わたしの霊をゆだねます 2023年4月09日(日曜 夕方の礼拝)
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わたしの霊をゆだねます
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- 村田寿和 牧師
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詩編 31編1節から25節
聖書の言葉
31:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
31:2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
31:3 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
31:4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
31:5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
31:6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。
31:7 わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に、信頼します。
31:8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
31:9 わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。
31:10 主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。
31:11 命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。
31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。
31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。
31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。
31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。
31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。
31:18 主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。
31:19 偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。
31:20 御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたに身を寄せる人に、お与えになります。
31:21 御もとに彼らをかくまって/人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し/争いを挑む舌を免れさせてくださいます。
31:22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。
31:23 恐怖に襲われて、わたしは言いました/「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。
31:24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。
31:25 雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。詩編 31編1節から25節
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朝の礼拝では、受難週、イースターと『ルカによる福音書』から説教しました。『ルカによる福音書』において、十字架につけられたイエス・キリストは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれて、息を引き取られました。この御言葉は、『詩編』の第31編6節からの引用であります。太陽が光を失った暗闇の中で、イエス様が何を考えておられたのか。そのことを知る手掛かりが、第31編にあると言えそうです。そのことを念頭に置きつつ、今夕は、第31編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩」とありますように、第31編は、イスラエルの王ダビデによって記された詩編であります。このとき、ダビデは苦難の中にあったようです。その苦難の中から、イスラエルの神、主の御名を呼ぶのです。
2節から7節までをお読みします。
主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き/隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/主に信頼します。
「主」とは、神様がホレブの山でモーセに示されたヤハウェと発音されたであろう御名前です。主、ヤハウェという御名前は、「わたしはある」という意味であり、そこには、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれています。その主の御もとにダビデは身を寄せ、助けを祈り求めるのです。ここで注意したいことは、「主に助けを祈り求める根拠がダビデの内にあるのではない」ということです。ダビデは、主の恵みの御業(義)を根拠にして、また、「わたしはあなたと共にいる」という主の御名を根拠にして、助けを祈り求めるのです。ダビデは、主を「砦の岩」「城塞」「大岩」「砦」に譬えています。これらはどれも自分の身を守ってくれるものです。ダビデは、主を自分の砦(安全地帯)としているのです。これは、ダビデだけではなく、私たちにおいても言えることです。私たちが身を寄せるべき御方、私たちを守ってくださる御方は、主であられるのです。私たちは主を自分の砦(安全地帯)とする者として、「とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください」。「御名にふさわしく、わたしを守り導き/隠された網に落ちたわたしを引き出してください」と祈ることができるのです。
ダビデは、6節で、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と記します。ここでの霊は、わたしの存在そのものを意味します。ダビデは、空しい偶像ではなく、まことの神、主に信頼する者として、自分の存在そのものを主におゆだねするのです。ダビデは、自分の力ではどうすることもできない苦難の中にある。それゆえ、ダビデは、主に自分の存在そのものをおゆだねして、苦難から解放してくださいと願うのです。
8節と9節をお読みします。
慈しみをいただいて、わたしは喜び踊ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を広い所に立たせてくださいました。
ここには、苦難の中から解放された、ダビデの感謝と喜びが記されています。ここで「慈しみ」と訳されている言葉は、「ヘセド」というヘブライ語です。ヘセドは、「契約に対して誠実な愛」を表します。主は、ダビデに、とこしえの王権を約束してくださいました。ナタンの預言、いわゆるダビデ契約であります(サムエル下7章参照)。その契約に誠実な愛なる御方として、主は、ダビデの祈りに耳を傾け、ダビデを敵の手から解放して、自由の身にしてくださったのです。2節から9節を通して読むと、ダビデが、異邦の民との戦いを背景にして、祈っていることが分かります。「砦の岩」「城塞」などは、戦いにおいて身を守る場所です。7節の「空しい偶像に頼る者」はペリシテ人などの異邦の民のことでしょう。9節の「敵の手に渡すことなく」の敵も、ペリシテ人などの異邦の民のことです。無割礼のペリシテ人に敗北するようなことがあれば、ダビデは恥に落とされることになります。このように読んでくると、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」というダビデの言葉は、戦いを前にしての祈りの言葉であると言えます。少年ダビデが、ペリシテ人の代表戦士であるゴリアトに、「この戦いは主のものだ」と言ったように、ダビデは、主に祈りつつ、敵と戦い、勝利を得たのです。そのようなメシア・ダビデを用いて、主は異邦人の手から御自分の民イスラエルを救い出してくださったのです。
10節から19節までをお読みします。
主よ、憐れんでください。わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく/神に逆らう者をこそ恥に落とし/陰府に落とし、黙らせてください。偽って語る唇を封じてください/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。
ダビデは、再び、主の御名を呼び、助けを祈り求めます。このとき、ダビデは、大きい病を患っていたようです。そして、ダビデ自身の認識によれば、罪を犯したことと関係していたようです。ダビデは、大きな病を患ったことにより、周りの人々から嘲られ、死者のように無視されていたようです。また、陰謀をめぐらして、ダビデの命を奪おうとする敵もいたようであります。そのような苦しみを主に訴えたうえで、ダビデは、「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」と信仰を言い表すのです。そして、主の僕として、「あなたの慈しみによって、わたしをお救いください」と祈り求めるのです。
この説教の始めに、第31編は、イエス様が十字架のうえで思い巡らしていた詩編ではないかと申しました。イエス様も、十字架の上で、周りの人々から嘲られました。議員たち、ローマの兵士たち、一緒に十字架につけられていた犯罪人の一人からも、イエス様は嘲られました。イエス様は、議員たちの陰謀によって、まさに、命を奪われようとしていたのです。しかし、イエス様は、そのような苦しみの中で、主に信頼しておられたのです。17節に、「あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください」と記されています。ダビデは、「主の僕」でありました。そして、ダビデの子孫であるイエス様は、ダビデ以上に「主の僕」であったのです。イエス様は、何一つ罪を犯すことなく、主の御心に完全に従われたからです。そのイエス様が十字架につけられて、心も体も衰え、人々から嘲られたのは、御自分の罪ではなく、多くの人の罪のためでありました(イザヤ53:12参照)。そのことを知らずに、人々は皆、イエス様を嘲ったのです。しかし、イエス様は、父なる神が、十字架の恥と苦しみから救い出してくださると信じていました。なぜなら、父なる神は慈しみ深いお方、契約に誠実な愛の御方であるからです。イエス様は、弟子たちに、御自分の苦難の死と復活について三度予告されました。イエス様は、苦難の死だけではなく、復活についても予告しておられたのです。その背景には、父なる神と御子イエス・キリストとの契約があったと考えられています(贖いの契約)。『ヨハネによる福音書』の第10章17節と18節で、イエス様は、こう言われました。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。イエス様の苦難の死と復活の予告は、この掟に基づくものであったのです。それゆえ、イエス様にとっての救いは、父なる神から再び命を受けること、栄光の体で復活することであったのです。イエス様は、復活の希望をもって、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれ、文字通り、霊をはき出されたのです。そして、父なる神は、契約に誠実な愛の御方として、イエス・キリストを死者の中から三日目に、栄光の体で復活させられたのです。
20節から23節までをお読みします。
御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたに身を寄せる人に、お与えになります。御もとに彼らをかくまって/人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し/争いを挑む舌を免れさせてくださいます。主をたたえよ。主は驚くべき御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。恐怖に襲われて、わたしは言いました。「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。
ダビデは、病を癒され、敵から救われた者として、主の恵みをたたえます。私たちは、祈っても、なかなかそのとおりにならないことを知っています。しかし、主の恵みは蓄えられているのであって、主が定めた相応しい時に、与えられるのです。私たちが、恐怖に襲われて、「御目の前から断たれた」と言うときも、主は私たちの祈りに耳を傾けてくださっているのです。このことをイエス様も信じておられたと思います。暗闇の中で、十字架に磔にされる。それは、まさしく「御目の前から断たれた」状態と言えます。しかし、そのような状態にあっても、父なる神は祈りを聴いてくださる。いや、祈りを聴いてくださったのです。父なる神は、イエス様の祈りを聴いてくださり、死から三日目にイエス様を栄光の体で復活させてくださったのです。
復活されたイエス・キリストは、天に昇り、父なる神の右に座しておられます。そして、永遠の大祭司として、私たちの祈りを父なる神に執り成してくださっているのです。それゆえ、私たちに、ダビデに勝る確信をもって、「嘆き祈るわたしの声を、あなたは聞いてくださいました」と言うことができるのです(一ヨハネ5:14参照)。たとえ、御目から断たれたとしか思えない苦難の中にあっても、主に信頼して、希望をもって祈ることができるのです。
24節と25節をお読みします。
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。
ダビデは、苦難から救われた自分の体験を根拠にして、人々に勧めの言葉を記します。「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ」。これを私たちに当てはめると、「主イエス・キリストにおいて結ばれた新しい契約に生きる人は、主イエス・キリストを愛せよ」となります。私たちにとって、主の慈しみ、契約に対する誠実な愛は、エレミヤが預言し、イエス・キリストが十字架の血潮で結ばれた新しい契約に対する誠実な愛であるのです。主イエスは・キリストは、私たちに御自分の霊を与えてくださり、父なる神を愛する心を与えてくださいました。そのような私たちに、ダビデは、「雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望む人はすべて」と言うのです。ここでの「主」は、私たちにとって、世界と歴史を裁くために来られる栄光の主イエス・キリストを指します。私たちは、「主イエスよ、来てください」と祈ります。それは、主イエス・キリストが来られることによって、私たちがあらゆる罪と悪と苦難から救われることを信じているからです。私たちは、主イエス・キリストを待ち望むことによって、心を強くすることができる。信仰を強くすることができるのです。主イエス・キリストが来られるとき、私たちは、私たちのために蓄えられていた恵みがいかに豊かであったかを知ることになります。父なる神と主イエス・キリストが共におられる新しい天と新しい地において、「御恵みはいかに豊かなことでしょう」とほめ歌うことができるのです。