ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え③ 2023年12月06日(水曜 聖書と祈りの会)
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ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え③
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 13章1節~19節
聖書の言葉
13:1 見よ、私の目はすべてを見た。/私の耳は聞いて、それを悟った。
13:2 あなたがたが知っていることは私も知っている。/私はあなたがたに劣らない。
13:3 しかし、私は全能者に語りかけ/神に訴えたい。
13:4 あなたがたは偽りを上塗りする者。/あなたがたは皆、無用の医者だ。
13:5 どうか、黙っていてくれ。/それがあなたがたの知恵であろう。
13:6 私の弁論を聞き/私の唇の訴えを心して聞け。
13:7 あなたがたは神のために不正を語り/神のために欺きをも語るのか。
13:8 あなたがたは神に取り入って/神のために言い争うのか。
13:9 神があなたがたの内を探ってもかまわないのか。/あなたがたは人を欺くように、神をも欺くのか。
13:10 あなたがたがひそかに神に取り入ったとしても/神は必ずあなたがたを叱責するだろう。
13:11 神の威厳はあなたがたを/震え上がらせないであろうか。/その恐れがあなたがたに臨まないであろうか。
13:12 あなたがたの主張は灰の格言だ。/あなたがたの盾は粘土の盾だ。
13:13 私の前で黙っていてくれ。/そうすれば、私は語ろう。/何が私に降りかかってもよい。
13:14 なぜ、私は自分の肉を歯にかませ/魂を私の手の内に置くのか。
13:15 神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず/ただ、私の道を神の前に訴えよう。
13:16 私にとって、そのことが救いだ。/神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ。
13:17 私の言葉をよく聞け。/私の述べることに耳を傾けよ。
13:18 私は裁きに備える。/私が正しいことを私は知っている。
13:19 私と言い争える者があろうか。/あるならば、今、私は黙して死んでもよい。ヨブ記 13章1節~19節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第13章1節から19節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。「聖書協会共同訳」に基づいてお話しします。
1節から12節までをお読みします。
見よ、私の目はすべてを見た。私の耳は聞いて、それを悟った。あなたがたが知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣らない。しかし、私は全能者に語りかけ/神に訴えたい。あなたがたは偽りを上塗りするもの。あなたがたは皆、無用の医者だ。どうか、黙っていてくれ。それがあなたがたの知恵であろう。私の弁論を聞き/私の唇の訴えを心して聞け。あなたがたは神のために不正を語り/神のために欺きをも語るのか。あなたがたは神に取り入って/神のために言い争うのか。神があなたがたの内を探ってもかまわないのか。あなたがたは人を欺くように、神をも欺くのか。あなたがたがひそかに神に取り入ったとしても/神は必ずあなたがたを叱責するだろう。神の威厳はあなたがたを/震え上がらせないであろうか。その恐れがあなたがたに臨まないであろうか。あなたがたの主張は灰の格言だ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。
ヨブは1節で、「見よ、私の目はすべてを見た。私の耳は聞いて、それを悟った」と言います。ヨブが目で見て、耳で聞いて、悟ったこと。それは、世界と人間の歴史に働く、人間には恣意的としか思えない、神の知恵と力であります。第12章24節と25節で、ヨブはこう言いました。「神はその地の民の頭から悟りを取り去り/彼らを道なき不毛の地に迷い込ませる。彼らは光なき闇の中で手探りする。神は彼らを酔いどれのように迷わせる」。神は、人間が正しいか正しくないかによってではなく、人間を惑わせ、破滅させられるのです。神が造られ、治めておられる世界と人間の歴史を、ヨブが目で見て、耳で聞いて、悟ったことは、この世界と人間の歴史は応報思想では説明がつかないことに満ちているということであるのです。
ヨブは2節で、「あなたがたが知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣らない」と言います。第3章のヨブの嘆きを受けて、三人の友人たちは、それぞれに語ってきました。友人たちはヨブを慰めに来たのですが、友人たちの言葉によってヨブが慰められることはありませんでした。ヨブは、「私は正しく、潔白である」と主張します。「正しい自分を苦しめる神こそが正しくない」と主張するのです。しかし、友人たちは、ヨブが苦しみに遭っているのは、ヨブが罪を犯したからだと言います。友人たちは、伝統的な知恵である応報思想に訴えて、ヨブを罪に定めて、神に悔い改めるようにと言うのです。ヨブが悪を離れて、悔い改めるならば、神はヨブを再び祝福してくださると言うのです。そのような友人たちの言葉を聞いて、ヨブは、「あなたがたが知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣らない」と言うのです。伝統的な知恵である応報思想については、ヨブも知っています。しかし、応報思想で説明できないことが、ヨブの身に起こっているわけです。正しい自分を、神は苦しめられる。この不可解な義人の苦しみこそ、ヨブにとっての最大の問題であるのです。しかし、友人たちは、誰一人として、このヨブの問題を分かってくれないわけですね。それで、ヨブは、友人たちとの対話を打ち切って、「私は全能者に語りかけ/神に訴えたい」と言うのです。そして、事実、20節以下は、全能者である神に対する語りかけとなっているのです。ヨブは、神に対して語りかける前に、友人たちへの非難の言葉と神と対決する自分の覚悟を語ります。4節から12節までは、友人たちへの非難の言葉が記されています。そして、13節から19節までは、神と対決するヨブの覚悟が記されているのです。
ヨブは4節で、「あなたがたは偽りを上塗りする者。あなたがたは皆、無用の医者だ」と言います。友人たちのどこが偽りなのでしょうか。それは、友人たちが、世界と人間の歴史は、応報思想では説明がつかないことに満ちているのに、すべてを応報思想で説明できるかのように振る舞っているからです。ヨブに起こったことを応報思想によって理解し、助言する友人たちは偽りを上塗りする無用の医者であり、ヨブを癒やすことはできないのです。そのような友人たちに、ヨブは、語るよりも、黙ることを求めます。「どうか、黙っていてくれ。それがあなたがたの知恵であろう」。このヨブの言葉の背景には、『箴言』の第17章28節の御言葉があります。そこにはこう記されています。「無知な者でも黙っていれば知恵ある人と思われ/唇を閉じれば分別ある人だと思われる」。このようにヨブは、友人たちに皮肉を言うのです。ヨブは、友人たちに、神に対する自分の弁論の聞き手になることを求めます。「私の唇の訴えを心して聞け」と言うのです。「苦しみの中にある人の魂の叫びを、神に対する真実の言葉を心に刻め」と言うのですね。
ヨブは7節で、「あなたがたは神のために不正を語り、神のために欺きをも語るのか」と言います。ここでの「不正」とか「欺き」も、4節の「偽り」と同じことを指しています。世界と人間の歴史は、応報思想で説明がつかないことに満ちているのに、神がすべてを応報思想によって治めているかのように語ること。それが、神のために不正を語ることであり、神のために欺きを語ることであるのです。そのようにして、友人たちは、神に取り入って、神のために言い争っているのです。友人たちは、神を非難するヨブに対して、神を弁護して、神の正しさを語ってきました。しかし、それは神に取り入ることであり、神を欺くことであるからです。なぜなら、友人たちは、神の御心を知らないのに、神はこのような御方であると語るからです。そもそも、神は人間によって弁護される必要はないのです。そのことは神の威厳を傷つけることであり、神の叱責を招くことであるのです。そのような神への畏れなくして、神について語っても、その言葉は灰の格言であり、粘土の盾のように役に立たないのです。
13節から19節までをお読みします。
私の前で黙っていてくれ。そうすれば、私は語ろう。何が私に降りかかってもよい。なぜ、私は自分の肉を歯にかませ/魂を私の手の内に置くのか。神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず/ただ、私の道を神の前に訴えよう。私にとって、そのことが救いだ。神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ。私の言葉をよく聞け。私の述べることに耳を傾けよ。私は裁きに備える。私が正しいことを私は知っている。私と言い争える者があろうか。あるならば、今、私は黙して死んでもよい。
ヨブは3節で、「私は全能者に語りかけ、神に訴えたい」と言いました。そのヨブの覚悟が、ここには記されています。ヨブは、第9章で、神と法廷で争うことを願いました。ここでも、ヨブは神と法廷で争うことを思い描いています。ヨブは命をかけて、神に自分の道を訴えることを望むのです。神に自分が正しいことを神に申し述べることこそ、ヨブが命と引き換えにでも得たい、望みであるのです。
ヨブは15節と16節でこう言います。「神が私を殺すと言うなら/私は何も望まず/ただ、私の道を神の前に訴えよう。私にとって、そのことが救いだ。神を敬わない者は/神の前に出ることができないからだ」。神に対して、自分が歩んできた正しい人生を訴えることこそ、ヨブにとって救いであるのです。なぜなら、神の御前に出ること自体が、自分が神を敬う者であることの証拠であるからです。このような望みを抱いていたヨブに、神は、第38章で現れてくださるのです。
今朝の御言葉を読んで、改めて思うことは、神に語りかけるということは、人間にとって、本来、命がけのことであるということです。創造主であり、聖なる神に語りかけることは、命がけのことであるのです。では、なぜ、私たちは、「天の父なる神様」と親しく語りかけることができるのでしょうか。それは文字通り、私たちの主であるイエス・キリストが、十字架の上で命をささげてくださったからです。イエス・キリストが、私たちの罪の贖いとして命をささげてくださったゆえに、私たちは、「天の父なる神様」と親しく祈ることができるのです。そして、ここに、私たちの救いの確かさがあるのです。