ダビデ王とバルジライ 2023年2月22日(水曜 聖書と祈りの会)

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ダビデ王とバルジライ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記下 19章32節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:32 ギレアド人バルジライはヨルダン川で王を見送るためにロゲリムから下り、王と共にヨルダン川まで来ていた。
19:33 バルジライは高齢で八十歳になっていた。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中の王の生活を支えていた。
19:34 王はバルジライに言った。「わたしと共に来てくれないか。エルサレムのわたしのもとであなたの面倒を見よう。」
19:35 バルジライは王に答えた。「王のお供をしてエルサレムに上りましても、わたしはあと何年生きられましょう。
19:36 わたしはもう八十歳になります。善悪の区別も知りません。この僕は何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞こえないのです。どうしてこの上主君、王の重荷になれましょう。
19:37 わたしにはお供をしてヨルダン川を渡ることさえほとんどできません。王はそれほどにお報いくださることはございません。
19:38 どうか僕が帰って行くのをお許しください。父や母の墓のあるわたしの町で死にたいのです。ここにあなたの僕キムハムがおります。これに主君、王のお供をさせますから、どうかあなたの目に良いと映るままにお使いください。」
19:39 王は言った。「キムハムにわたしと共に来てもらおう。キムハムには、お前の目に良いと映るとおりにしよう。お前にはお前の選ぶとおりにしよう。」
19:40 兵士全体がヨルダン川を渡り、王も渡った。王はバルジライに口づけして彼を祝福した。バルジライは自分の町に帰って行った。サムエル記下 19章32節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記下』の第19章32節から40節より、「ダビデ王とバルジライ」という題でお話しします。

 ギレアド人バルジライは、ヨルダン川で王を見送るためにロゲリムから下り、王と共にヨルダン川まで来ていました。バルジライは高齢で80歳になっていました。『詩編』の第90編に、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」と記されています(詩90:10)。バルジライはその80年を数えていたのです。彼は大層裕福で、マハナイム滞在中のダビデ王の生活を支えていました。そのことは、第17章27節から29節に記されていました。旧約の509ページです。

 ダビデがマハナイムに着くと、ラバ出身のアンモン人ナハシュの子ショビ、ロ・デバル出身のアミエルの子マキル、ロゲリム出身のギレアド人バルジライとが、寝具、たらい、陶器、小麦、大麦、麦粉、炒り麦、豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを食料としてダビデと彼の率いる兵に差し出した。兵士が荒れ野で飢え、疲れ、渇いているにちがいないと思ったからである。

 バルジライは、ダビデがマハナイムに着いたときだけではなく、マハナイムに滞在している間、ダビデの生活を支えていたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の514ページです。

 ダビデ王はバルジライにこう言いました。「わたしと共に来てくれないか。エルサレムのわたしのもとであなたの面倒を見よう」。ダビデは、マハナイムで自分の生活を支えてくれたバルジライに、「今度は、私がエルサレムで、あなたの生活を支えよう」と言うのです。細かいことを言うようですが、33節の「生活を支える」と34節の「面倒を見よう」は、元の言葉では同じ言葉が用いられています。新改訳2017は、どちらも「養う」と訳しています。バルジライは、マハナイムでダビデ王を養いました。そのバルジライを、ダビデは、エルサレムで養おうと言うのです。

 バルジライは王にこう答えました。「王のお供をしてエルサレムに上りましても、わたしはあと何年生きられましょう。わたしはもう八十歳になります。善悪の区別も知りません。この僕は何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞こえないのです。どうしてこの上主君、王の重荷になれましょう。わたしにはお供をしてヨルダン川を渡ることさえほとんどできません。どうか僕が帰って行くのをお許しください。父や母の墓のあるわたしの町で死にたいのです。ここにあなたの僕キムハムがおります。これに主君、王のお供をさせますから、どうかあなたの目に良いと映るままにお使いください」。このようにバルジライは、自分が高齢であることを理由に、エルサレムに行くことを丁重に断るのです。私がまだ若いとき、20歳代のときに、このバルジライの言葉を印象深く読んだことを覚えています。「歳を重ねるとは、このようなことなのか」と思ったのです。バルジライは、高齢のため味覚や聴覚が衰えていたようです。エルサレムの王宮で、美味しいごちそうを食べても、バルジライは味覚が衰えているので、味わうことができないのです。また、男女の歌い手の美しい歌声も、バルジライは聴覚が衰えているので、聞こえないのです。このような高齢者の体の衰えについては、『コヘレトの言葉』の第12章に記されています。旧約の1047ページです。第12章1節から8節までをお読みします。

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

 その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白金の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。

 ここには、年を重ねることによって衰え、死んでいく人間の姿が記されています。3節に、「家を守る男も震え、力ある男も身を屈める」とあります。これは「年を重ねると、手が震え、腰が曲がる」ことを意味しています。また、「粉ひく女の数は減って行き、失われ」とありますが、これは「歯が抜けて、その数が減る」ことを意味しています。「窓から眺める女の目はかすむ」は、視力の低下のことを言っているのでしょう。4節の「粉ひく音はやむ」は「耳が聞こえにくくなる」ことを意味します。「鳥の声に起き上がっても」は年を重ねると早起きになることを、「歌の節は低くなる」は、声が出にくくなることを意味します。5節の「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある」は、高齢者にとって高い所は危険であること、高齢者はつまづきやすいことを意味しているのでしょう。「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」は、人が死を迎えて、その葬儀が行われることを意味しています。7節にあるように、塵からできた人の体は大地に帰り、人の霊は与え主である神に帰るのです。そのようにして、人は、束の間の人生はを終えることになるのです。バルジライは、その人生の終わりを迎えつつある高齢者であったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の514ページです。

 高齢であるバルジライの願い、それは「ダビデ王の重荷になることなく、父や母の墓のあるわたしの町で死にたい」という願いでした。それで、バルジライは自分の代わりに、キルハムをダビデにお供させるのです。このキルハムは、おそらくバルジライの息子であると考えられています。バルジライは、自分の代わりに、息子キルハムを王のお供にすることによって、ダビデの好意を受け入れるのです。バルジライは、「あなたの僕キムハムを、どうかあなたの目に良いと映るままにお使いください」と言います。

 ダビデ王はこう言いました。「キムハムにわたしと共に来てもらおう。キムハムには、お前の目に良いと映るとおりにしよう。お前にはお前の選ぶとおりにしよう」。バルジライが、「キムハムをダビデ王の目に良いと映るようにお使いください」と言ったのに対して、ダビデ王は、「キムハムをバルジライの目に良いと映るとおりにしよう」と言うのです。この言葉から、私たちは、ダビデがバルジライに、どれほど感謝していたかを知ることができます。ダビデがバルジライに感謝していたことは、『列王記上』の第2章の御言葉からも分かります。旧約の528ページです。

 自分の死ぬ時が近いことを悟ったダビデは、王子ソロモンにこう言いました。第2章7節です。

 ただし、ギレアド人バルジライの息子たちには慈しみ深くし、あなたの食卓に連なる者とせよ。彼らは、わたしがあなたの兄アブサロムを避けて逃げたとき、助けてくれたからである。

 このように、ダビデは、マハナイムでバルジライから受けた恩を忘れることはなかったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の514ページです。

 兵士全体がヨルダン川を渡り、ダビデ王も渡りました。そのヨルダン川を渡る前のことでしょう。ダビデ王はバルジライに口づけして彼を祝福しました。ダビデは、主によって立てられた王、メシアとして、バルジライを祝福したのです。バルジライは、主が立てられた王、メシアであるダビデの生活を支えることによって、主に仕えました。そして、ダビデ王を通して、主の祝福を受けたのです。バルジライが80歳まで生かされたのは、もしかしたら、このためであったかも知れません。バルジライはダビデ王から祝福を受けて、父や母の墓のある自分の町に帰って行ったのです。

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