エリファズの1回目の弁論② 2023年9月13日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの1回目の弁論②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 5章1節~27節
聖書の言葉
5:1 呼んでみよ/あなたに答える者がいるかどうか。聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか。
5:2 愚か者は怒って自ら滅び/無知な者はねたんで死に至る。
5:3 愚か者が根を張るのを見て/わたしは直ちにその家を呪った。
5:4 「その子らは安全な境遇から遠ざけられ/助ける者もなく町の門で打ち砕かれるがよい。
5:5 彼らの収穫は、飢えた人が食い尽くし/その富は、渇いた人が飲み尽くし/その財産は、やせ衰えた人が奪うがよい。」
5:6 塵からは、災いは出てこない。土からは、苦しみは生じない。
5:7 それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
5:8 わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。
5:9 計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。
5:10 神は地の面に雨を降らせ/野に水を送ってくださる。
5:11 卑しめられている者を高く上げ/嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。
5:12 こざかしい者の企てを砕いて/彼らの手の業が成功することを許されない。
5:13 知恵ある者はさかしさの罠にかかり/よこしまな者はたくらんでも熟さない。
5:14 真昼にも、暗黒に出会い/昼も、夜であるかのように手探りする。
5:15 神は貧しい人を剣の刃から/権力者の手から救い出してくださる。
5:16 だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
5:17 見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。
5:18 彼は傷つけても、包み/打っても、その御手で癒してくださる。
5:19 六度苦難が襲っても、あなたを救い/七度襲っても/災いがあなたに触れないようにしてくださる。
5:20 飢饉の時には死から/戦いの時には剣から助け出してくださる。
5:21 あなたは、陥れる舌からも守られている。略奪する者が襲っても/恐怖を抱くことはない。
5:22 略奪や飢饉を笑っていられる。地の獣に恐怖を抱くこともない。
5:23 野の石とは契約を結び/野の獣とは和解する。
5:24 あなたは知るだろう/あなたの天幕は安全で/牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
5:25 あなたは知るだろう/あなたの子孫は増え/一族は野の草のように茂ることを。
5:26 麦が実って収穫されるように/あなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
5:27 見よ、これが我らの究めたところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。
ヨブ記 5章1節~27節
メッセージ
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第3章に記されている「ヨブの嘆き」を受けて、テマン人エリファズは話し始めました。前回は、第4章に記されているエリファズの言葉を学びましたので、今朝は、第5章に記されているエリファズの言葉を学びたいと思います。
第5章1節をお読みします。
呼んでみよ/あなたに答える者がいるかどうか。聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか。
新共同訳は、「聖なるものをおいて、誰に頼ろうというのか」と翻訳していますが、聖書協会共同訳は、「あなたは聖なる者たちの誰に向かおうとするのか」と翻訳しています。ここでの「聖なる者たち」とは、第4章18節の「御使いたち」のことです。当時の人々は、御使いが神と人との間を取り持ってくれると考えていました。しかし、「ヨブの訴えに答えて、執り成してくれる御使いは誰もいない」とエリファズは言うのです。それは、ヨブが怒りによって自らを滅ぼす愚か者となってしまっているからです。
2節から5節までをお読みします。
愚か者は怒って自ら滅び/無知な者はねたんで死に至る。愚か者が根を張るのを見て/わたしは直ちにその家を呪った。「その子らは安全な境遇から遠ざけられ/助ける者もなく町の門で打ち砕かれるがよい。彼らの収穫は、飢えた人が食らい尽くし/その富は、渇いた人が飲み尽くし/その財産は、やせ衰えた人が奪うがよい。」
ここでエリファズは知恵の言葉を語っています。「愚か者は怒って自ら滅び/無知な者はねたんで死に至る」。エリファズは、この知恵の言葉を、自分の生まれた日を呪い、生まれてすぐに死んでしまえばよかったと嘆くヨブに当てはめるのです。エリファズは、「わたしは直ちにその家を呪った」と言いますが、これは私たちにとって、違和感を覚える言葉だと思います。と言いますのも、イエス・キリストの使徒パウロは、「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言っているからです(ローマ12:14)。しかし、エリファズは、「わたしは直ちに愚か者の家を呪った」と言うのです。これも実は、知恵の言葉に基づいています。『箴言』の第3章33節にこう記されています。「主に逆らう者の家には主の呪いが/主に従う人の住みかには祝福がある」。この知恵の言葉に基づいて、エリファズは、愚か者の家を呪うのです。それにしてもこの呪いの言葉は、ヨブにとって聞くに堪えない言葉であったと思います。なぜなら、ヨブは、同じ日にすべての子供を失い、全財産を失ってしまったからです。エリファズの呪いが、ヨブのうえに実現したかのように聞こえるわけですね。なぜ、エリファズは、ヨブが聞くに堪えない言葉を語るのでしょうか。この背景にも知恵の言葉があります。『箴言』の第27章5節と6節前半にこう記されています。「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は忠実さのしるし」。エリファズは、ヨブの忠実な友として、ヨブを愛するゆえに、ヨブが聞くに堪えないことを語るのです。そのようにして、今のヨブが、怒って自らを滅ぼす愚か者になっていることを悟らせようとするのです。
6節と7節をお読みします。
塵からは災いは出て来ない。土からは、苦しみは生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。
『創世記』の第2章によると、神は人を土の塵から造られました。『創世記』の第2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。人間の材料である土(アダマ)の塵からは災いも、苦しみも生じない。しかし、人間(アダム)は生まれれば必ず苦しむというのです。火花が必ず上に向かって飛ぶように、人間は生まれれば必ず苦しむ。災いに遭い、苦しむこと。それが人間の定めだというのですね。そのようにして、エリファズは、ヨブの苦しみを一般化するのです。
8節から16節までをお読みします。
わたしなら、神に訴え/神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。神は地の面に雨を降らせ/野に水を送ってくださる。卑しめられている者を高く上げ/嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。こざかしい者の企てを砕いて/彼らの手の業が成功することを許されない。知恵ある者はさかしさの罠にかかり/よこしまな者はたくらんでも熟さない。真昼にも、暗黒に出会い/昼も、夜であるかのように手探りする。神は貧しい人を剣の刃から/権力者の手から救い出してくださる。だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
エリファズは、「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」と言って、ヨブに、神に訴え、問題を任せるように促します。ただし、エリファズが、神に問題を任せるように勧めるとき、そこにはヨブが神に罪を告白することが含まれています。エリファズは、ヨブが大きな罪を犯したゆえに、災いに遭い苦しんでいると考えているからです。9節から16節には、神がどのような御方であるかが述べられています。神は計り難い大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる御方であります。神は雨を降らせ、生きて行くために必要な水を与えてくださる御方です。また、卑しめられている者を高く上げ、嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる御方であります。他方、悪賢い者の企てを砕いて、彼らの手の業が成功することを許されない御方であるのです。13節に、「知恵ある者はさかしさの罠にかかり/よこしまな者はたくらんでも熟さない」とあります。これは、イエス・キリストの使徒パウロが、『コリントの信徒への手紙一』の第3章19節で引用している御言葉です。そこでパウロは、こう記しています。「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり」。この世の知恵、神を畏れない者の知恵によっては、イエス・キリストを信じることはできません。そのようなこの世の知恵に捕らえられてはいけないとパウロは言うのです。『ヨブ記』に戻りますが、エリファズが、ここに記している神は、貧しい人を助け、高ぶる者を低くする御方です。また、悪賢い者に罰を与え、神を畏れる人を守り救い出してくださる御方です。ひと言で言えば、正義の神です。ですから、弱い人にも希望があり、不正な者はその口を閉ざすわけです。このこと自体は、聖書の教えに適った正しいことですが、問題は、それをヨブに対して語っているということです。エリファズは、ヨブが大きな罪を犯したと考えています。ですから、正義の神を語ることによって、ヨブに自分の罪を認めて悔い改めるように言いたいのだと思います。そして、今、受けている災いと苦しみを神の懲らしめとして受け入れるようにと諭すのです。
17節から27節までをお読みします。
見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み/打っても、その御手で癒してくださる。六度苦難が襲っても、あなたを救い/七度襲っても/災いがあなたに触れないようにしてくださる。飢饉の時には死から/戦いの時には剣から助け出してくださる。あなたは、陥れる舌からも守られている。略奪する者が襲っても/恐怖を抱くことはない。略奪や飢饉を笑っていられる。地の獣に恐怖を抱くこともない。野の石とは契約を結び/野の獣とは和解する。あなたは知るだろう/あなたの天幕は安全で/牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。あなたは知るだろう/あなたの子孫は増え/一族は野の草のように茂ることを。麦が実って収穫されるように/あなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。見よ、これが我らの究めたところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。
「見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人」。この言葉も、知恵の言葉を背景としています。『箴言』の第3章11節と12節にこう記されています。「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる」。この知恵の言葉を背景にして、「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない」と言うのです。ヨブは全能者(神)の戒めに背いたゆえに、懲らしめを受けている。そのことを認めて、神に立ち帰れと、エリファズは言うのです。そうすれば、神はヨブのひどい皮膚病を癒し、たくさんの子供とたくさんの家畜と多くの使用人を与えて、かつての祝福された状態に戻してくださる。「あなたは天寿を全うして墓に入るだろう」と言うのです。そのような神の祝福を語ることによって、エリファズは、ヨブに罪を認めさせ、神に立ち帰るように説得するのです。27節に、「見よ、これが我らの究めたところ」とあります。「我ら」とは、エリファズだけではなく、他の二人、ビルダドとツォファルも含んでいます。エリファズとビルダドとツォファルの三人の友人は、なぜ、ヨブがこれほど大きな災いに遭い、ひどい皮膚病にかかったのか分からなかったと思います。そのことを、七日七晩の沈黙の中で問うていたのではないでしょうか。そして、彼らは、ヨブの嘆きの言葉を聞いたわけです。自分の生まれた日を呪い、生まれてすぐに死ねばよかったと嘆くヨブの言葉を聞いたとき、三人の友人は確信したのだと思います。ヨブは大きな罪を犯して、神から懲らしめられているに違いないと。それで、エリファズは、伝統的な知恵の言葉を背景にしながら、ヨブに自分の罪を認めて、神に立ち帰るようにと言うのです。エリファズは、ヨブが自分たちの究めた確かなことを、受け入れてくれると思ったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。エリファズの言葉は、一般的な知恵の言葉としては、どれも素晴らしい言葉です(使徒パウロが引用しているほどに)。しかし、ヨブの心には届きませんでした。なぜなら、ヨブは自分が全能者の戒めに背いていないと考えているからです。