エリファズの1回目の弁論① 2023年9月06日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリファズの1回目の弁論①
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 4章1節~21節
聖書の言葉
4:1 テマン人エリファズは話し始めた。
4:2 あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが/誰がものを言わずにいられようか。
4:3 あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。
4:4 あなたの言葉は倒れる人を起こし/くずおれる膝に力を与えたものだった。
4:5 だが、そのあなたの上に何事かふりかかると/あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
4:6 神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか。
4:7 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか。
4:8 わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。
4:9 彼らは神の息によって滅び/怒りの息吹によって消えうせる。
4:10 獅子がほえ、うなっても/その子らの牙は折られてしまう。
4:11 雄が獲物がなくて滅びれば/雌の子らはちりぢりにされる。
4:12 忍び寄る言葉があり/わたしの耳はそれをかすかに聞いた。
4:13 夜の幻が人を惑わし/深い眠りが人を包むころ
4:14 恐れとおののきが臨み/わたしの骨はことごとく震えた。
4:15 風が顔をかすめてゆき/身の毛がよだった。
4:16 何ものか、立ち止まったが/その姿を見分けることはできなかった。ただ、目の前にひとつの形があり/沈黙があり、声が聞こえた。
4:17 「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。
4:18 神はその僕たちをも信頼せず/御使いたちをさえ賞賛されない。
4:19 まして人は/塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。
4:20 日の出から日の入りまでに打ち砕かれ/心に留める者もないままに、永久に滅び去る。
4:21 天幕の綱は引き抜かれ/施すすべも知らず、死んでゆく。」
ヨブ記 4章1節~21節
メッセージ
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前回、私たちは、第3章に記されているヨブの嘆きについて学びました。このヨブの嘆きを皮切りに、「ヨブと三人の友の議論」が始まります。最初に登場するのは、最年長者と思われるテマン人エリファズです。第15章10節に、「わたしたちの中には白髪の老人もあり/あなたの父より年上の者もある」とあります。この「白髪の老人」「ヨブの父よりも年上の者」とは、エリファズ自身であると思われます。ヨブの子供たちは、それぞれの家に住んでいましたが、まだ結婚はしていなかったようです。そうすると、ヨブは40歳ぐらいの働き盛りであったようです。老年のエリファズが中年のヨブに、こう言います。
2節から6節までをお読みします。
あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが/誰がものを言わずにいられようか。あなたは多くの人を諭し/力を失った手を強めてきた。あなたの言葉は倒れる人を起こし/くずおれる膝に力を与えたものだった。だが、そのあなたの上に何事かふりかかると/あなたは弱ってしまう。それがあなたの身に及ぶと、おびえる。神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか。
エリファズは、かつてヨブがどのような人物であったかを語ります。かつてのヨブは多くの人を諭し、力を失った手を強めてきました。ヨブはその言葉によって、倒れる人を起こし、くずおれる膝に力を与えてきたのです。しかし、ヨブは自分の身に災いが及ぶと弱ってしまい、脅えてしまいます。ヨブは、倒れる人を起こし、くずおれる膝に力を与えてきた言葉を、自分自身に語ることなく、自分の生まれた日を呪い、生まれてきたことを嘆くのです。そのようなヨブに、エリファズはこう言います。「神を畏れる生き方が/あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが/あなたの希望ではなかったのか」。ここでエリファズは、ヨブを非難しています。ヨブが神を畏れて生きるように、完全な道を歩むように、諭しています。しかし、ここで注意したいことは、ヨブは神の目から見ても、神を畏れて完全な道を歩んでいたということです(1:8、2:3参照)。エリファズは、ヨブが被った災いの知らせとヨブの嘆きの言葉を聞いて、ヨブが神を畏れて完全な道を歩んでいないと考えているのです。もっと言えば、エリファズは、ヨブが神に対して罪を犯したから、災いを被ったのだと考えているのです。それゆえ、エリファズはこう言うのです。7節から11節までをお読みします。
考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。彼らは神の息によって滅び/怒りの息吹によって消え失せる。獅子がほえ、うなっても/その子らの牙は折られてしまう。雄が獲物がなくて滅びれば/雌の子らはちりぢりにされる。
エリファズは、「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と言います。このような言葉によって、災いを被ったヨブに、自分の罪を考えさせるのです。エリファズは、自分の経験から、「災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いを収穫することになっている」と言います。これをヨブに当てはめると、ヨブが災いを収穫しているのは、ヨブが災いを耕し労苦を蒔いたからだと言うことになります。しかし、第1章と第2章に記されていたように、ヨブが災いを被っている背景には、天上での神とサタンとのやりとりがあるのです。ヨブに限って言えば、ヨブが災いを収穫しているのは、ヨブが災いを耕し、労苦を蒔いたからではないのです。
エリファズは、災いを耕す悪しき者は、「神の息によって滅び/怒りの息吹によって消え失せる」と言います。ここで「息吹」と訳されている言葉(ルアーハ)は「風」とも訳せます。第1章19節に、こう記されていました。「すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました」。ここで「風」と訳されている言葉が、第4章9節で「息吹」と訳されているのです。ですから、このエリファズの言葉は、大風によって子供たちを失ったヨブの胸をえぐるような言葉であるのです。
10節の「獅子」は災いを耕す悪人を表しています。エリファズは、災いを被って嘆くヨブを、吠える獅子になぞらえているのです。そのようにして、エリファズは、ヨブが犯したであろう罪を認め、悔い改めて、神を畏れる完全な道を歩むように諭すのです。
12節から21節までをお読みします。
忍び寄る言葉があり/わたしの耳はそれをかすかに聞いた。夜の幻が人を惑わし/深い眠りが人を包むころ/恐れとおののきが臨み/わたしの骨はことごとく震えた。風が顔をかすめてゆき/身の毛がよだった。何ものか、立ち止まったが/その姿を見分けることはできなかった。ただ目の前にひとつの形があり/沈黙があり、声が聞こえた。「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。神はその僕たちを信頼せず/御使いたちをさえ賞賛されない。まして人は/塵の中に基を置く土の家に住む者。しみに食い荒らされるように、崩れ去る。日の出から日の入りまでに打ち砕かれ/心に留める者もないままに、永久に滅び去る。天幕の綱は引き抜かれ/施すすべも知らず、死んでゆく」。
ここでエリファズは、自分が経験した神秘的な体験について語ります。12節から16節までは、それがどのような体験であったかが記されています。そして、17節から21節までは、その神秘的な体験において示された言葉が記されています。エリファズは、自分が神の顕現に接し、神の言葉を受けたと考えていますが、必ずしもそうとは言えません。エリファズが受けた霊感は神からのものではなく、サタンから来たものである可能性もあるのです(列王上22:18~23参照)。そして、エリファズが受けた言葉から判断すると、サタンから来たものであった可能性が高いと思います。確かに、「神よりも正しい人間はいませんし、造り主より清い人間もいません」。神の御前に正しい人間も、清い人間もいないのです。そのことは、聖書全体が教えている真理です。しかし、だからと言って、神が人を信頼せず、心に留めることもしないかと言えば、そうではありません。エリファズは、「神はその僕たち(御使いたち)をも信頼しない」と言いますが、神は僕ヨブを信頼しておられます。もし、神が僕ヨブを信頼していなければ、サタンからの挑戦を受けることもありませんでした。また、エリファズは、「塵から造られた、もろく儚い人間に心を留める者はいない」と言いますが、神はヨブに心を留めておられます。神はサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか」と言われるほどに、ヨブに心を留めているのです。ここでエリファズが言っていることは次のようなことです。「神の御前に正しい人間などいない。神は天使さえも信頼されない。まして土の塵から造られた人間を信頼されることはない。人間はもろく儚い存在で、神にとってはどうでもよい、滅ぶべきものである」。しかし、神はそのような御方ではありません。少なくとも、イエス・キリストにおいて御自分を示された神はそのような御方ではないのです。それゆえ、第42章7節で、神はテマン人エリファズにこう仰せになるのです。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」。神は御自分の僕ヨブを信頼し、ヨブに心を留められる御方であります。そして、神は、御自分の僕イエスにあって、私たちを信頼し、私たちに心を留めてくださる御方であるのです。