エリファズの1回目の弁論を受けてのヨブの答え② 2023年9月27日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの1回目の弁論を受けてのヨブの答え②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 7章1節~21節
聖書の言葉
7:1 地上の人には苦役があるではないか。/その日々は雇い人の日々のようではないか。
7:2 奴隷のように日陰をあえぎ求め/雇い人のようにその賃金を待ち望む。
7:3 そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた。
7:4 横たわって、私は言う/「いつ起き上がれるか」と。/しかし夜は長く、暁まで寝返りを打ち続ける。
7:5 私の肉は蛆と塵の塊をまとい/皮は固まっては崩れる。
7:6 私の日々は機の杼よりも速く/望みなく過ぎ去る。
7:7 思い起こしてください/私の命が息にすぎないことを。/私の目は再び幸いを見ることはありません。
7:8 私を見る者の目は私を認めることがありません。/あなたの目が私に向けられても、私はいません。
7:9 雲は消え、去って行きます。/そのように、陰府に下る者が/上って来ることはありません。
7:10 その人はもはやその家に戻ることはなく/その場所も/もはやその人を見分けることができないのです。
7:11 それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。
7:12 私は大海でしょうか、竜でしょうか。/あなたは私の上に見張りを置きます。
7:13 私は言います。/「私の床は私を慰め/私の寝床は私の嘆きを支えてくれる」と。
7:14 しかし、あなたは夢で私をおののかせ/幻で私をおびえさせます。
7:15 私の魂は息が止まることを選び/生きた骨よりもむしろ死を選び取りました。
7:16 私は命をいといます。/いつまでも生きたくはありません。/私に構わないでください。/私の日々は空しいのです。
7:17 人とは何者なのか/あなたがこれを大いなる者として/これに心を向けるとは。
7:18 朝ごとに訪ね/絶え間なく吟味するとは。
7:19 いつまで、私から目を離さず/唾を呑み込む間も/私を放っておかれないのですか。
7:20 人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか。/どうして、私を標的にしたのですか。/どうして、私が私自身の重荷を/負わなければならないのですか。
7:21 どうして、あなたは私の背きを赦さず/私の過ちを見過ごしてくださらないのですか。/今、私は塵の上に横たわります。/あなたが私を捜しても、私はいません。
ヨブ記 7章1節~21節
メッセージ
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今朝は、第7章に記されているヨブの言葉から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。今朝は、お配りした聖書協会共同訳に基づいて、お話いたします。
1節から6節までをお読みします。
地上の人には苦役があるではないか。その日々は雇い人の日々のようではないか。奴隷のように日陰をあえぎ求め/雇い人のようにその賃金を待ち望む。そうだ/私は空しい月日を受け継ぎ/労苦の夜が割り当てられた。横たわって、私は言う/「いつ起き上がれるか」と。しかし夜は長く、暁まで寝返りを打ち続ける。私の肉は蛆と塵の塊をまとい/皮は固まって崩れる。私の日々は機の杼よりも速く/望みなく過ぎ去る。
ヨブは、つらい労働を強いられる雇い人の日々に人生をたとえます。人間は、奴隷のように日陰をあえぎ求め、雇い人のように賃金を待ち望んで生きている。では、ヨブの苦役、つらい労働とは何でしょうか。それは空しい月日を過ごすことです。ヨブに割り当てられた報酬とは何でしょうか。それは「労苦の夜」です。ここで「労苦の夜」と言われていることに注意したいと思います。通常、夜は、労苦から解放されるときです。夜は眠って体と心を休めるときです。しかし、ヨブにとってその夜さえも「労苦の夜」であるのです。ヨブは悪性の腫れ物を患っていました(2:7参照)。5節に、「私の肉は蛆と塵の塊をまとい/皮は固まって崩れる」とあるように、ヨブの肉体は痛々しい状態であるのです。そのようなヨブはなかなか眠れなかったようです。ヨブは横たわって寝ようとするのですが、眠れずに長い夜を過ごし、夜明けまで寝返りを打ち続けるのです。このヨブの言葉から推測すると、ヨブが悪性の腫れ物を患ってから何ヶ月か経っていたようです。ヨブの三人の友人は、ヨブに臨んだすべての災いを耳にして、それぞれの場所からやって来ました。それは、ヨブが災いを被ってから、何ヶ月か経った後のことでした。そうすると、友人たちが無言でヨブと過ごした七日七夜は、ヨブの子供たちの喪の期間というよりも、ヨブの喪の期間であったのかも知れません。ヨブはまだ生きています。しかし、社会的には死んだも同然であったからです。ヨブが悪性の腫れ物を患って、何ヶ月経ったのか分かりませんが、ヨブは自分の人生を振り返ってこう言います。「私の日々は機(はた)の杼(ひ)よりも速く/望みなく過ぎ去る」。「機の杼」とは「織物を織るときに、経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通すのに使われる道具」のことです。その機の杼よりも速く、ヨブの日々は望みもなく過ぎ去ると言うのです。
7節から10節までをお読みします。
思い起こしてください/私の命が息に過ぎないことを。私の目は再び幸いを見ることはありません。私を見る者の目は私を認めることがありません。あなたの目が私に向けられても、私はいません。雲は消え、去って行きます。そのように、陰府に下る者が/上って来ることはありません。その人はもはやその家に戻ることはなく/その場所も/もはやその人を見分けることができないのです。
ヨブは、神に語りかけます。「思い起こしてください。私の命が息にすぎないことを」。このヨブの言葉は、『創世記』の第2章7節を背景にしています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の生きを吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。ヨブは神の創造の御業を背景にして、「思い起こしてください。私の命が息にすぎないことを」と言うのです。ここでの「息」は、儚いものを意味しています。ヨブの命は儚いもの、束の間のものであるのです。ヨブは、「私の目は再び幸いを見ることはありません」と言います。この幸いは、ヨブが災いに遭う前の状態のことです。東の人々の中で最も大いなる人であった頃に味わっていた幸いのことです。エリファズは、第5章17節以下で、全能者の諭しを受け入れるならば、神はヨブを再び幸いな状態にしてくださると語りました。しかし、ヨブは「私の目は再び、幸いを見ることはありません」と神に対して言うのです。7節でヨブは、「わたしの目」自分の目について語りましたが、8節では、「私を見る者の目」自分を見る他人の目について語ります。「私を見る者の目は私を認めることがありません」。さらには、「あなたの目」神の目について語ります。「あなたの目が私に向けられても、私はいません」。周りの人たちのからの目だけではなく、神の目からもヨブは隠されてしまうのです。それは、ヨブが死者の領域である陰府に降ろうとしているからです。死者の世界である陰府は、命の神がおられないところと考えられていました(詩88編参照)。それゆえ、ヨブは、死者の世界である陰府に降る自分を、神は見つけることができないでしょう、と言うのです。雲が消え去って行くように、陰府に下る者が上って来ることはない。その人はもはやその家に戻ることはできず、その場所もその人を見分けることができない。住んでいた家からも忘れられてしまう。そうなる前に、ヨブはありったけの思いを口にするのです。
11節から16節までをお読みします。
それゆえ、私は自分の口を抑えず/私の霊の苦悩をもって語り/私の魂の苦痛をもって嘆きます。私は大海でしょうか、竜でしょうか。あなたは私の上に見張りを置きます。私は言います。「私の床は私を慰め/私の寝床は私の嘆きを支えてくれる」と。しかし、あなたは夢で私をおののかせ/幻で私をおびえさせます。私の魂は息が止まることを選び/生きた骨よりもむしろ死を選び取りました。私は命をいといます。いつまでも生きたくはありません。私に構わないでください。私の日々は空しいのです。
ヨブは、霊の苦悩をもって語り、魂の苦痛をもって嘆きます。「私は大海でしょうか、竜でしょうか」。「大海」も「竜」も、神が天地を創造されたときにあった混沌、カオスを表しています。『詩編』の第74編13節と14節に、こう記されています。「あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。レビヤタンの頭を砕き/それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです」。このように、神は天地を創造されたとき、混沌、カオスの勢力である竜やレビヤタンを打ち砕いたと信じられていたのです(バビロンの創造神話の影響があると考えられている)。神は大海や竜に勝利して、御自分の管理のもとに置かれています。その大海や竜のように自分をみなして、見張りを置かれるのですかとヨブは言うのです。完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけて歩んでいた私を、あなたは、あなたに敵対する大海や竜と同じように見なし、監視されるのですかとヨブは問うのです。
ヨブは、「私の床は私を慰め/私の寝床は私の嘆きを支えてくれる」と言って、寝床に入ります。しかし、神は夢でヨブをおののかせ、幻でおびえさせます。ヨブが眠れないのは、悪性の腫れ物のためだけではありません。ようやく眠れても、神は夢をもっておののかせるのです。ヨブが見る悪夢が神によるものであるかどうかは分かりません。しかし、ヨブはそのように考えているわけです。寝床につけば慰めを得られると思っても、眠ることもできず慰めを得ることができない。それゆえ、ヨブは、「私の魂は息が止まることを選び/生きた骨よりもむしろ死を選び取りました」と言うのです。「私は命をいといます。いつまでも生きたくはありません。私に構わないでください。私の日々は空しいのです」と言うのです。
続けてヨブはこう言います。17節から21節までをお読みします。
人とは何者なのか/あなたがこれを大いなる者として/これに心を向けるとは。朝ごとに訪ね/絶え間なく吟味するとは。いつまで、私から目を離さず/唾を呑み込む間も/私を放っておかれないのですか。人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか。どうして、私を標的にしたのですか。どうして、私が私自身の重荷を/負わなければならないのですか。どうして、あなたは私の背きを赦さず/私の過ちを見過ごしてくださらないのですか。今、私は塵の上に横たわります。あなたがわたしを捜しても、私はいません。
17節は、『詩編』の第8編の替え歌であると考えられています。『詩編』の第8編で、ダビデは次のように歌っています。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。ここで、ダビデは、天の月や星々を造られた神が人に心を留めて、顧みてくださることに感謝しています。しかし、ヨブは、そのことを迷惑なこととして非難するのです。ヨブにとって神は、絶え間なく自分のことを吟味する方であり、罪を犯そうものなら厳しい罰を与える方であるのです。ヨブは、神を「人を見張る方」と言います。「人を見張る方よ、私が罪を犯したとしても/あなたに何をなしえるでしょうか」。ここで、ヨブは自分が気づかないで犯した罪、無意識の罪のことを考えているようです。気づかないで犯した罪、無意識の罪のことを言えば、誰も神の御前に正しいとはされない。にもかかわらず、あなたは、私を標的とされ、私に罪の責任を問われる。ここで、ヨブはエリファズの考えを受け入れているようにも思えます。神は私の背きに罰を与えるだけなのか。私の背きを赦して、私の過ちを見過ごしてくださってもよいのではないか。こうヨブは問うのです。これは、神の義を問う問いですね。神の正しさは、罪を罰するだけの正しさなのか。神の正しさは、罪を赦してくださる正しさではないのか。このようなヨブの問いに、神はイエス・キリストを通して答えてくださったのです。神の義とは、罪を罰するだけの義ではなく、罪を赦してくださる義であることを、神はイエス・キリストの福音において示してくださったのです。しかし、それはまだまだ先のことです。ヨブは、「どうして、あなたは私の背きを赦さず/私の過ちを見過ごしてくださらないのですか」と問いつつ、塵の上に横たわります。そして、こう言うのです。「あなたが私を捜しても、私はいません」。このヨブの言葉は、神に対する別れの言葉と読めます。また、陰府に下る前に、恵みの神として、もう一度私を訪ねてほしいという願いの言葉にも読めます。私の背きを赦し、私の過ちを見過ごしてくださる方として、私を訪ねてほしい。そのようなヨブの願いが込められているようにも読めるのです。