ヨブの嘆き② 2023年8月30日(水曜 聖書と祈りの会)
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ヨブの嘆き②
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- 村田寿和 牧師
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ヨブ記 3章11節~26節
聖書の言葉
3:11 なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
3:12 なぜ、膝があってわたしを抱き/乳房があって乳を飲ませたのか。
3:13 それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに。
3:14 今は廃虚となった町々を築いた/地の王や参議らと共に
3:15 金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。
3:16 なぜわたしは、葬り去られた流産の子/光を見ない子とならなかったのか。
3:17 そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ/疲れた者も憩いを得
3:18 捕われ人も、共にやすらぎ/追い使う者の声はもう聞こえない。
3:19 そこには小さい人も大きい人も共にいて/奴隷も主人から自由になる。
3:20 なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
3:21 彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって/死を探し求めているのに。
3:22 墓を見いだすことさえできれば/喜び躍り、歓喜するだろうに。
3:23 行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる。
3:24 日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。
3:25 恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。
3:26 静けさも、やすらぎも失い/憩うこともできず、わたしはわななく。ヨブ記 3章11節~26節
メッセージ
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今朝は、『ヨブ記』の第3章11節から26節より、「ヨブの嘆き」という題でお話しします。
前回、私たちは、ヨブの呪いについて学びました。ヨブは自分の生まれた日を呪うことによって、造り主である神に恨みつらみを述べました。ヨブの呪いは、造り主である神に対する最大級の抗議の表現であるのです。
ヨブの呪いの言葉に続いて、今朝の御言葉には、ヨブの嘆きの言葉が記されています。
11節から19節までをお読みします。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き/乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに。今は廃墟となった町々を築いた/地の王や参議らと共に/金を蓄え、館を銀で満たした諸侯と共に。なぜわたしは、葬り去られた流産の子/光を見ない子とならなかったのか。そこでは神に逆らう者も暴れ回ることをやめ/疲れた者も憩いを得/捕らわれ人も、共にやすらぎ/追い使う者の声はもう聞こえない。そこには小さい人も大きい人も共にいて/奴隷も主人から自由になる。
「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」というヨブの言葉は、答えを求める質問ではなく、嘆きの言葉であります。「わたしなど、母の胎にいるうちに、死んでしまえばよかったのに。せめて、生まれてすぐに息絶えてしまえばよかったのに」とヨブは嘆いているのです。同じ日に、すべての子供と全財産を失い、自分自身もひどい皮膚病にかかって苦しんでいるヨブは、「母の胎にいるうちに死んでしまえばよかった。生まれてすぐ息絶えてしまえばよかった」と嘆くのです。これは、造り主である神を非難する言葉でもあります。そのような言葉を口にしてしまうほどに、ヨブの苦しみは大きく、悩みは深いのです。また、ヨブは、12節でこう言います。「なぜ、膝があってわたしを抱き/乳房があって乳を飲ませたのか」。これは、自分を産んだ母親に対する非難の言葉です。ヨブが災いに遭う前、神様から祝福されていた頃、ヨブは自分を産んでくれた母親に感謝していたと思います。しかし、災いのただ中にあるヨブは母親がしてくれた愛の配慮を余計なお世話として退けるのです。13節に、「それさえなければ、今は黙して伏し/憩いを得て眠りについていたであろうに」とあるように、ヨブは、死者の世界に、憩いを求めるのです。14節から19節には、ヨブが思い描く死者の世界が語られています。ヨブが思い描く死者の世界は、平等で、憩いを得ることのできる安らかな世界です。ここで、ヨブは死者の世界を理想化しています。生きることの苦しみから解放された世界、それがヨブの思い描く死者の世界であるのです。旧約聖書において、死者の世界と命の神は無関係であると考えられていました。『詩編』の第88編で、詩人は次のように歌っています。「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がって/あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか」(詩88:11~13)。死者の世界に、命の神はおられない。それゆえ、ヨブは、死者の世界に思いを馳せるのです。なぜなら、ヨブの認識によれば、自分を苦しみに遭わせているのは神様であるからです(1:21「主は与え、主は奪う」、2:10「わたしたちは、神から幸福もいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」参照)。
20節から26節までをお読みします。
なぜ、労苦する者に光りを賜り/悩み嘆く者を生かしておられるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にまさって/死を探し求めているのに。墓を見いだすことさえできれば/喜び踊り、歓喜するだろうに。行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる。日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった。静けさも、やすらぎも失い/憩うこともできず、わたしはわななく。
「なぜ、労苦する者に光りを賜り/悩み嘆く者を生かしておられるのか」。これも、答えを求める質問の言葉ではなく、「光」と「命」を与えられる神を非難する嘆きの言葉です。労苦する者、悩み嘆く者は、死を待っているのに、神は死ではなく、命を与えられる。労苦する者、悩み嘆く者は、死を宝にまさって探し回っているのに、神は彼らに光を与えて、生かしておられる。では、神は生きている者の労苦と悩みを取り去ってくださるかと言えば、そうはしてくださらない。23節に、「行くべき道が隠されている者の前を/神はなお柵でふさがれる」とあるように、「将来に希望を持てずに、どのように生きればよいか分からない人を神は解放してくださらない」とヨブは言うのです。かつてヨブは、神の柵によって祝福の内に守られていました(1:10参照)。しかし、今、ヨブは、神の柵によって労苦と悩みの内に閉じ込めているのです。
日ごとのパンと、湧き出る水は、神から与えられる良きものであります。しかし、今や、ヨブには、日ごとのパンのように嘆きが与えられ、湧き出る水ようにうめきがでてくるのです。25節に、「恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった」とあります。ヨブが「恐れていたこと」、「危惧していたこと」とは、何でしょうか。それは、「神が祝福を取り去り、災いをくだすこと」であると思います。ヨブは、七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産と、多くの使用人を持つ、東の国一番の富豪でした。ヨブは神の祝福を一身に受けていたのです。そのヨブが恐れていたこと、危惧していたこと。それはこの幸せな日々がいつか終わりを迎えるのではないかということです。そのようなことがないように、ヨブは、息子たちのためにも、罪を贖ういけにえをささげていたのです(1:5参照)。しかし、ヨブの恐れていたこと、危惧していたことが起こったのです。神はヨブからすべての祝福を奪い、ヨブをひどい皮膚病にかからせました。ヨブは神によって静けさも安らぎも失いました。「もはや憩うことはできず、恐れに体はふるえる」と言うのです。なぜ、ヨブはわなないているのか。なぜ、ヨブの心は乱されているのか(聖書協会共同訳参照)。それは、神を畏れ、悪を避けて生きていた自分に対して、神がこのように振る舞われるからです。ヨブは死者の世界を理想化して描きますが、ヨブの本当の願いは、もう一度神から安らぎと憩いを得ることであるのです。しかし、そのような状況とはほど遠いので、ヨブの体はわななき、心は乱れているのです。