エリファズの1回目の弁論を受けてのヨブの答え① 2023年9月20日(水曜 聖書と祈りの会)

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エリファズの1回目の弁論を受けてのヨブの答え①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 6章1節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 ヨブは答えた。
6:2 わたしの苦悩を秤にかけ/わたしを滅ぼそうとするものを/すべて天秤に載せるなら
6:3 今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ。
6:4 全能者の矢に射抜かれ/わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。
6:5 青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。飼葉があるのに牛がうなるだろうか。
6:6 味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか。
6:7 わたしのパンが汚れたもののようになれば/わたしの魂は触れることを拒むだろう。
6:8 神よ、わたしの願いをかなえ/望みのとおりにしてください。
6:9 神よ、どうかわたしを打ち砕き/御手を下し、滅ぼしてください。
6:10 仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。
6:11 わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。
6:12 わたしに岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか。
6:13 いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった。
6:14 絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。さもないと/全能者への畏敬を失わせることになる。
6:15 わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。
6:16 流れは氷に暗く覆われることもあり/雪が解けて流れることもある。
6:17 季節が変わればその流れも絶え/炎暑にあえば、どこかへ消えてしまう。
6:18 そのために隊商は道に迷い/混沌に踏み込んで道を失う。
6:19 テマの隊商はその流れを目当てにし/シェバの旅人はそれに望みをかけて来るが
6:20 確信していたのに、裏切られ/そこまで来て、うろたえる。
6:21 今や、あなたたちもそのようになった。破滅を見て、恐れている。
6:22 わたしが言ったことがあろうか/「頼む、わたしのために/あなたたちの財産を割いて
6:23 苦しめる者の手から救い出し/暴虐な者の手からわたしを贖ってくれ」と。
6:24 間違っているなら分からせてくれ/教えてくれれば口を閉ざそう。
6:25 率直な話のどこが困難なのか。あなたたちの議論は何のための議論なのか。
6:26 言葉数が議論になると思うのか。絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。
6:27 あなたたちは孤児をすらくじで取り引きし/友をさえ売り物にするのか。
6:28 だが今は、どうかわたしに顔を向けてくれ。その顔に、偽りは言わない。
6:29 考え直してくれ/不正があってはならない。考え直してくれ/わたしの正しさが懸っているのだ。
6:30 わたしの舌に不正があろうか/わたしの口は滅ぼすものを/わきまえていないだろうか。ヨブ記 6章1節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第6章より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 テマン人エリファズの言葉を受けて、ヨブはこう答えます。

 2節から7節をお読みします。

 わたしの苦悩を秤にかけ/わたしを滅ぼそうとするものを/すべて天秤に載せるなら/今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ。全能者の矢に射抜かれ/わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。青草があるのに野ろばが鳴くだろうか。飼葉があるのに牛がうなるだろうか。味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか。わたしのパンが汚れたもののようになれば、わたしの魂は触れることを拒むだろう。

 2節の「苦悩」と約されている言葉(カーシュ)は、第5章2節で「怒り」と訳されていたのと同じ言葉です。聖書協会共同訳は、そのことが分かるように、どちらも「憤り」と翻訳しています。聖書協会共同訳は、第6章2節を「どうか、私の憤りが正しく量られ/私の災いも一緒に秤にかけられるように」と翻訳しています。また、第5章2節を「憤りは無知な者を殺し/妬みは思慮なき者を死に至らせる」と翻訳しています。エリファズは、ヨブのことを憤る無知な者と言いました。それに対して、ヨブは、「自分の憤りを正しく判断してもらいたい。自分の憤りと災いを合わせて、判断してもらうならば、それは海の砂よりも重いことが分かるであろう」と言うのです。つまり、ヨブは、自分の憤りは愚か者の憤りとはまったく違うものであると言うのです。3節の後半に、「わたしは言葉を失うほどだ」とありますが、このところを聖書協会共同訳は、「そのために、私の言葉は激しいのだ」と翻訳しています。エリファズは、第3章に記されているヨブの嘆きの言葉を、愚か者の言葉と言います。しかし、ヨブの激しい言葉の背後には、海の砂よりも重いヨブの憤りと災いがあるのです。ヨブの災い、それは全能者(神)によるものであります。ヨブは全能者の矢で射抜かれ、ヨブの魂はその毒を吸っている。神はヨブに対して脅迫を陣を敷かれた。それゆえ、ヨブは苦悩し、激しい言葉を語るのです。

青草があるのに野のばが鳴くことはありません。飼葉があるのに牛がうなることはありません。それと同じように、神による災いがなければ、ヨブが激しい言葉を語ることはないのです。しかし、実際には、神はヨブに対して脅迫の陣を敷いているので、激しい言葉を語らざるを得ないのです。6節と7節に、「味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があるだろうか。わたしのパンが汚れたもののようになれば、わたしの魂は触れることを拒むだろう」とあります。このところを聖書協会共同訳は次のように翻訳しています。「味のないものを塩なしで食べられようか。卵の粘る白身に味が付いているだろうか。私の喉はこれに触れることさえ拒む。これらは私には腐った食物のようだ」。ここで、ヨブはエリファズの言葉を、味のないものに例えています。エリファズの言葉は、ヨブにとっては食べたくない腐った食物のようであるのです。

 8節から10節までをお読みします。

 神よ、わたしの願いをかなえ/望みのとおりにしてください。神よ、どうかわたしを打ち砕き/御手を下し、滅ぼしてください。仮借ない苦痛の中でもだえても/なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったということです。

 ヨブは、自分に対して脅迫の陣を敷く神に呼びかけます。ヨブは、神に、死を与えてくださいと願うのです。それほどに、ヨブの苦悩と災いは重いのです。エリファズは、ヨブが災いと労苦を収穫しているのは、災いを耕し、労苦を蒔いたからであると言いました(4:8参照)。しかし、ヨブは、「仮借ない苦痛の中でもだえても、なお、わたしの慰めとなるのは/聖なる方の仰せを覆わなかったことである」と言うのです(「仮借ない」とは「みのがしたりゆるしたりしない」の意味)。エリファズが、罪を犯したから苦しみを受けていると言ったのに対して、ヨブは、苦しみの中で、自分は罪を犯していないと言うのです。

 11節から13節までをお読みします。

 わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終わりが待っているのか。わたしに岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか。いや、わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった。

 ここでヨブは自分自身に問うています。ヨブは神によって打ち砕かれること、死を望んでいるのですが、神は死を与えてくださいません。天上の二回目の会合において、神は、サタンに、「命だけは奪うな」と言われました(2:6)。神から打ち砕かれることを望みながら、死を与えられないヨブは、「わたしはなお待たなければならないのか」「なお忍耐しなければならないのか」と嘆きます。ヨブは、「わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった」と言いますが、この言葉は、14節の「絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ」に繋がっています。ヨブにとって友人こそ、助けとなるはずでした。しかし、友人であるエリファズの言葉は、ヨブにとって何の助けにもならず、ヨブの力を奪ってしまうだけであったのです。

 14節から23節までをお読みします。

 絶望している者にこそ/友は忠実であるべきだ。さもないと/全能者への畏敬を失わせることになる。わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去ったあとの川床のように。流れは氷に暗く覆われることもあり/雪が解けて流れることもある。季節が変わればその流れも絶え/炎暑にあえば、どこかへ消えてしまう。そのために隊商は道に迷い/混沌に踏み込んで道を失う。テマの隊商はその流れを目当てにし/シェバの旅人はそれに望みをかけて来るが/確信していたのに、裏切られ/そこまで来て、うろたえる。今や、あなたたちもそのようになった。破滅を見て、恐れている。わたしが言ったことがあろうか「頼む、わたしのために/あなたたちの財産を割いて/苦しめる者の手から救い出し/暴虐な者の手からわたしを贖ってくれ」と。

 聖書協会共同訳は、14節を次のように翻訳しています。「友への慈しみを拒む者は/全能者への畏れを捨てている」。このように、ヨブは友人たちを非難するのです。ヨブが被っている災いを、罪の報いであるとして、神に立ち返るように勧める友人たちは、慈しみ(ヘセド)を拒む者であり、全能者への畏れを捨てている者であると言うのです。ヨブは、友人たちが自分に深い同情を示し、慰めの言葉を語ってくれるものと思っていました。しかし、友人たちから語られた言葉は、ヨブを悪人とする言葉であり、悔い改めを迫る言葉であったのです。冬に流れていた谷川が夏には枯れ谷となって、水を求める隊商(キャラバン)を欺くように、友人たちはヨブを裏切る者となったのです。ヨブが友人たちに求めているのは、彼らの財産や身代金ではありません。ヨブが友人たちに求めているのは、友としての忠実さ(ヘセド)であるのです。心からの同情と慰めの言葉であるのです。しかし、友人たちはヨブを裏切り、ヨブを苦しめる神の側に立って、ヨブを悪人とみなすのです。それは友人たちがヨブの破滅を見て、恐れているからです。神に祝福されていたヨブが神から災いを受けている。そのヨブの破滅を見て、友人たちは恐れて、「義人は祝福され、悪人は滅びる」という知恵によって、ヨブに起こったことを合理化して受けとめようとするのです(「合理化」とは「もっともらしく理由づけること」の意味)。そのような友人たちに、ヨブはこう言います。

 24節から30節までをお読みします。

 間違っているなら分からせてくれ/教えてくれれば口を閉ざそう。率直な話のどこが困難なのか。あなたたちの議論は何のための議論なのか。言葉数が議論になると思うのか。絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか。あなたたちは孤児をすらくじで取り引きし/友をさえ売り物にするのか。だが今は、どうかわたしに顔を向けてくれ。その顔に、偽りは言わない。考え直してくれ/不正があってはならない。考え直してくれ/わたしの正しさが懸かっているのだ。わたしの舌に不正があろうか。わたしの口は滅ぼすものをわきまえていないだろうか。

 エリファズは、ヨブが罪を犯したので災いを被っていると婉曲的に語りました。しかし、ヨブは、遠まわしな言い方ではなく、率直に言ってくれと願います。「絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」。このヨブの言葉には、自分の言葉にしっかりと耳を傾けてほしいという願いが込められています。エリファズは、「わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう」と言いましたが、ちっともヨブの苦悩を分かろうとはしないのです(5:8)。苦しんでいるヨブを非難することは、孤児をくじで取り引きし、友人を売り物にするような卑劣な行為であるのです。しかし、そのような友人たちに、ヨブは「わたしに顔を向けてくれ」と言います。ひどい皮膚病によって、変わり果てた自分に顔を向けてくれ。自分としっかり向き合ってくれと、ヨブは願うのです。友人たちは、ヨブが罪を犯したから災いを受けていると言うけれども、本当にそうだろうか、考え直してくれと言うのです。「考え直してくれ。わたしの正しさが懸かっているのだ」。ここにあるのは、「正しい者がなぜ苦しむのか」という問いです。友人たちはこの問いを避けるために、ヨブは罪を犯したに違いないと考えました。しかし、「聖なる方の仰せを覆わなかったことがわたしの慰めだ」と言うヨブにとって、「正しい者がなぜ苦しむのか」という問題こそ、神に問わざるを得ない問題であるのです。

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