ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2023年10月11日(水曜 聖書と祈りの会)

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ビルダドの1回目の弁論を受けてのヨブの答え①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 9章1節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 ヨブは答えた。
9:2 確かに、そのとおりだと私は知っている。/人はどうして神に対し正しくありえようか。
9:3 人は神と争うことを望んでも/千に一つも答えることはできない。
9:4 神は心に知恵があり、力は強い。/神に対してかたくなになって/誰が無傷でいられよう。
9:5 山々を移す方を、山々は知らない。/神は怒りをもってこれらを覆す。
9:6 神が地をその場所で揺さぶると/その柱は揺れ動く。
9:7 神が太陽に命じると、太陽は昇らない。/神は星をも封じ込める。
9:8 神は自ら天を広げ/大海の高波を踏み歩く。
9:9 神は大熊座、オリオン座、プレアデス/そして南の星座を造られた。
9:10 この方は偉大なことをなさり、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。
9:11 見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず/神が過ぎ去っても、私は悟れない。
9:12 見よ、神が奪い取れば/誰が取り戻せようか。/誰が神に向かって/「何をするのだ」と言えようか。
9:13 神は怒りを鎮めず/ラハブを助ける者たちも神の下にかがみ込む。
9:14 まして、私が神に答えられようか。/神の前で言葉を選び出せようか。
9:15 たとえ私が正しくても、答えることはできない。/私を裁く方に憐れみを乞うほかはない。
9:16 たとえ私が呼んで、神が答えるとしても/私の声に神が耳を傾けるとは信じられない。
9:17 神は嵐によって私を傷つけ/理由もなく私に多くの傷を与える。
9:18 神は私に息つくいとまも与えず/私を苦しみで満たす。
9:19 もし、力に訴えれば、見よ、神は力強い。/もし、裁きに訴えれば/誰が私の証人となってくれるだろうか。
9:20 たとえ私が正しくても/私の口は私を悪しき者とする。/たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする。
9:21 私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。/私は生きることを拒む。
9:22 すべて同じことなのだ。/それゆえに私は言う/「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」と。
9:23 突然襲う鞭が人を殺し/罪なき者の試練を神は嘲る。
9:24 地は悪しき者の手に渡され/神は地を裁く者の目に覆いをかける。/神でないとしたら、一体誰がそうしたのか。ヨブ記 9章1節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第9章1節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。お配りした「聖書協会共同訳」に基づいてお話しします。第8章に記されていたビルダドの言葉を受けて、ヨブはこう答えます。

 2節から4節までをお読みします。

 確かに、そのとおりだと私は知っている。人はどうして神に対し正しくありえようか。人は神と争うことを望んでも/千に一つも答えることはできない。神は心に知恵があり、力は強い。神に対してかたくなになって誰が無傷でいられよう。

 ヨブの「確かに、そのとおりだと私は知っている」という言葉は、ビルダドが語ってきた応報思想(「応報」とは「善または悪の行為に対する報い」の意味)を受けてのものです。第8章20節で、ビルダドはこう言いました。「見よ、神は完全な者を退けない。悪をなす者の手を強くしない」。神がそのような御方であることをヨブも知っているのです。しかし、ヨブにとって問題であるのは、「人はどうして神に対して正しくありえようか」ということであります。これは分かりやすく言い換えると、「人はどのようにして神から正しい者であると認めていただけるのか」ということです。その手段として、ヨブは神と法廷で争うことを口にします。3節に、「人は神と争うことを望んでも」とありますが、この「争い」は法廷での争いであります。人と神が法廷で争うことは考えられないことですが、もし、そのことが実現しても、「千に一つも答えることはできない」。神にはまったく歯が立たないのです。神は心に知恵があり、力は強いからです。神に対して心を頑なにして、反抗するならば、誰も無傷でいることはできないのです。

 5節から10節までをお読みします。

 山々を移す方を、山々は知らない。神は怒りをもってこれらを覆す。神が地をその場所で揺さぶると/その柱は揺れ動く。神が太陽に命じると、太陽は昇らない。神は星をも封じ込める。神は自ら天を広げ/大海の高波を踏み歩く。神は大熊座、オリオン座、プレアデス/そして南の星座を造られた。この方は偉大なことをなさり、究め難く/その驚くべき業は数えきれない。

 10節に、「この方は偉大なことをなさり、究め難く/その驚くべき業は数えきれない」とあります。これと全く同じことを、第5章9節でエリファズは言っています。エリファズは、「この方は偉大なことをなされ、究め難く/その驚くべき業は数えきれない」と言って、地の面に雨を降らせ/野の表に水を送る恵みの神について、また、悪賢い人々の企てを打ち砕き、貧しい人を救う正義の神について語ったのです。しかし、ヨブは、怒りをもって山々を覆し、大地を揺らす、荒ぶる神について語ります。神は太陽を昇らせず(人間の目から隠し)、星をも封じ込められる御方であり、混沌(カオス)の象徴である大海を踏み歩く、星座を造られた御方であるのです。それゆえ、ヨブが「この方は偉大なことをなさり、究め難く/その驚くべき業は数えきれない」と言うとき、神は怒りをもって破滅をもたらす恐ろしい御方であるのです。

 11節から14節までをお読みします。

 見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず/神が過ぎ去っても、私は悟れない。見よ、神が奪い取れば/誰が取り戻せようか。誰が神に向かって/「何をするのだ」と言えようか。神は怒りを鎮めず/ラハブを助ける者たちも神の下にかがみ込む。まして、私が神に答えられようか。神の前で言葉を選び出せようか。

 ここでヨブは、「見よ、神が傍らを通り過ぎても、私は気付かず」と言っていますが、「傍らを通り過ぎる」と訳されている言葉(アーバル)は「違反する」とも訳せます(イザヤ24:5「彼らが律法に背き」参照)。ヨブは、神が自分との契約に違反していることをほのめかし、神を非難しているのです。神はヨブのことを、「私の僕ヨブ」と呼んでおりました(1:8、2:3参照)。ヨブはエドム人ですから、律法を与えられたイスラエルの民として神と契約を結んでいるわけではありません。しかし、神とヨブとの間には、主人と僕という契約関係が存在しているのです。創造主である神と被造物である人間との契約関係については、イエス・キリストの使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第2章9節で次のように記しています。「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります」。ここでパウロが言っていることは、応報思想です。応報思想は、創造主である神と被造物である人間との契約関係にまで遡ることができるのです。それゆえ、ヨブの友人たち、エリファズもビルダドも、応報思想をヨブに説いたのです。ただし、ビルダドは、応報思想を、必ずそうなるという法則にしてしまいました。ビルダドは応報の法則によって、大風で倒れた家の下敷きになって死んだヨブの子供たちは、罪を犯したと断定したのです。ヨブは、このような応報の法則を受け入れませんが、応報思想は受け入れているわけです(9:1参照)。そして、その応報思想は、創造主である神と被造物である人間の契約関係にまで遡ることができるのです。

 ここでヨブが語る神は、誰も逆らえない暴君のような神です。神が奪い取れば、誰も取り戻せない。神に向かって「何をするのだ」と誰も言うことはできない。怒る神の下には、混沌の勢力であるラハブを助ける者たちもかがみ込むのです。そのような神に、「私は答えられようか。神の前で言葉を選び出せようか」とヨブは言うのです。神はヨブが口を聞くこともできないほど偉大な、恐るべき御方であるのです。

 15節から24節までをお読みします。

 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私を裁く方に憐れみを乞うほかはない。たとえ私が呼んで、神が答えるとしても/私の声に神が耳を傾けるとは信じられない。神は嵐によって私を傷つけ/理由もなく私に多くの傷を与える。神は私に息つくいとまも与えず/私を苦しみで満たす。もし、力に訴えれば、見よ、神は力強い。もし、裁きに訴えれば/誰が私の証人となってくれるだろうか。たとえ私が正しくても/私の口は私を悪しき者とする。たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする。私が完全なのかどうか/もう私自身にも分からない。私は生きることを拒む。すべて同じことなのだ。それゆえに私は言う/「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」と。突然襲う鞭が人を殺し/罪なき者の試練を神は嘲る。地は悪しき者の手に渡され/神は地を裁く者の目に覆いをかける。神でないとしたら、一体誰がそうしたのか。

 ヨブは、「私が神に答えられようか。神の前で言葉を選び出せようか」と言いましたが、自分が正しいこと、完全であることを確信しています。しかし、神を訴えたとしても、神は裁く方(裁判官)であるので、ヨブは憐れみを乞うようになるのです。また、ヨブは、「たとえ私が呼んで、神が答えるとしても、私の声に神が耳を傾けるとは信じられない」と言うのです。それは、神が嵐によってヨブを傷つけ、理由もなくヨブに多くの傷を与えるからです。この「理由もなく」という言葉は、かつてサタンが主に対して語った言葉です。サタンは、「ヨブが理由なしに神を畏れるでしょうか」と言いました(1:8)。そして、ヨブは、「神は理由もなく私に多くの傷を与える」と言うのです。神はヨブに息つくいとまも与えず、ヨブを苦しみで満たすのです。ヨブは正しいにもかかわらず、理由もなしに多くの傷を受け苦しんでいる。ヨブはどうしたらよいのでしょうか。もし、力に訴えても、神は力強い御方で到底かないません。もし、裁きに訴えても、誰もヨブの証人となってくれる人はいません。なぜなら、神は絶対的に正しい御方であるからです。神の意思が法律になるほど、神は正しい御方であるのです。その神を不正な者として訴えるならば、ヨブの口が自分を悪しき者とするのです。20節の後半に、「たとえ私が完全でも/神は私を曲がった者とする」とありますが、このようなことを神から言われたわけではありません。ただ、伝統的な知恵である応報思想によれば、多くの傷を受け、苦しみで満たされているヨブは、神から曲がった者とされたと言えるのです。正しく、完全な自分を、神は曲がった者として扱われる。それゆえ、ヨブは、「私が完全なのかどうか、もう私自身にも分からない」と言うのです。そして、ヨブは生きることを拒み、「完全な者も悪しき者も神は滅ぼす」という結論に至るのです。「突然襲う鞭が人を殺し/罪なき者の試練を神は嘲る。地は悪しき者の手に渡され/神は地を裁く者の目に覆いをかける」。このようにヨブは、神を残酷な暴君であるかのように、悪を作り出す者であるかのように言うのです。ヨブは、災いをもたらす神を残酷な暴君として非難します。そのようにして、ヨブは正しく完全な自分を理由なく傷つけ、苦しめる神を訴えるのです。

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