ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え③ 2023年11月01日(水曜 聖書と祈りの会)
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ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え③
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 10章1節~7節
聖書の言葉
10:1 私の魂は生きることを拒む。/私は自分の嘆きを吐き出し/私の魂の苦しみの中から語ろう。
10:2 私は神に言おう。/「私を悪しき者としないでください。/どうして私と争うのか知らせてください。
10:3 あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。
10:4 あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか。
10:5 あなたの日々は人の日々と同じで/あなたの歳月は人間の歳月と同じなのですか。
10:6 あなたは私の過ちを追及し/私の罪を調べておられますが
10:7 あなたはご存じです/私が悪しき者ではないことを。/またあなたの手から私を救い出せる者は/誰もいないことを。ヨブ記 10章1節~7節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第10章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。「聖書協会共同訳」に基づいてお話しいたします。
第10章には、第9章に続いて、ヨブの言葉が記されています。
1節から7節までをお読みします。
私の魂は生きることを拒む。私は自分の嘆きを吐き出し/私の魂の苦しみの中から語ろう。私は神に言おう。「私を悪しき者としないでください。どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを/良しとするのですか。あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか。あなたの日々は人の日々と同じで/あなたの歳月は人間の歳月と同じなのですか。あなたはわたしの過ちを追求し/私の罪を調べておられますが/あなたはご存じです/私が悪しき者ではないことを。またあなたの手から私を救い出せる者は/誰もいないことを。
ヨブは、第9章で、神と法廷で争うことについて、また、神と自分との間に手を置く仲裁者について語りました。神の上に手を置く仲裁者は神以上の存在でなければなりませんから仲裁者はいません。それでヨブは、神に直接語りかけるのです。ヨブは生きることを拒む者、もはや失う者を持たない者として、自分の嘆きを吐き出し、魂の苦しみの中から、神にこう言います。「私を悪しき者としないでください。どうして私と争うのか知らせてください。あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを良しとするのですか」。ヨブは、全財産と子供たちを失い、自分も悪性の腫れ物によって苦しんでいました。なぜ、神はヨブにこのような災いを下されるのか。考えられることは、神がヨブを悪しき者と見なしているということです。しかし、ヨブは自分が正しい者、全き者であると確信していますので、「私を悪しき者としないでください。どうして私と争うのか知らせてください」と言うのです。ここでの「争い」は法廷での争いです。ヨブは、「どうして私と争うのですか」と神に問うのです(9:3参照)。ヨブは神にこう言います。「あなたの手の業である私を虐げ、退け/悪しき者のたくらみを照らすのを良しとするのですか」。ここでヨブは、自分が神の手の業による者、神によって造られた被造物であることを思い起こさせます。しかも、ヨブは完全で、正しく、神を畏れる、主の僕であるのです。正しい人ヨブを虐げ、退けることは、悪しき者のたくらみを照らすのを良しとすることであると、ヨブは神を非難するのです。それは、伝統的な知恵である応報思想に反することであるからです。
ヨブは、「あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか」と問います。ここで思い起こすべきは、『サムエル記上』の第16章7節の「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」という御言葉です。神は人の外見だけではなく、心を見る御方である。そのような神に、ヨブは、「あなたは肉の目を持ち/人が見るように御覧になるのですか」と問うのです。これは否定の答えを導く修辞的な問いです。ヨブが言いたいことは、「神は人が見るようには御覧にならない。人は姿形を見るが、神は心を見る」ということです。
また、ヨブは、「あなたの日々は人の日々と同じで/あなたの歳月は人間の歳月と同じなのですか」と問います。ここで思い起こすべきは、『詩編』の第90編2節です。そこにはこう記されています。「山々がまだ生まれず/あなたが地と世界を生み出される前から/いにしえからとこしえまであなたは神」。神は天地万物を造られた御方、時間をも造られた御方であるのです。そのような神に、ヨブは、「あなたの日々は人の日々と同じで/あなたの歳月は人間の歳月と同じなのですか」と問うのです。これも否定の答えを導く修辞的な問いです。ヨブが言いたいことは、「あなたの歳月は人間とは違う、あなたはとこしえの神である」ということです。
6節に、「あなたは私の過ちを追求し/私の罪を調べておられますが」とあります。ここには、ヨブが被った苦難、また、被っている苦難がどのような意味を持っているかが語られています。ヨブは、神による災いを、神が自分の過ちを追求し、調べている拷問のように考えているのです。岩波文庫から、内村鑑三が著した『ヨブ記講演』という本が出ています。そこで、内村鑑三は、人が拷問する理由を二つあげています。一つは自白させるため、二つ目は早く罪に定めるため。しかし、神には、この二つの理由は当てはまらないと、内村鑑三は言うのです。4節と5節にあるように、神は心を御覧になる方であり、とこしえに生きておられる御方です。ですから、ヨブを拷問にかけて、自白させようとしたり、早く罪に定めようとする必要はないのです。むしろ、ヨブが7節で言っているように、心を御覧になる神は、ヨブが悪しき者ではないことをご存じであるのです。心を御覧になる神は、ヨブが悪しき者ではないことをご存じである。しかし、神は、ヨブを苦しみに遭わせて、ヨブの罪を取り調べられる。そのように神が振る舞われるならば、誰もヨブを神の手から救うことはできない。そのことを、神よ、あなたはご存じのはずだと、ヨブは言うのです。ヨブの訴えによれば、神はまことに不条理な神であります。神は心を御覧になり、とこしえに生きておられます。そして、ヨブが悪しき者ではないことを知っているのです。その神がヨブを苦しみに遭わせて、ヨブの過ちを追求し、ヨブの罪を取り調べるのです。私たちは、第1章と第2章に記されていた天上での主とサタンとのやりとりを知っていますので、「ヨブは理由もなく神に従う者であるかどうかの試練を受けている」と解釈することができます。しかし、ヨブはそのことを知りませんので、ヨブにとって自分が被っている苦しみはまことに不可解なこと、不条理なことであるのです。