉を語るのです。
今朝、私たちは、神によって正しい者とされているという確信が、主イエス・キリストにあって、私たちにも与えられていることを覚えたいと願います。今朝は、最後に、『ローマの信徒への手紙』の第8章31節から34節までをお読みします。新約の280ページです。
では、これらのことについて何と言うべきでしょうか。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。