ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え⑤ 2024年1月10日(水曜 聖書と祈りの会)

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ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え⑤

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 14章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:1 女から生まれた人間は/その人生も短く、苦悩に満ちている。
14:2 咲いては枯れる花のように/逃げ去る影のように、とどまることがない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を見開き/あなたに対して裁きの場に私を引き出します。
14:4 汚れたものから清いものを出せるでしょうか。/誰一人できはしません。
14:5 もし、人の日々が定められ/その月の数もあなたのもとにあるならば/越えることのできない境界をあなたは設けます。
14:6 その人から目を離してください。/そうすれば、休息を得て/雇い人のように/その日を楽しむことができるでしょう。
14:7 木には望みがある。/たとえ切られても、また芽を出し/その若枝は絶えることがない。
14:8 たとえその根が地中で古び/幹が土の上で死んでも
14:9 水気に会えば芽を吹き/苗木のように枝を伸ばす。
14:10 しかし、人間は死ねば横たわる。/人は息絶えれば、どこにいるのか。
14:11 水は海から消え去り/川は干上がって涸れる。
14:12 人は伏して起き上がらず/天がなくなるまで目を覚まさず/その眠りから覚めることはない。ヨブ記 14章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も水曜日の「聖書と祈りの会」では、『ヨブ記』を読み進めていきたいと思います。今朝は、第14章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝の御言葉で、ヨブは、三人の友人にではなく、神に語りかけています。ヨブは人間がどのような存在であるかを、神に語るのです。

 1節から6節までをお読みします。

 女から生まれた人間は/その人生も短く、苦悩に満ちている。咲いては枯れる花のように/逃げ去る影のように、とどまることがない。あなたはこのような者にさえ目を見開き/あなたに対して裁きの場に私を引き出します。汚れたものから清いものを出せるでしょうか。誰一人できはしません。もし、人の日々が定められ/その月の数もあなたのもとにあるならば/越えることのできない境界をあなたは設けます。その人から目を離してください。そうすれば、休息を得て/雇い人のように/その日を楽しむことができるでしょう。

 ヨブは「女から生まれた人間は、その人生も短く、苦悩に満ちている」と言います。人間は誰しも女から生まれてくるわけですが、ヨブはそのことにわざわざ言及します。『創世記』の第3章を読むと、神は、エデンの園で罪を犯した女にこう言われました。「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる。あなたは夫を求め、夫はあなたを治める」。また、神は、人にこう言われました。「あなたは妻の声に聞き従い/取って食べてはいけないと命じておいた木から食べた。あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり/苦しんで食べ物を得ることになる。土があなたのために生えさせるのは茨とあざみである。あなたは野の草を食べる。土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る」。このような人間として、私たちは女から生まれてくるのです。それゆえ、私たちの人生は短く、苦悩に満ちているのです。もちろん、私たちの人生にも良い時があると思います。「このような日々がずっと続けばよいのに」と思うことがあると思います。しかし、私たちは、咲いては枯れる花のように/逃げ去る影のように、とどまることができないのです。

 ヨブは3節で、「あなたはこのような者にさえ目を見開き/あなたに対して裁きの場に私を引き出します」と言います。ヨブは、法廷において被告として、また原告として神と語り合うことを願っていました(13:22参照)。しかし、ここで、ヨブが「あなた」と呼びかける神は、ヨブを裁く裁判官であるようです。ヨブは、神が自分の言い分を聞かずに、裁判官として、一方的に裁くことを恐れているのです。そのことを恐れて、ヨブ自身を含めた人間がどのようなものであるかを語るのです。人間が束の間の儚い存在であることを考慮して、裁きをしてほしいとヨブは言うのです。

 ヨブは「汚れたものから清いものを出せるでしょうか。誰一人できません」と言います。ここでの「汚れたもの」とは、罪をもって生まれ、自らも罪を犯している人間のことです。その人間から「清いもの」、罪のない者は生まれないのです。罪人である人間から生まれて来るすべての人間には生まれながらの罪、原罪があるのです(詩51:7「私は過ちの内に生まれ/母は罪の内に私を身ごもりました」参照)。

 ヨブは、5節で、神が人の日々、人生の月の数を定めておられ、人間には越えることのできない境界を設けていると言います。私たち人間には、自分では選ぶことのできない、自分の力ではどうすることもできない境界(境遇と限界)というものがあるのです。そして、その境界は、人に苦悩をもたらしているようです。それゆえ、ヨブは、こう言うのです。「その人から目を離してください。そうすれば、休息を得て/雇い人のように/その日を楽しむことができるでしょう」。ここで、ヨブは「その人」と三人称で言っていますが、他でもない自分のことを考えていると思います。ヨブは、13章27節と28節でこう言っていました。「あなたは私の足に枷をはめ/私のすべての道を見張り/私の足跡に印を付けます。このようにされた者は堆肥のように腐り果て/虫に食われた衣のようになるでしょう」。そのような神に対して、ヨブは、「私から目を離してください。そうすれば、休息を得て、雇い人のように休日を楽しむでしょう」と言うのです。

 7節から12節までをお読みします。

 木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し/その若枝は絶えることがない。たとえその根が地中で古び/幹が土の中で死んでも/水気に会えば芽を吹き/苗木のように枝を伸ばす。しかし、人間は死ねば横たわる。人は息絶えれば、どこにいるのか。水は海から消え去り/川は海から消え去り/川は干上がって涸れる。人は伏して起き上がらず/天がなくなるまで目を覚まさず/その眠りから覚めることはない。

 ヨブは、「木には望みがある」と言います。それは、たとえ切られても、また芽を出し、若枝は絶えないからです。木はその根が地中で古び、幹が土の上で死んでも、水気に会えば芽を吹き、苗木のように枝を伸ばすことができます。しかし、人間は死ねば横たわるだけです。起き上がることはありません。永遠に目を覚まさず、死の眠りから目覚めることはないのです。ヨブは人間が復活するという望みを持ってはいません。そして、このことは、人間が汚れた者として、罪を持って生まれてくることと関係しているのです。神は、エデンの園において、人にこう言われました。「園のどの木からでも食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはならない。取って食べると必ず死ぬことになる」。そして、善悪の知識の木から取って食べた人は、死ぬ者となったのです(創世3:19「あなたは塵だから、塵に帰る」参照)。『創世記』の記述から教えられることは、人は神の掟に背いて罪を犯したゆえに、死ぬ者となったということです。そうであれば、罪のない、罪を犯したことのない人がいれば、その人は死者の中から復活することになります。そして事実、聖霊によっておとめマリアからお生まれになったイエス・キリストは、罪のない御方、罪を犯したことのない御方であったゆえに、十字架の死から三日目に栄光の体で復活されたのです。そのようにして、神は、私たち人間に、復活の希望を与えてくださったのです。

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