ダビデの感謝の歌 2023年4月19日(水曜 聖書と祈りの会)
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ダビデの感謝の歌
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記下 22章1節~51節
聖書の言葉
22:1 ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた。
22:2 主はわたしの岩、砦、逃れ場
22:3 わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え/不法から救ってくださる方。
22:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
22:5 死の波がわたしを囲み/奈落の激流がわたしをおののかせ
22:6 陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
22:7 苦難の中から主を呼び求め/わたしの神を呼び求めると/その声は神殿に響き/叫びは御耳に届く。
22:8 主の怒りに地は揺れ動き/天の基は震え、揺らぐ。
22:9 御怒りに煙は噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる。
22:10 主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え
22:11 ケルビムを駆って飛び/風の翼に乗って現れる。
22:12 周りに闇を置き/暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。
22:13 御前の輝きの中から炭火が燃え上がる。
22:14 主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられる。
22:15 主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。
22:16 主の叱咤に海の底は姿を現し/主の怒りの息に世界はその基を示す。
22:17 主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。
22:18 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
22:19 彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり
22:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。
22:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。
22:22 わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。
22:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。
22:24 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。
22:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目の前にわたしは清い。
22:26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に
22:27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。
22:28 あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。
22:29 主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる。
22:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。
22:31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。
22:32 主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。
22:33 神はわたしの力ある砦/わたしの道を完全にし
22:34 わたしの足を鹿のように速くし/高い所に立たせ
22:35 手に戦いの技を教え/腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。
22:36 あなたは救いの盾をわたしに授け/自ら降り、わたしを強い者としてくださる。
22:37 わたしの足は大きく踏み出し/くるぶしはよろめくことがない。
22:38 敵を追い、敵を絶やし/滅ぼすまで引き返さず
22:39 彼らを餌食とし、打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。
22:40 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ/刃向かう者を屈服させ
22:41 敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。
22:42 彼らは見回すが、助ける者は現れず/主に向かって叫んでも答えはない。
22:43 わたしは彼らを地の塵のように砕き/野の土くれのように踏みにじる。
22:44 あなたはわたしを民の争いから解き放ち/国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え
22:45 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い/敵の民は憐れみを乞う。
22:46 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。
22:47 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。
22:48 わたしのために報復してくださる神よ/諸国の民をわたしの下においてください。
22:49 敵からわたしを救い/刃向かう者よりも高く上げ/不法の者から助け出してください。
22:50 主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。
22:51 勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。
サムエル記下 22章1節~51節
メッセージ
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『サムエル記下』の第21章から第24章までは、ダビデについての様々な伝承を付け加えた、いわゆる補遺であります。今朝は、第22章に記されている「ダビデの感謝の歌」を御一緒に学びたいと思います。ちなみに、この歌とほぼ同じ歌が、『詩編』の第18編に記されています。
1節に「ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた」と記されています。ここには、この歌がいつ頃ささげられたのかは記されていません。しかし、この歌の内容全体から判断すると、ダビデがウリヤの妻バトシェバと姦淫の罪を犯す前であったと考えられます。と言いますのも、21節から25節を読むと、ダビデは、自分が主の道を守り、神に背かない正しい者であると言っているからです。このようなダビデの自己認識は、ウリヤの妻バトシェバと姦淫の罪を犯す前であると考えられます(第11章)。また、51節に「勝利を与えて王を大いなる者とし/油注がれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで慈しみのうちにおかれる」とありますので、ナタンの預言、いわゆるダビデ契約の後であると考えられます(第7章)。第8章に、ダビデが周辺の異邦の民と戦って屈服させたことが記されていますので、その頃、ダビデはこの感謝の歌をささげたのではないかと思います。
2節から4節までをお読みします。
主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方。ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
ここには「ダビデの信仰告白」が記されています。ダビデは、サウル王の手を逃れて、荒れ野をさまよいました。荒れ野において、岩などに身を隠してサウルの手から逃れたのです。「その岩こそ、主である」とダビデは言うのです。イスラエルの神、主(ヤハウェ)こそ、ダビデを逃れさせ、ダビデに勝利を与え、不法から救ってくださる方であるのです。ここで「不法」と言われていることに注意したいと思います。サウル王はダビデを殺そうとしました。しかし、それはダビデが不法を働いたからではありません。ダビデは、サウルに対して何の罪も犯していないのです。そのようなダビデを殺そうとするサウルこそ、不法を働いているのです。ダビデは、サウルの手から逃れていたとき、主を呼び求めて、救われてきたのです。
5節から7節までをお読みします。
死の波がわたしを囲み/奈落の激流がわたしをおののかせ/陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。苦難の中から主を呼び求め/わたしの神を呼び求めると/その声は神殿に響き/叫びは御耳に届く。
ここには「苦難の中からの祈り」が記されています。ダビデは、自分が体験した苦難を、「死の波」「奈落の激流」「陰府の縄」「死の網」に譬えます。その苦難の中からダビデは、主の御名を呼ぶのです。「主」とは、その昔、モーセに示された神様の御名前であります。「わたしはある」という意味ですが、そこには「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれています。そのような主の名をダビデは呼ぶのです。そして、神は、ダビデといつも共にいてくださる主として、ダビデの祈りに耳を傾けてくださるのです。なぜなら、ダビデこそ、主が選ばれたイスラエルの王、メシアであるからです。
8節から16節までをお読みします。
主の祈りに地は揺れ動き/天の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙りは噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる。主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え/ケルビムを駆って飛び/風の翼に乗って現れる。周りに闇を置き/暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。御前の輝きの中から炭火が燃え上がる。主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられる。主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。主の叱咤に海の底は姿を現し/主の怒りの息に世界はその基を示す。
ここには「主の顕現」が記されています。ダビデの叫びを聞かれた主は、ダビデを救うために現れてくださいます。主の顕現(現れ)が地震や火山の噴火や密雲や稲妻などの自然現象によって描かれています。『出エジプト記』の第19章に、シナイ山に主が降って来られたことが記されています。そのときには、文字通り、地震や火山の噴火や密雲や稲妻などの自然現象が起こったことが記されています。主は、そのような恐るべき御方であるのです。しかし、その主がダビデの祈りを聞いてくださり、ダビデを救うために現れてくださったのです。
17節から20節までをお読みします。
主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり/わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。
ここには「主の救い」が記されています。ダビデは、大水の中に沈みそうな苦難の中から、何度も主に救っていただいたのです。また、自分を憎む、力ある敵の手から、何度も主に救っていただいたのです。主は、ダビデを支え、ダビデを広い所に導き出してくださいました。主はダビデを助け、喜び迎えてくださったのです。
21節から25節までをお読みします。
主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目の前にわたしは清い。
ここには「救われたダビデの自己認識」が記されています。主によって救われたダビデは、「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる」と歌います。『ヘブライ人への手紙』の第11章6節に次のように記されています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。ダビデは、自分の正しさに報いてくださる神様を信じていたのです。ダビデにとって、主に救っていただいた体験は、そのような信仰を増し加えるものであったのです。それゆえ、ダビデは、ますます罪から身を守り、主に対して完全な者になろうとするのです。
26節から31節までをお読みします。
あなたは慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に/清い人には清くふるまい/心の曲がった者には策略を用いられる。あなたは貧しい民を救い上げ/御目は驕る者を引き下ろされる。主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる。あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。
ここには「主の正しさと恵み」が記されています。26節と27節にあるように、主は誰に対しても同じように振る舞われるのではありません。主は、御自分に対する人間の態度と同じように振る舞われるのです。これは、神様と人間との関係が人格的な関係であるからです。主は、主の慈しみに生きる人に対して、慈しみを示してくださいます。ここでの「慈しみ」(ヘセド)は、「契約に対する誠実な愛」を表します。神様の契約に対する誠実な愛に生きる人とは、28節前半の「貧しい民」のことです。主は、御自分に依り頼む貧しい民を、契約に対する誠実な愛をもって救ってくださるのです。しかし、心の曲がった者、28節後半の「驕る者」には、策略を用いて、引き下ろされるのです。ダビデは、主の慈しみに生きる貧しい者として、「主よ、あなたはわたしのともし火/主はわたしの闇を照らしてくださる」と語ります。第21章17節に、ダビデの家来たちが、ダビデのことを「イスラエルの灯(ともしび)」と言っていました。しかし、ダビデは、自分に油を注いで、イスラエルの王としてくださった主こそ、「わたしのともし火である」と言うのです。ここでの「ともし火」は希望の光を象徴しています。これから先どうなるのか分からない闇のような人生を、主が照らしてくださり、導いてくださったのです。主が、敵軍を追い散らし、練り清められた真実な御言葉で、ダビデを導いてくださったのです。そのことは、ダビデだけではありません。「すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる」とあるように、私たちも主に依り頼むならば、主は私たちを御自分の慈しみの内に守ってくださるのです。
32節から46節までをお読みします。
主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。神はわたしの力ある砦/わたしの道を完全にし/わたしの足を鹿のように速くし/高い所に立たせ/手に戦いの技を教え/腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。あなたは救いの盾をわたしに授け/自ら降り、わたしを強い者としてくださる。わたしの足は大きく踏み出し/くるぶしはよろめくことがない。敵を追い、敵を絶やし/滅ぼすまで引き返さず/彼らを餌食とし、打ち、再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ/刃向かう者を屈服させ/敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。彼らは見回すが、助ける者は現れず/主に向かって叫んでも答えはない。わたしは彼らを地の塵のように砕き/野の土くれのように踏みにじる。あなたはわたしを民の争いから解き放ち/国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え/わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い/敵の民は憐れみを乞う。敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。
ここには「ダビデに勝利を賜る神」について記されています。ここでの「敵」は、サウルのことではありません。なぜなら、ダビデはサウルと戦うことはしなかったからです。ここでの敵は、第8章に記されているダビデが打ち破り、屈服させた異邦の民のことです。ダビデは、アラム、モアブ、アンモン人、ペリシテ人、アマレクなどの異邦の民を打ち破り、隷属させました。なぜ、そのようなことができたのでしょうか。それは、主がダビデに力を与えて、勝利を賜ったからです。ダビデは、主に油を注がれた王として、主の戦いを戦い、勝利を収めたのです。
47節から51節までをお読みします。
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。わたしのために報復してくださる神よ/諸国の民をわたしの下においてください。敵からわたしを救い/刃向かう者よりも高く上げ/不法の者から助け出してください。主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。勝利を与えて王を大いなる者とし/油そそがれた人を、ダビデとその子孫を/とこしえまで/慈しみのうちにおかれる。
ここには「主への賛美」が記されています。ダビデは、命の神である主をほめたたえて、この歌を閉じます。ダビデは、主の救いに感謝して、御名をほめたたえるのです。そして、私たちも主の救いに感謝して、御名をほめたたえることができるのです。なぜなら、主がとこしえに慈しみのうちにおかれるダビデの子孫こそ、私たちの主イエス・キリストであるからです。このダビデの歌は、命の神によって、栄光の体で復活させられ、諸々の天よりも高く上げられたイエス・キリストの歌として読むことができます。また、イエス・キリストに依り頼む私たちの歌として読むことができるのです。私たちは、主イエス・キリストにあって、罪と死の支配から救われて、永遠の命に生きる者とされています。それゆえ、私たちは、主に感謝をささげ、御名をほめたたえることができるのです。主イエス・キリストを「わたしの岩」とする私たちは、とこしえに、主の慈しみのうちにおかれているのです。