ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え④ 2023年12月13日(水曜 聖書と祈りの会)
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ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え④
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 13章20節~28節
聖書の言葉
13:20 ただ二つのことを私にしないでください。/そうすれば、私はあなたの御顔を避けて/隠れたりはしません。
13:21 あなたの手を私の上から遠ざけてください/あなたの恐怖で私をおびえさせないでください。
13:22 そして、呼びかけてください。私は答えます。/あるいは、私に話させ、あなたが答えてください。
13:23 私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか。/私の背きと罪とを私に知らせてください。
13:24 どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか。
13:25 あなたは吹き散らされた木の葉を震え上がらせ/乾いたもみ殻を追い回すのでしょうか。
13:26 あなたは私について苦い宣告を書き記し/若き日々の過ちを私に受け継がせます。
13:27 あなたは私の足に枷をはめ/私のすべての道を見張り/私の足跡に印を付けます。
13:28 このようにされた者は堆肥のように腐り果て/虫に食われた衣のようになるでしょう。
ヨブ記 13章20節~28節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第13章20節から28節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。「聖書協会共同訳」に基づいてお話しします。
3節に、「私は全能者に語りかけ、神に訴えたい」とあるように、ヨブは友人たちの議論を打ち切って、神に語りかけることを決意します。そのヨブの覚悟が13節から19節に記されていました。ヨブは命がけで神と言い争うことを覚悟するのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
20節から28節までをお読みします。
ただ二つのことを私にしないでください。そうすれば、私はあなたの御顔を避けて/隠れたりはしません。あなたの手を私の上から遠ざけてください/あなたの恐怖で私をおびえさせないでください。そして、呼びかけてください。私は答えます。あるいは、私に話させ、あなたが答えてください。私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか。私の背きと罪とを私に知らせてください。どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか。あなたは吹き散らされた木の葉を震え上がらせ/乾いたもみ殻を追い回すのでしょうか。あなたは私について苦い宣告を書き記し/若き日々の過ちを私に受け継がせます。あなたは私の足に枷をはめ/私のすべての道を見張り/私の足跡に印を付けます。このようにされた者は堆肥のように腐り果て/虫に食われた衣のようになるでしょう。
ヨブは、神との言い争いに先立って、二つのことを願います。その二つとは、「あなたの手を私の上から遠ざけてください」という願いと「あなたの恐怖で私をおびえさせないでください」という願いです。神がヨブに災いをくだし、恐怖で脅えさせるならば、ヨブは神の前に出ることができず、言い争うこともできないのです。ヨブは第9章で、神と法廷で争うことを願いましたが、ここでの言い争いも法廷での言い争いです。ヨブは、神が呼びかけてくださり、自分が答えること。あるいは、自分に話させて、神が答えてくださることを願います。ヨブは、神に訴えられる被告でも、神を訴える原告でもよいので、神と語り合うことを願うのです。
ヨブが神に訴えたいこと、それは「私にはどれほど過ちと罪とがあるでしょうか。私の背きと罪とを私に知らせてください」ということです。ヨブは、友人たちに「自分は正しい」と主張してきました。18節でも、「私は裁きに備える。私が正しいことを私は知っている」と言っていました。そのヨブがここでは、自分が気づかずに犯した罪、無自覚の罪について神に問うているのです。私たちの罪には故意に犯す罪と、無自覚に犯してしまう罪があります。ヨブが「私の背きと罪とを私に知らせてください」と神に願うとき、無自覚の罪のことを言っているのです。
さらにヨブは、「どうして、あなたは御顔を隠し/私をあなたの敵と見なすのでしょうか」と問います。ヨブは故意に大きな罪を犯したことはありませんでした。また、無自覚に罪を犯したとしても、神から御顔を隠され、敵と見なされるような大きな罪を犯したことはないと考えていました。それなのに神は、木の葉やもみ殻に等しいヨブを震え上がらせ、追い回すのです。
そのことから推測されることは、神がヨブについて苦い宣告を書き記しているということです。また、神はヨブの若き日々の過ちをも問題にされているということです。「若き日々の過ち」とは、「社会的な責任を負う成人になる前に犯した過ち」のことです。例えば、ユダヤ人であれば、13歳で律法の軛を負って成人となりました。その成人になる前に犯した過ちを自分に受け継がせて、苦い宣告を書き記しているとヨブは言うのです。
神はヨブの足に枷をはめ、すべての道を見張り、その足跡に印を付けます。神はヨブを奴隷のように扱い、どのようなときも見張っているのです。そのようにされれば、誰であれ、堆肥のように腐り果て、虫に食われた衣のようになってしまうとヨブは言うのです。
ヨブは成人になってから故意に罪を犯したことはありませんでした。そのような意味で、「私が正しいことを私は知っている」と断言することができたのです。しかし、ヨブは、自分が知らないで犯した無自覚の罪や、若き日々の過ちを考慮に入れるならば、「私は正しい」とは言いません。では、ヨブが無自覚に犯した罪と若き日々の過ちが、ヨブが受けている苦しみに釣り合うものであるかと言えば、ヨブには到底そのようには思えないわけです。もし、自分が無自覚に犯した罪と若き日々の過ちが、自分が受けている苦しみに釣り合うのであれば、誰も神の御前に正しい者とされることはないとヨブは言うのです。
ここでヨブは、友人たちと同じ応報思想に基づいて、神に問いかけ、自分の苦しみについて思い巡らしています。しかし、私たちは、第1章と第2章に記されていた主とサタンとのやりとりから、ヨブの苦しみがヨブの罪によるものではないということを知っています。ヨブの苦しみの原因は、ヨブの無自覚の罪によるのでも、若き日々の過ちによるのでもなく、神の栄光が現れるためであることを知っているのです(ヨハネ9:3参照)。そして、実際、第38章で、ヨブに現れてくださった主は、ヨブの罪についてはまったくお語りにならないのです。そのことは、ヨブの苦しみがヨブの罪によるものではないことを示しているのです。ある研究者(並木浩一)が言っているように、「ヨブ記は語らないことによって重要なことを語る」書物であるのです(『ヨブ記注解』67頁)。神がヨブの罪について語らなかったことは、ヨブに罪がないことを示しているのです。そのようにして、神は、「私にはどれほど過ちと罪があるのでしょうか。私の背きと罪とを私に知らせてください」というヨブの言葉に、答えてくださったのです。神は答えないことによって、ヨブに答えてくださったのです。
「私が正しいことを私は知っている」と言ったヨブが、神に対して、「私にはどれほど過ちと罪があるでしょうか」と問うたことは、ヨブが「自分は正しいか正しくないか」の判断を最終的には神に委ねていることを示しています。このことは、使徒パウロが言っていることでもあります。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第4章3節から5節で、こう記しています。新約の298ページです。
あなたがたに裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、私は何ら意に介しません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。私には少しもやましいことはありませんが、それで義とされているわけではありません。私を裁く方は主です。ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。
パウロが、「私を裁く方は主です」と言うとき、その「主」とは「主イエス・キリスト」のことです。パウロは、主イエス・キリストの裁きにすべてをゆだねました。パウロにとって主の裁きは、正しいと公に宣言されて、神から誉れを受けるときであるのです。パウロだけではありません。主イエス・キリストを信じて歩んでいる私たちもそれぞれ、正しいと公に宣言されて、誉れを受けることになるのです。私たちが犯した多くの罪にもかかわらず、主イエス・キリストは、御自分にあって、私たちを正しい者として受けいれてくださり、誉れを与えてくださるのです。