ビルダドの2回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2024年4月17日(水曜 聖書と祈りの会)

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ビルダドの2回目の弁論を受けてのヨブの答え①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 19章1節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 ヨブは答えた。
19:2 いつまで、あなたがたは私の魂を苦しめ/言葉で私を打ち砕くのか。
19:3 あなたがたはこれまで十度も私を辱め/私を虐げて恥ずかしいとも思わない。
19:4 たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。
19:5 もし、本当にあなたがたが私に対して/尊大に振る舞い/私の恥をあげつらうなら
19:6 さあ、知るがよい。/神が私を不当に扱い/罠で囲っていることを。
19:7 私が「暴虐だ」と叫んでも答えはなく/助けを呼び求めても公正な裁きはない。
19:8 神は私の道を塞いで、通らせず/私の行く手に闇を置き
19:9 私の栄光を剥ぎ取り/頭から冠を奪い去る。
19:10 神は四方から私を打ち倒して私を去らせ/私の望みを木のように根こそぎにし
19:11 私に向かって怒りを燃やし/私を自分の敵のように見なす。
19:12 その軍勢は結集し/私に向かって道を築き/私の天幕の周りに陣を敷く。
19:13 神は私から兄弟を遠ざけ/知人たちもまた私から離れて行った。
19:14 私の親族も身を引き/友人たちも私を忘れた。
19:15 私の家に身を寄せる者たち/私の仕え女たちも私を見知らぬ者と見なし/彼らの目に私はよそ者となった。
19:16 私の僕は、呼びかけても答えず/私は自分の口で彼に憐れみを乞う。
19:17 私の息はわが妻に嫌がられ/わが母の子らにも私は嫌われる。
19:18 幼い子どもさえ私を拒み/私が立ち上がると、私に口答えする。
19:19 親しい仲間たちは皆、私を忌み嫌い/愛していた者たちも私に背を向ける。
19:20 私の骨は皮膚と肉に張り付き/皮膚と歯だけでしのいでいる。
19:21 あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。
19:22 なぜあなたがたは神のように私を追い詰めるのか。/私の肉で飽き足らないのか。ヨブ記 19章1節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第19章1節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、「ビルダドの二回目の弁論を受けてのヨブの答え」が記されています。

 1節から6節までをお読みします。

 ヨブは答えた。いつまで、あなたがたは私の魂を苦しめ/言葉で私を打ち砕くのか。あなたがたはこれまで十度も私を辱め/私を虐げて恥ずかしいとも思わない。たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる。もし、不当にあなたがたが私に対して/尊大に振る舞い/私の恥をあげつらうなら/さあ、知るがよい。神が私を不当に扱い/罠で囲っていることを。

 ヨブは、「いつまで、あなたがたは私の魂を苦しめ、言葉で私を打ち砕くのか」と言います。この「いつまで」は、第18章2節のビルダドの言葉を受けてのものです。ビルダドは、第18章2節でこう言っていました。「いつまで、あなたがたは言葉の罠を仕掛け続けるのか」。このビルダドの「いつまで」を受けて、ヨブは「いつまで、あなたがたは私の魂を苦しめ、言葉で私を打ち砕くのか」と言うのです。前回学びましたように、ビルダドは、財産と子供を失い、悪性の腫れ物に苦しむヨブを「不法をなす者」「神を知らぬ者」と呼びました。ビルダドは、悪しき者の滅びについて語りましたが、その悪しき者こそ、ヨブであるのです。三人の友人たちは、応報思想に基づいて、ヨブが災いに遭い、苦しみを受けているのは、ヨブが罪を犯したからであると言うのです。そのような友人たちを、ヨブは「あなたがたはこれまで十度も私を辱め、私を虐げて恥ずかしいとも思わない」と非難するのです。4節に、「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても/その過ちは私だけにとどまる」とあります。ヨブは「自分は誤りを犯していない、潔白である」と考えていました。しかし、「たとえ、本当に私が誤りを犯していたとしても、それはあなたがたには関係のないことだ」とヨブは言うのです。しかし、三人の友人たちは、ヨブが犯したとする過ちによって被害を受けたかのように、尊大に振る舞い、ヨブの恥をあげつらうのです。しかも、ヨブには覚えのない恥をあげつらうのです。それゆえ、ヨブは、「さあ、知るがよい。神が私を不当に扱い/罠で囲っていることを」と言うのです。三人の友人たちは、ヨブの災いと苦難の原因をヨブの罪にあると言いました。しかし、ヨブは、自分が受けている災いと苦難の原因が神にあると言うのです。ヨブは、「自分の災いと苦難の原因が、神の不当な扱いにあることを知ってもらいたい」と言うのです。ビルダドは、「悪しきものは自分が仕掛けた罠にかかって打ち倒される」と言いましたが、ヨブを罠で囲っているのは、神であるのです(18:7〜10参照)。

 7節から12節までをお読みします。

 私が「暴虐だ」と叫んでも答えはなく/助けを呼び求めても公正な裁きはない。神は私の道を塞いで、通らせず/私の行く手に闇を置き/私の栄光を剥ぎ取り/頭から冠を奪い取る。神は四方から私を打ち倒して私を去らせ/私の望みを木のように根こそぎにし/私に向かって怒りを燃やし/私を自分の敵のように見なす。その軍勢を結集し/私に向かって道を築き/私の天幕の周りに陣を敷く。

 「暴虐だ」という言葉は、不法が行われているときに、被害者が神の裁きを求めて叫ぶ言葉であると言われています(ハバクク1:2参照)。しかし、ヨブは「私が『暴虐だ』と叫んでも答えはなく、助けを呼び求めても公正な裁きはない」と言うのです。それは、ヨブを不当に扱い、ヨブを罠で囲んでいるのが、他ならない神であるからです。ヨブは、財産と子供を失い、悪性の腫れ物に全身を覆われ、社会的な地位を失った者として、「神は私の道を塞いで、通らせず/私の行く手に闇を置き/私の栄光を剥ぎ取り/頭から冠を奪い去る」と言うのです。ヨブにとって神は、「自分を四方から打ち倒し、自分の望みを木のように根こそぎにし/自分に向かって怒りを燃やす、自分を敵と見なす者である」と言うのです。ヨブは「私の天幕は、私を自分の敵と見なす神の軍勢に包囲されている」と言います。これは、まことに恐るべきことですね。イエス・キリストの使徒パウロは、ローマ書の第8章で、「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか」と記しました(ローマ8:31)。神が味方である。これ以上に心強いことはありません。しかし、ヨブは、「神は自分を敵と見なして、私の天幕の周りに陣を敷く」と言うのです。そのようにしか思えないほど、ヨブは大きな苦しみの中にあったのです。

 13節から20節までをお読みします。

 神は私から兄弟を遠ざけ/知人たちもまた私から離れて行った。私の親族も身を引き/友人たちも私を忘れた。私の家に身を寄せる者たち/私の仕え女たちも私を見知らぬ者と見なし/彼らの目に私はよそ者となった。私の僕は、呼びかけても答えず/私は自分の口で彼に憐れみを乞う。私の息はわが妻に嫌がられ/わが母の子らにも私は嫌われる。幼い子どもさえ私を拒み/私が立ち上がると、私に口答えする。親しい仲間たちは皆、私を忌み嫌い/愛していた者たちも私に背を向ける。私の骨は皮膚と肉に張り付き/皮膚と歯だけでしのいでいる。

 悪性の腫れ物で全身を覆われていたヨブから、兄弟たちも、知人たちも離れて行きました。そのことは、ヨブにとって神によることであるのです。神が自分を悪性の腫れ物で打ち、自分から親族や友人たちを遠ざけたと言うのです。苦しい時にこそ、親族や友人たちに側にいてほしいと思います。しかし、神はヨブから親族や友人たちを遠ざけられました。親族や友人たちだけではありません。ヨブの家に身を寄せる者たち、ヨブが世話をしてあげた寄留者たちが、ヨブをまるで寄留者のように見なすのです。また、ヨブは僕に、自分の口で憐れみを乞わねばならないのです。17節に、「私の息はわが妻に嫌がられ」とあります。ヨブの妻については、第2章に記されていました。全身を悪性の腫れ物で打たれ、土器のかけらで体をかきむしり、灰の中に座っていたヨブに、彼の妻はこう言いました。「あなたは、まだ完全であり続けるのですか。神を呪って死んでしまいなさい」。しかしヨブは彼女にこう言いました。「あなたは愚かな者が言うようなことを言う。私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようでなないか」。このヨブの言葉を聞いて、彼の妻がどうしたのかは記されていません。しかし、少なくとも、彼女は、災いの中にある夫を見捨てるようなことはしませんでした。ヨブの妻は夫の息を嫌ったかも知れませんが、夫の世話をしたのです。彼女は、ヨブの生活を支えることによって、ヨブと一緒に、夫婦として、災いをも受けたのです。

 全身を悪性の腫れ物に覆われ、やつれ果てたヨブの姿は、親しい仲間からも忌み嫌われました。愛していた者たちもヨブに背を向けたのです。そのような深い孤独を味わっていたヨブのもとに、三人の友人たちがやって来たわけですね。三人の友人たちは、ヨブに臨んだ災いを耳にして、ヨブを慰めようとやって来たわけです。しかし、その友人たちも、ヨブの孤独を癒してくれません。それどころか、彼らはヨブの魂を苦しめ、言葉でヨブを打ち砕くのです。そのような友人たちに、ヨブはこう言います。

 21節と22節をお読みします。

 あなたがた、友よ/私を憐れに思ってくれ、憐れに思ってくれ/神の手が私を打ったのだから。なぜあなたがたは神のように私を追い詰めるのか。私の肉で飽き足らないのか。

 ここに、ヨブの本心が語られていると思います。エリファズ、ビルダド、ツォファル。この三人の友人たちは、ヨブを慰めに来たのです。そうであれば、ヨブを憐れに思い、ヨブの苦しみに寄り添ってくれても良さそうなものです。しかし、彼らはヨブの災いと苦難の原因がヨブの罪にあるとして、ヨブを追い詰めるのです。ヨブは自分の苦しみが自分を敵と見なす神にあると考えていました。そして、友人たちは、その神の側に立って、ヨブの心をいよいよ苦しめるのです。

 今朝は最後に、私たちのことを友と呼んでくださる御方に心を向けたいと思います。イエス・キリストは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネ15:13)。そして、ご自分の弟子である私たちを「友」と呼んでくださったのです。私たちが耐え難い孤独の中にあったとしても、友であるイエス・キリストが一緒にいてくださいます。私たちキリスト者は一人でいても孤独ではないのです。友であるイエス・キリストが聖霊と御言葉において、私たちといつも共にいてくださるのです。

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