エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2024年2月14日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 16章9節~22節
聖書の言葉
16:9 神は怒って私を引き裂き、私を敵視し/私に向かって歯ぎしりする。/私の敵は私に鋭い目を向ける。
16:10 彼らは私に向かって口を開き/そしって私の頬を打ち/共に集まって私を攻める。
16:11 神は私をよこしまな者に引き渡し/悪しき者の手に投げ入れる。
16:12 私は平穏であったのに、彼は私を打ち砕き/私の首を捕まえて打ち叩き/私を立たせて標的とした。
16:13 彼の射手は私を包囲する。/彼は私のはらわたを切り裂いて容赦せず/私の胆汁を地に注ぎ出す。
16:14 神は私を破りに破って打ち破り/勇士のように私に向かって突進する。
16:15 私は粗布を肌に縫い付け/角を塵に埋め込む。
16:16 顔は泣いて赤くなり/まぶたには死の陰がある。
16:17 私の手には暴虐はなく/私の祈りは清いにもかかわらず。
16:18 大地よ、私の血を覆い隠すな。/私の叫びに休む場所を与えるな。
16:19 今も天に私の証人がいる。/私のために証言してくれる方が高い所にいる。
16:20 私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す。
16:21 この方が神に向かって人のために/人の子とその友の間に立って/弁護してくれるように。
16:22 僅かな年月が過ぎ去れば/私は帰らぬ道を行くだろう。ヨブ記 16章9節~22節
メッセージ
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第16章には「エリファズの二回目の弁論を受けてのヨブの答え」が記されています。2節から5節までは友人たちに対する言葉、6節以下は神に対する言葉が記されています。前回は、1節から8節まで学びましたので、今朝は、9節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
9節から17節までをお読みします。
神は怒って私を引き裂き、私を敵視し/私に向かって歯ぎしりする。私の敵は私に鋭い目を向ける。彼らは私に向かって口を開き/そしって私の頬を打ち/共に集まって私を攻める。神は私をよこしまな者に引き渡し/悪しき者の手に投げ入れる。私は平穏であったのに、彼は私を打ち砕き/私の首を捕まえて打ち叩き/私を立たせて標的とした。彼の射手は私を包囲する。彼は私のはらわたを切り裂いて容赦せず/私の胆汁を地に注ぎ出す。神は私を破りに破って打ち破り/勇士のように私に向かって突進する。私は粗布を肌に縫い付け/角を塵に埋め込む。顔は泣いて赤くなり/まぶたには死の陰がある。私の手には暴虐はなく/私の祈りは清いにもかかわらず。
9節に、「神は怒って私を引き裂き、私を敵視し/私に向かって歯ぎしりする。私の敵は私に鋭い目を向ける」とあります。ヨブは自分が受けている苦しみから、神がどのような神であるかを語ります。友人たちが、ヨブの苦しみからヨブの罪を推測したように、ヨブも自分の苦しみから神がどのような神であるかを推測するのです。ヨブが推測する神は、怒ってヨブを引き裂き、ヨブのことを敵視する神です。また、その表情は、ヨブに向かって歯ぎしりし、ヨブに鋭い目を向ける表情です。そのような神をヨブは「私の敵」と呼ぶのです。
10節に、「彼らは私に向かって口を開き/そしって私の頬を打ち/共に集まって私を攻める」とあります。「彼ら」とは自分を敵視する神に取り入る者たち、ここでは、「三人の友人たち」のことを言っているようです。ヨブは、第13章7節と8節で、友人たちにこう言っていました。「あなたがたは神のために不正を語り/神のために裁きをも語るのか。あなたがたは神に取り入って/神のために言い争うのか」。このように、三人の友人たちは神に取り入って、口を開き、ヨブを攻める者たちであるのです。
神はヨブをよこしまな者に引き渡し、悪しき者の手に投げ入れました。神は平穏に過ごしていたヨブを打ち砕き、ヨブの首を捕まえて打ち叩き、ヨブを立たせて標的とし、射手たち(弓を射る者たち)に包囲させました。神はヨブのはらわたを切り裂いて容赦せず、ヨブの胆汁を地に注ぎだすのです。「はらわた」は「深い感情の座」であると考えられていました。神は、ヨブの心をも切り裂かれたのです(はらわたがちぎれる思い、断腸の思い)。エリファズは、ヨブのことを「かたくなに神に向かって突進する」者と言いました(15:26)。しかし、勇士のようにヨブに突進するのは、神であるのです。神はヨブを破りに破って打ち破ります。神はヨブからすべての財産を奪い、子供たちを奪い、健康を奪い、社会的な地位や人間関係を奪ってしまったのです。15節に、「私は粗布を肌に縫い付け」とあります。「粗布」とは、嘆きと悲しみを表す物です。その粗布をヨブは肌に縫い付けていると言うのです。これはおそらく、悪性の腫れ物によってただれてしまったヨブの皮膚のことを言っているのでしょう。また、15節の後半に、「角を塵に埋め込む」とありますが、これは「角を高く上げる」の反対ですね(上サムエル2:1参照)。角は「力と誇り」の象徴です。その角を塵に埋め込むとは、無力と屈辱を意味します。神によって打ち破られたヨブは、粗布とも言えるただれた体で、無力と屈辱の中にあるのです。そのようなヨブの顔は泣いて赤くなり、まぶたには死の陰を思わせるくまがあるのです。しかも、神は、ヨブの手に暴虐はなく、ヨブの祈りは清いにもかかわらず、ヨブを敵視し、残忍に扱い、打ち破るのです。
17節のヨブの言葉は、大切ですね。「私の手には暴虐はなく/私の祈りは清いにもかかわらず」、神は怒って、ヨブを引き裂き、敵視される。ここに、友人たちには理解できない、ヨブの苦悩があるのです。
18節から22節までをお読みします。
大地よ、私の血を覆い隠すな。私の叫びに休む場所を与えるな。今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる。私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す。この方が神に向かって人のために/人の子とその友の間に立って/弁護してくれるように。僅かな年月が過ぎ去れば/私は帰らぬ道を行くだろう。
22節に「僅かな年月が過ぎ去れば/私は帰らぬ道を行くだろう」とあるように、ヨブは自分がもうすぐ死ぬことを意識していました。そのヨブが18節で、「大地よ、私の血を覆い隠すな。私の叫びに休む場所を与えるな」と言うのです。ここには、不当に殺された人の血が、神に向かって報復を求めるという考え方があります。『創世記』の第4章に、カインが弟のアベルを殺したお話しが記されています。その10節で、主は、カインに対してこう言われました。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」。そのアベルの血のように、ヨブは自分の血が報復を求めることを妨げないようにと願うのです。自分が死んだ後も、大地に流された自分の血が、神の不正を訴えるようにとヨブは求めるのです。ヨブは、誰に対して神の不正を訴えるのでしょうか。ヨブは、19節でこう言います。「今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる」。このヨブの言葉は、第9章33節の言葉を超えています。ヨブは第9章33節で、「我々(神とヨブ)の間には、我々二人の上に手を置く仲裁者がいない」と言っていました。しかし、第16章19節では、「今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる」と言うのです。そして、その証人とは、神であるのです。20節に、「私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す」とあるように、ヨブが涙を流して見つめる証人は、ヨブを打ち破る神であるのです。ヨブは神に対して、神の不正を訴えるのです。これは論理の破綻のように思えます。しかし、唯一の神を信じるヨブにとって、そのようにしか言えないのです。ヨブは、神が神に向かって自分のために、自分と友人たちの間に立って弁護してくれるようにと願います。私たちは、イエス・キリストの復活と聖霊の派遣によって、神が三位一体の神であり、天におられる証人が子なる神、御子イエス・キリストであることを知っています。『ヨハネの手紙一』の第2章1節に記されているように、「私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。しかし、ヨブは、ひとりの神に、父と子と聖霊の三つの位格があることを知りませんので、神が神に向かって自分のために弁護してくださることを願うのです。ヨブにとって、神は、自分を打ち砕き、引き裂く敵であると同時に、自分の正しさを弁護してくれる味方でもあるのです。