ビルダドの2回目の弁論 2024年4月10日(水曜 聖書と祈りの会)

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ビルダドの2回目の弁論

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 18章1節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:1 シュア人ビルダドは答えた。
18:2 いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。/まず悟りなさい。それから私たちは語ろう。
18:3 どうして、私たちは獣のように見なされるのか。/あなたがたの目に汚れたものとされるのか。
18:4 怒りで自分自身を引き裂く者よ/あなたのせいで地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか。
18:5 悪しき者の光は消え/その炎も輝かない。
18:6 その天幕の内では、光は闇となり/彼を照らす灯も消える。
18:7 彼の力強い歩みは小さくされ/彼のたくらみが彼自身を打ち倒す。
18:8 彼は自分の足で網にかかり/仕掛け網の上を歩く。
18:9 罠はかかとをつかみ/網の罠は彼を締めつける。
18:10 彼を捕らえる綱が地面に隠され/道には縄が仕掛けられている。
18:11 恐怖が彼を取り囲み/その足を追いかける。
18:12 彼の力は衰え/災いが傍らにやって来る。
18:13 それは彼の皮膚のあらゆるところを食らい/死が体の隅々まで食い尽くす。
18:14 彼は頼みとする天幕から引き抜かれ/恐怖の王のもとへ連れて行かれる。
18:15 彼の天幕には身内でない者が住み/その住まいには硫黄が振りまかれる。
18:16 土の下でその根は枯れ/土の上では枝がしおれる。
18:17 彼の記憶は地から消えうせ/その名は巷からなくなる。
18:18 彼は光から闇に追いやられ/この世から追い払われる。
18:19 彼にはその民の中に子孫もなく、跡継ぎもなく/その住みかに生き残る者もいない。
18:20 西の人々は彼の日々に戦慄し/東の人々は恐怖に捕らわれる。
18:21 確かに、これが不法をなす者の住まい/これが神を知らぬ者の居所である。ヨブ記 18章1節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 しばらく『ヨブ記』から離れていましたが、今朝から再び『ヨブ記』を読み進めていきたいと思います。今朝は第18章1節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「シュア人ビルダドは答えた」とあるように、今朝の御言葉には、ビルダドの二回目の弁論が記されています。ビルダドの二回目の弁論は、2節から4節までと5節から21節までの大きく二つに分けることができます。2節から4節には、「ヨブへの非難」が記されています。5節から21節には、「悪しき者の滅び」が記されています。

 2節から4節までをお読みします。

 いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか。まず悟りなさい。それから私たちは語ろう。どうして、私たちは獣のように見なされるのか。あなたがたの目に汚れたものとされるのか。怒りで自分自身を引き裂く者よ/あなたのせいで地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか。

 2節の前半に「いつまで、あなたがたは/言葉の罠を仕掛け続けるのか」とあります。また、3節の後半に「あなたがたの目に汚れたものとされるのか」とあります。「あなたがた」とは誰のことでしょうか。この「あなたがた」の中にヨブが含まれていることは確かなことです。では、なぜ、ビルダドは、ヨブに対して、「あなたがた」と二人称複数形で語りかけるのでしょうか。考えられる一つのことは、ヨブのことを不正な者たちの一人として呼びかけているということです。ですから、この「あなたがた」は「あなた」と読み換えてもよいと思います。ビルダドは、ヨブに、「いつまで、あなたは、言葉の罠を仕掛け続けるのか。まず悟りなさい。それから私たちは語ろう」と言います。ビルダドにとって、悟ることなく、言葉の罠を仕掛け続けるヨブの話は聞くに耐えないのです。

 ビルダドは、ヨブに、「どうして、私たちは獣のように見なされるのか。あなたがたの目に汚れたものとされるのか」と言います。このビルダドの言葉の背景には、12章7節以下のヨブの言葉があると考えられています。第12章7節で、「しかし、獣に尋ねてみよ。それはあなたに教えるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう」と言いました。悟る心を重んじるビルダドにとって、理性のない獣に教えをこうようにというヨブの言葉は、自分たちを獣のように見なす侮辱であったのです。「汚れたもの」の別訳は「愚かなもの」ですが、そうすると、ここでビルダドは、第17章10節のヨブの言葉を背景にしていると読むことができます。17章10節で、ヨブはこう言っていました。「私はあなたがたの中に知恵ある人を見いだせない」。そのようなヨブの言葉を受けて、「どうして、私たちは、あなたの目に愚かなものとされるのか」と言うのです。

 4節に「怒りで自分自身を引き裂く者よ」とあります。これは第16章9節のヨブの言葉、「神は怒って、私を引き裂き」という言葉を背景にしています。ビルダドは、神が怒ってヨブを引き裂いているのではなく、ヨブが怒りで自分自身を引き裂いていると言うのです。ビルダドは、ヨブの苦しみの原因が神にあるのではなく、ヨブ自身にあると言うのです。「あなたのせいで地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか」は、第14章18節と19節のヨブの言葉を背景にしています。第14章18節と19節で、ヨブはこう言っていました。「しかし、山は崩れ落ち/岩もその場所から移され/水は石をすり減らし/大水は地の塵を洗い流します。そのように、あなたは人の望みを滅ぼします」。このヨブの言葉を受けて、ビルダドは、「あなたのせいで地が見捨てられ、岩がその場所から移されるだろうか」と言うのです。ビルダドは、ヨブが自分を世界の中心であるかのように語ることを非難するのです。

 5節から21節までをお読みします。

 悪しき者の光は消え/その炎も輝かない。その天幕の内では、光は闇となり/彼を照らす灯も消える。彼の力強い歩みは小さくされ/彼のたくらみが彼自身を打ち倒す。彼は自分の足で網にかかり/仕掛け網の上を歩く。罠はかかとをつかみ/網の罠は彼を締めつける。彼を捕らえる綱が地面に隠され/道には縄が仕掛けられている。恐怖が彼を取り囲み/その足を追いかける。彼の力は衰え/災いが傍らにやって来る。それは彼の皮膚のあらゆるところを食らい/死が体の隅々まで食い尽くす。彼は頼みとする天幕から引き抜かれ/恐怖の王のもとへ連れて行かれる。彼の天幕には身内でない者が住み/その住まいには硫黄が振りまかれる。土の下でその根は枯れ/土の上では枝がしおれる。彼の記憶は地から消え失せ/その名は巷からなくなる。彼は光から闇に追いやられ/この世から追い払われる。彼にはその民の中に子孫もなく、跡継ぎもなく/その住みかに生き残る者もいない。西の人々は彼の日々に戦慄し/東の人々は恐怖に捕らわれる。確かに不法をなす者の住まい/これが神を知らぬ者の居所である。

 ここでビルダドは、伝統的な知恵である応報思想を語っています。『箴言』の第13章9節に、「正しき者の光は輝き/悪しき者の灯は消えゆく」とあるように、悪しき者は必ず滅びるとビルダドは言うのです。このようにビルダドが悪しき者の滅びを語るのは、ヨブが「自分は正しい者であるにもかかわらず、神は自分をひどい目に遭わせられた」と言っていたからです(16:9〜17参照)。それは、「正しい者は良い報いを受け、悪しき者は悪い報いを受ける」という応報思想を否定する言葉であり、ビルダドには到底受け入れられない言葉であるのです。それゆえ、ビルダドは、悪しき者は必ず滅びると繰り返し語るのです。7節と8節に、「彼の力強い歩みは小さくされ/彼のたくらみが彼自身を打ち倒す。彼は自分の足で網にかかり/仕掛け網の上を歩く」とあります。このことも『箴言』に記されていることですね。『箴言』の第5章22節に、「悪しき者は自らの過ちの罠にかかり/その罪の綱につがなれる」とあるように、悪しき者は自分が仕掛けた罠にかかって、身を滅ぼすのです。このビルダドの言葉をよく読むと、ヨブのことを仄めかして語っていることが分かります。13節に、「それは彼の皮膚のあらゆるところを食らい/死が体の隅々まで食い尽くす」とあります。ここでの「死」は直訳すると「死の初子」となり、恐ろしい病を意味します。ビルダドは、ヨブの全身が悪性の腫れ物に打たれていることを仄めかして「彼の皮膚のあらゆるところを食らい、死の初子が体の隅々まで食い尽くす」と言うのです。また、19節に、「彼にはその民の中に子孫もなく、跡継ぎもなく/その住みかに生き残る者もいない」とあります。ここでもヨブのことが仄めかされています。ヨブは、同じ日に、七人の息子と三人の娘を亡くしているからです(1:2,19参照)。ビルダドは、20節と21節で、「西の人々は彼の日々に戦慄し/東の人々は恐怖に捕らわれる。確かに、これが不法をなす者の住まい/これが神を知らぬ者の居所である」と言います。ビルダドにとって、全身を死の初子に食い尽くされ、子孫も跡継ぎもないヨブは、「不法をなす者」であり、「神を知らぬ者」であるのです。ビルダドは、ヨブとその子供たちに起こったことが、ヨブが不法をなす者であり、神を知らぬ者であることを証明していると言うのです。

 しかし、私たちは、ヨブの苦しみの背後には、天上での主とサタンとのやりとりがあることを知っています(1、2章参照)。ヨブは主の目から見ても正しい人、主の僕でありました。ですから、ヨブに関して言えば、ヨブが受けている苦しみはヨブが不法をなす者であることを証明していないのです。そして、そのことは、もう一人の主の僕であるイエス・キリストにおいても言えます。また、主イエス・キリストの僕である私たちにおいても言えるのです。主イエス・キリストを信じている私たちは、世の中で不幸と言われる状態にあっても、神様の目に正しい者とされているのです。「正しい者が良い報いを受け、悪しき者が悪い報いを受ける」という応報思想は、主イエス・キリストにおいて終わりとなりました(ローマ10:4「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」参照)。正しい者であるイエス・キリストは、御自分の民の罪を担って悪い報い(神の呪い)を受けてくださいました(ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです」参照)。それゆえ、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じる私たちは、もはや悪い報いを受けることはありません。私たちは十字架の死から復活されたイエス・キリストにあって、すべての罪を赦され、正しい者、神の子とされるという良い報い(神の祝福)を受けているのです。イエス・キリストを信じている私たちは、たとえ不幸と呼ばれる状態にあっても、神の祝福の中を歩んでいるのです。

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