エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2024年2月07日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え①
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 16章1節~8節
聖書の言葉
16:1 ヨブは答えた。
16:2 私はこのようなことを何度も聞いた。/あなたがたは皆、慰める振りをして苦しめる。
16:3 「空しい言葉に終わりがあろうか。/あなたは何に駆り立てられて/そのように答えるのか」などと言う。
16:4 私も、あなたがたのように語ってみたい。/もし、あなたがたが私の立場にあったなら/私はあなたがたに対して言葉を連ね/あなたがたに向かって頭を振るだろう。
16:5 私の口はあなたがたを励まし/私は唇を動かしてあなたの苦痛を和らげる。
16:6 たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。/語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。
16:7 今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。
16:8 あなたは私をつかみ、証人とします。/痩せ細った私の姿が立って、私の前で証言する。ヨブ記 16章1節~8節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第16章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉には、「エリファズの二回目の弁論を受けてのヨブの答え」が記されています。
1節から5節までをお読みします。
ヨブは答えた。
私はこのようなことを何度も聞いた。あなたがたは皆、慰める振りをして苦しめる。「空しい言葉に終わりがあろうか。あなたは何に駆り立てられて/そのように答えるのか」などと言う。私も、あなたがたのように語ってみたい。もし、あなたがたが私の立場にあったなら/私はあなたがたに対して言葉を連ね/あなたがたに向かって頭を振るだろう。私の口はあなたがたを励まし/私は唇を動かしてあなたの苦痛を和らげる。
ヨブが「何度も聞いた」と言う「このようなこと」とは、悪しき者は悪い報いを受けるという、いわゆる「応報思想」のことです。第15章17節と18節で、エリファズはこう言っていました。「私はあなたに告げよう。聞け。私が見たことを私は述べよう。それは知恵ある人が示し/その先祖が隠さなかったものだ」。そして、20節でこう言います。「悪しき者は一生の間、もだえ苦しむ。冷酷な者には年の数が隠されている」。エリファズは、悪しき者には悪い報いがあるという応報思想を語るのです。しかも、ヨブに当てつけて語るのです。第15章24節から26節で、エリファズはこう言います。「苦しみと悩みが彼を襲い/戦いに臨む王のように彼を威圧する。それは彼が神に手向かい/全能者に対して傲慢に振る舞い/分厚い盾をかざし/かたくなに神に向かって突進するからだ」。苦しみと悩みに襲われている悪人、全能者に対して傲慢に振る舞い、突進する悪人こそ、ヨブであるとエリファズは言うのです。そのようなエリファズの弁論を受けて、ヨブは、「私はこのようなことを何度も聞いた。あなたがたは皆、慰める振りをして苦しめる」と言うのです。ヨブとエリファズの議論はここでも噛み合っていません。エリファズを始めとする友人たちは、ヨブの苦しみを見て、応報思想から、ヨブが罪を犯したから、ヨブは苦しみを受けていると考えました。そして、ヨブに悔い改めるようにと勧めるのです。しかし、ヨブは、自分が潔白であると考えていますので、そのような自分を苦しめる神こそが正しくないと主張するわけです。このように、ヨブと友人たちの議論は、噛み合うことなく、平行線をたどるのです。
3節に、「『空しい言葉に終わりがあろうか。あなたは何に駆り立てられて/そのように答えるのか』などと言う」とあります。このヨブの言葉は、第15章2節のエリファズの言葉を念頭に置いています。第15章2節で、エリファズは、こう言っていました。「知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか」。「風」と訳される言葉(ルアッハ)は「空しい」とも訳せます(新改訳2017参照)。また、ここでの「東風」は、東の砂漠から吹いてくる熱風で、「暴力的な精神」を象徴しています。エリファズを始めとする友人たちは、ヨブの言葉を風のような空しい言葉と見なし、ヨブが暴力的な精神に駆り立てられて語っていると見なしているのです。つまり、友人たちは、ヨブの言葉をまともに聴こうとはしていないのです。
そのような友人たちに、ヨブは4節で、「私も、あなたがたのように語ってみたい。もし、あなたがたが私の立場にあったなら」と言います(岩波訳「もし、あなたがたと魂の交換ができるならば」参照)。これは友人たちに対する皮肉(アイロニー)と言えます。友人たちがヨブの立場にあり、ヨブが友人たちの立場にあったならば、「私はあなたがたに対して言葉を連ね/あなたがたに向かって頭を振るだろう」と言うのです。「頭を振る」とは、不同意を表す仕草(ジェスチャー)です。友人たちは、頭を振りながらヨブの話を聞いていたようです。
5節に、「私の口はあなたがたを励まし/私は唇を動かしてあなたの苦痛を和らげる」とありますが、これも皮肉ですね。友人たちは唇を動かして、ヨブの苦痛を和らげているつもりですが、実際は、ヨブを苦しめているだけであるのです(16:2参照)。
6節から8節までをお読みします。
たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか。今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました。あなたは私をつかみ、証人とします。痩せ細った私の姿が立って、私の前で証言する。
2節から5節で、ヨブは、友人たちに対して語っていました。しかし、6節以下で、ヨブは神に対して語りかけています。
「たとえ私が語っても/私の苦痛は和らぎません。語らず忍んでも、どれだけ苦しみは去るでしょうか」。ヨブは嘆いても、嘆くことを忍んでも、苦しみをどうすることもできない胸の内を語ります。そのことを知っていながら、ヨブは、神に対して語らずにはおれないのです。ヨブは、7節で、こう言います。「今や、私は疲れ果て/あなたは私の仲間との友情を/ことごとく壊しました」。ここでの「仲間」は、三人の友人たちだけではなく、もっと広い仲間、親族や友人たちのことです。ヨブは悪性の腫れ物によって、社会から疎外された者となってしまったのです(2:7、8参照)。ヨブの苦しみは、財産と子供を失い、悪性の腫れ物に打たれたことに留まりません。ヨブは、親族や友人たちから疎遠となり、社会的には死んだ者と見なされていたのです。ヨブから距離を取った親族や友人たちは、ヨブが罪を犯したから罰を受けているのだろうと考えたのです(イザヤ53:4参照)。そして、その証人こそ、痩せ細ったヨブ自身の姿であるのです。8節に、「あなたは私をつかみ、証人とします。痩せ細った私の姿が立って、私の前で証言する」とあります。ヨブがいくら「自分は罪を犯していない。潔白である」と主張しても、そのヨブの痩せ細った姿が、「ヨブは罪を犯した」と証言していると言うのです。「悪しき者は悪い報いを受ける。ヨブが大きな災いを受けているのは、ヨブが大きな罪を犯したに違いない」。そのような応報思想に基づくならば、ヨブの痩せ細った姿は、ヨブの罪を証言しているのです。しかし、ヨブは、19節で、「今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる」と言うのです。痩せ細ったヨブの姿の証言を覆してくださる証人を、ヨブは天に思い描くのです。そして、私たちは、この天におられる証人こそ、主イエス・キリストであることを知っているのです。今朝はそのことを確認して終わりたいと思います。新約の429ページ。『ヨハネの手紙一』の第2章1節と2節をお読みします。
私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
私たちが受けている苦しみが、私たちの罪を証言しようとも、天におられるイエス・キリストが私たちの無罪を証言してくださいます。なぜなら、イエス・キリストは、私たちの罪のための宥めの献げ物として死んでくださり、復活してくださった御方であるからです。