ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2023年10月25日(水曜 聖書と祈りの会)

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ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え②

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 9章25節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:25私の日々は飛脚より速く飛び去って/幸いを見ない。
9:26それは、葦の舟のように流れ去り/獲物に襲いかかる鷲のように速い。
9:27「嘆きを忘れ、暗い顔を捨て、明るく振る舞おう」/と言ってみても
9:28私はすべての苦痛を恐れている。/あなたが私を罪なき者とはしないことを/私は知っています。
9:29私が悪しき者だと言うならば/どうして、空しく労する必要があるでしょうか。
9:30たとえ私が雪で身を洗い/灰汁で手を清めても
9:31あなたは私を穴に沈め/私の上着さえ私を忌み嫌うでしょう。
9:32神は私のように人ではないから/「裁きの場に一緒に出ようではないか」/と私は応じることはできない。
9:33我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。
9:34どうか、神が私から杖を取り去り/その恐怖で私をおびえさせないように。
9:35そうすれば、私は語ることができ/神を恐れることはない。/私自身は今、そのようではないからだ。
ヨブ記 9章25節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第9章25節から35節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。「聖書協会共同訳」に基づいてお話しします。

 25節から31節までをお読みします。

 私の日々は飛脚より速く飛び去って/幸いを見ない。それは、葦の舟のように流れ去り/獲物に襲いかかる鷲のように速い。「嘆きを忘れ、暗い顔を捨て、明るく振る舞おう」と言ってみても/私はすべての苦痛を恐れている。あなたが私を罪なき者としないことを/私は知っています。私が悪しき者だと言うならば/どうして、空しく労する必要があるでしょうか。たとえ私が雪で身を洗い/灰汁で手を清めても/あなたは私を穴に沈め/私の上着さえ私を忌み嫌うでしょう。

 ヨブは再び、自分の人生を嘆きます。ヨブは、「私の日々は飛脚より速く飛び去って幸いを見ない。それは葦の舟のように流れ去り/獲物に襲いかかる鷲のように速い」と嘆くのです。「嘆きを忘れ、暗い顔を捨て、明るく振る舞おう」と言ってみても、ヨブを絶え間ない苦痛が襲います。主の僕であるヨブにとって、もっとも苦痛なことは、神が自分のことを罪なき者とはしないこと。悪しき者とすることです。しかし、ヨブは自分が罪を犯していない正しい者であることを知っています。そうでなければ、神に嘆き訴えること自体が空しいことであるのです。ヨブは、「たとえ私が雪で身を洗い/灰汁で手を清めても/あなたは私を穴に沈め/私の上着さえ私を忌み嫌うでしょう」と言います(「灰汁」とは「灰を水に入れてできた上澄み」のこと、洗剤として用いられた)。身を洗うこと、手を洗うことは、ヨブに罪がないことを表しています。しかし、そのヨブを神は穴に沈められるのです。この穴を、汚物を溜める穴(肥溜め)と理解して、新共同訳は、「あなたはわたしを汚物の中に沈め」と訳しています。汚物の中に沈められたヨブを、身に着けている上着さえ忌み嫌うというのです。このところは、『ゼカリヤ書』の第3章3節と4節を背景にしています。旧約の1482ページです(新共同訳)。

 ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」

 ここで大祭司ヨシュアは、主によって罪を取り去られて、晴れ着を着せられます。しかし、ヨブは、自分で身を清めても、神によって汚物の中に沈められるのです。大祭司ヨシュアとはまったく違った扱いを神から受けるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の787ページです(新共同訳)。

 32節から35節までをお読みします。

 神は私のように人ではないから/「裁きの場に一緒に出ようではないか」と私は応じることはできない。我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない。どうか、神が私から杖を取り去り/その恐怖で私をおびえさせないように。そうすれば、私は語ることができ/神を恐れることはない。私自身は今、そのようではないからだ。

 ここで、ヨブは再び法廷のことを思い浮かべます(9:2参照)。「神は私のように人ではないから『裁きの場に一緒に出ようではないか』と私は応じることができない」と言うのです。神は知恵と力ある御方であり、正義そのものであるからです。神を告発して被告の席に座らせることはできません。むしろ、そのように訴えた自分の方が逆に裁かれてしまいます。なぜなら、神は全世界を正しく裁かれる裁判官であるからです(創18:25参照)。

 また、ヨブは神と自分を仲裁してくれる者がいないことに思いを向けます。「我々の間には/我々二人の上に手を置く仲裁者がいない」。手を置くことは、その者のうえに権威を持つことを表しています。仲裁者は、二人の上に権威を持つ者として、公平で正しい裁きを下すのです。しかし、神の上に手を置くことができる者はだれもいません。それゆえ、ヨブと神の間に仲裁者はいないのです。ヨブと神の間に仲裁者はいないゆえに、ヨブは「どうか、神が私から杖を取り去り/その恐怖で私をおびえさせないように」と憐れみを乞うことしかできないのです。ヨブは神が自分から罰の象徴である杖を取り去り、神を恐れることなく語ることを望みます。しかし、現実のヨブは、そのようではないので、自分が正しく完全であることを確信しながらも、自由に語ることができないのです。

 今朝の御言葉で、ヨブは自分と神との間を公平に正しく裁く仲裁者を求めています。後に神は、イエス・キリストを、神と人との間を正しく裁く仲裁者として立てられました。父なる神は御子イエス・キリストに裁きの権能を委ねられました(ヨハネ5:22参照)。『ダニエル書』の第7章に、人の子のような者が、日の老いたる者(神)から権威、威光、王権を受けた幻が記されています。十字架の死から復活させられたイエス・キリストこそ、人の子であり、神と人との間を正しく裁く仲裁者であるのです。なぜなら、イエス・キリストは神の永遠の御子でありつつ、罪を別にして私たちと同じ人となられた御方であるからです。ヨブは、裁判官である神を訴えることはできないと言いましたが、このことは、イエス・キリストを信じる私たちにとって利点(有利な点)となります。なぜなら、全世界を裁かれるイエス・キリストは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた御方であるからです(ローマ4:25参照)。そのイエス・キリストが全世界を裁かれるのであれば、誰も私たちを罪に定めることはできないのです(ローマ8:38、39参照)。神と人との仲裁者であるイエス・キリストは、御自分の民である私たちを罪に定めることなく、公に正しい者として認めてくださるのです。

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