ダビデの最後の歌 2023年4月26日(水曜 聖書と祈りの会)
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ダビデの最後の歌
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記下 23章1節~7節
聖書の言葉
23:1 以下はダビデの最後の言葉である。エッサイの子ダビデの語ったこと。高く上げられた者/ヤコブの神に油注がれた者の語ったこと。イスラエルの麗しい歌。
23:2 主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。
23:3 イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は
23:4 太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。
23:5 神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる。
23:6 悪人は茨のようにすべて刈り取られる。手に取ろうとするな
23:7 触れる者は槍の鉄と木を満身に受ける。火がその場で彼らを焼き尽くすであろう。サムエル記下 23章1節~7節
メッセージ
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『サムエル記下』の第21章から第24章までは、ダビデについての様々な伝承を付け加えた補遺です。今朝の御言葉には、「ダビデの最後の言葉」、ダビデの遺言が記されています。エッサイの子ダビデは、主によって高く上げられた者として、ヤコブの神によって油を注がれた王として、麗しい歌を語るのです。
2節と3節前半をお読みします。
主の霊はわたしのうちに語り/主の言葉はわたしの舌の上にある。イスラエルの神は語り/イスラエルの岩はわたしに告げられる。
ここには、ダビデの預言者意識が表れています。ダビデは、主の霊を受けた者として、主の言葉を語るのです。イスラエルの神は、ダビデを通して、御言葉をお語りになるのです(二ペトロ1:21参照)。
3節後半から5節までをお読みします。
神に従って人を治める者/神を畏れて治める者は/太陽の輝き出る朝の光/雲もない朝の光/雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる。
「神に従って治める者」とは「義によって治める者」のことです(新改訳2017参照)。ヤコブの神を畏れる王様が、義によって民を治めるとき、そこでもたらされる恩恵が、太陽の輝き出る朝の光に譬えられています。雨の後の陽の光が、若草を萌え出させるように、神を畏れる王の正しい支配は、イスラエルの民に命と繁栄をもたらすのです。
5節で、ダビデが「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る」と記すとき、その永遠の契約とは、第7章に記されていた、ナタンの預言、いわゆるダビデ契約のことです。神様は、預言者ナタンを通して、ダビデにこう言われました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル下7:12、13)。この主の契約をダビデは信じて、ダビデの子孫から出るメシアを待ち望んでいるのです。「わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」。この「芽生えさせてくださる」という言葉から「若枝」(ツェマハ)というメシア称号が生まれました。例えば、『イザヤ書』の第11章には、「エッサイの株からひとつの芽が萌え出で/その根からひとつの若枝が育ち」とあります(イザヤ11:1)。この「若枝」は、「芽生えさせてくださる」という言葉から派生した名詞です。「わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」。この言葉は、ダビデが自分の子孫から出るメシアを信じる者であったことを教えています。ダビデも、やがて来られるイエス・キリストを信じて救われたキリスト者であったのです(ウェストミンスター信仰告白7章5節参照)。
6節と7節をお読みします。
悪人は茨のようにすべて刈り取られる。手に取ろうとするな/触れる者は槍の鉄と木を満身に受ける。火がその場で彼らを焼き尽くすであろう。
ここでの「悪人」は、ダビデの子孫から出る悪しき王のことを言っているようです。神を畏れることなく、不義によって民を治める王に対する警告の言葉が記されているのです。茨は、手に取られることなく、槍などによって集められ、火で焼かれてしまいます。そのような悪い王になることがないように、ダビデは、永遠の契約を信じる王として、警告の言葉を記しているのです。このダビデの言葉は、ユダ王国の最後の王ゼデキヤの時代に、バビロンの軍隊によってエルサレムが火で焼かれることによって実現します。『列王記』の著者によれば、ユダ王国で正しい王様は、ヒゼキヤとヨシヤの二人だけでした(列王下18:3、22:2参照)。他の王様はすべて悪い王様であったのです。しかし、それにもかかわらず、神様は、ダビデの家を見捨てることなく、ダビデの子孫から神を畏れる正しい王、イエス・キリストを遣わしてくださいました。イエス・キリストを十字架の死から復活させて、神の右の座に上げることによって、「ダビデの王座をとこしえに堅く据える」という約束を実現してくださったのです。そのことを、ダビデは、『詩編』で預言していました。そのダビデの預言の成就として、ペトロは、イエス・キリストの復活と昇天と着座について語るのです。『使徒言行録』の第2章29節から36節までをお読みします。新約の216ページです。
兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
預言者であるダビデは、『詩編』の第16編において、イエス・キリストの復活を預言しました。また、『詩編』第110編で、イエス・キリストの昇天と着座を預言しました。それは、ダビデが、神の永遠の契約を信じて、自分の子孫から出る若枝、メシアを待ち望む者であったからです。ダビデの預言の源には、神の永遠の契約を信じ、自分の身からであるメシアを待ち望む信仰があったのです。