ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2023年11月22日(水曜 聖書と祈りの会)
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ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え①
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨブ記 12章1節~6節
聖書の言葉
12:1 ヨブは答えた。
12:2 確かに、あなたがたは優れた民である。/しかし、あなたがたと一緒に知恵も死ぬだろう。
12:3 私にも、あなたがたと同様に悟りがある。/私はあなたがたに劣らない。/このことを知らない者がいるだろうか。
12:4 私は友人たちの笑いぐさ。/神を呼び、神が答えてくださったのに/完全で正しき人が笑いぐさとなっている。
12:5 安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり/人が足を滑らせるのを待っている。
12:6 略奪者の天幕は安全で/神を怒らせる者/神を支配しようとする者は安らかである。ヨブ記 12章1節~6節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第12章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。
第12章には、第11章に記されていたナアマ人ツォファルの言葉を受けてのヨブの答えが記されています。第11章でツォファルは、「自分は正しい」と主張するヨブを偽り者、不義を行う者、愚か者と呼びました。第11章11節に、「神は偽る者を知っておられ、不義を見て気付かないことはない」とあります。この「偽る者」とは、「私の教えは純粋で/あなたの目にも私は清廉だ」と主張するヨブのことであるのです。また、第11章12節に、「愚か者は悟りを得るだろう。野ろばの子が人間として生まれることができるなら」とあります。ここでの愚か者は、口数を制することができないヨブのことです(2節参照)。野ろばの子が人間として生まれることは不可能ですから、愚か者のヨブが悟りを得ることも不可能であるとツォファルは言うのです。ヨブに残されている道は、心を定めて不義を遠ざけ、不正を行わないこと。そのようにして、神に立ち帰ることであるとツォファルは言います。神に立ち帰るならば、あなたの人生は真昼のように輝き、安らぎを得ることができると言うのです。ツォファルは、最後に警告の言葉をも語ります。第11章20節。「だが、悪しき者たちの目はかすみ/彼らは逃げ場を失い/その望みは吐息のように消える」。このように、ツォファルは苦しみの中にあるヨブを悪しき者と見なしているのです。このようなツォファルの言葉を受けて、ヨブはこう答えます。
第12章2節から6節までをお読みします。
確かに、あなたがたは優れた民である。しかし、あなたがたと一緒に知恵も死ぬだろう。私にも、あなたがたと同様に悟りがある。私はあなたがたに劣らない。このことを知らない者がいるだろうか。私は友人たちの笑いぐさ。神を呼び、神が答えてくださったのに/完全で正しき人が笑いぐさとなっている。安楽な思いの中には不運な者への侮蔑があり/人が足を滑らせるのを待っている。略奪者の天幕は安全で/神を怒らせる者/神を支配しようとする者は安らかである。
ヨブは、エリファズとビルダドとツォファルの三人の友人の弁論を受けて、「確かに、あなたがたは優れた民である」と言います。エリファズもビルダドもツォファルも、まるで自分が優れた民であるかのように、上から目線で、ヨブに語ってきました。そのことを皮肉って、ヨブは、「確かに、あなたがたは優れた民である」と言うのです。しかし、優れた民であるあなたがたの知恵も、あなたがたと一緒に死んでしまう。すなわち、あなたがたの知恵は束の間の空しいものに過ぎないとヨブは言うのです。ヨブは、「私にも、あなたがたと同様に悟りがある。わたしはあなたがたに劣らない。このことを知らない者がいるだろうか」と言います。ヨブが友人たちと同様に悟っていること。また、知らない者がいない「このこと」とは何でしょうか。それは、伝統的な知恵である応報思想のことです。「良いことをすれば良い報いを受ける。悪いことをすれば悪い報いを受ける」。このような応報思想は、ヨブも悟っていることであり、誰もが知っていることであるのです。しかし、ヨブにとって問題なのは、完全で正しい自分が、神から苦しみを受けているということです。このヨブの問題を友人たちは誰一人として共有してくれません。友人たちは、ヨブが罪を犯したから災いに遭っているのだと決めつけて、ヨブに悔い改めを迫るのです。そのような友人たちを、ヨブは自分のことを笑いぐさ(もの笑いの種)にしていると非難します。ヨブは神を呼び、神が答えてくださった祈りの経験を持っていました。ヨブは完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけて生きて来たのです(1:1参照)。しかし、そのヨブが今や友人たちの笑いぐさになってしまったのです。ヨブは、安楽な思いの中にある友人たちの心に、不運な自分への侮蔑があることを見抜きます。応報思想によれば、安楽な思いの中にある友人たちは正しい者であり、不運なヨブは悪しき者であるのです。そこには、正しい者が抱く悪しき者への侮蔑(相手を見下してさげすむの思い)があるのです。さらに、安楽の思いの中にある者には、「人が足を滑らせるのを待っている」思い、人の不幸を喜ぶ思いがあるとヨブは言うのです。このようにヨブは友人たちを厳しく非難するのです。
6節で、ヨブは、友人たちの発言の土台である応報思想が、現実にはそのとおりになっていないことを指摘します。応報思想によれば、略奪者の天幕は災いに遭い、神を怒らせる者、神を支配しようとする者は苦しんでいるはずです。しかし、現実には、「略奪者の天幕は安全で/神を怒らせる者/神を支配しようとする者は安らかである」のです。それなのに、友人たちは、応報思想をヨブに当てはめて、ヨブが災いに遭い、苦しんでいるのは、ヨブが罪を犯したからであると決めつけるのです。
6節の最後に、「神を支配しようとする者」とあります。この言葉は「神の知恵を支配しようとする友人たち」のことを指しています。ツォファルは、第11章7節で、ヨブに対して、「あなたは神を究め、見通すことができるか」と言いました。しかし、そのように語った友人たちの方が、自分たちの知恵によって、神の知恵を支配しているのです。友人たちは、完全で正しい人ヨブの苦しみを不可解なこととはせずに、自分たちの知恵で理解可能であるとして、ヨブを罪に定めました。そして、そのことは、神について正しくない態度であり、神を怒らせる態度であるのです(42:7「主はこれらの言葉をヨブに語った後、テマン人エリファズに言われた。『私の怒りがあなたとあなたの二人の友人に向かって燃え上がる。あなたがたは、私の僕ヨブのように確かなことを私に語らなかったからだ。』参照)。