ダビデとイタイ 2022年10月05日(水曜 聖書と祈りの会)

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ダビデとイタイ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記下 15章17節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:17 王が出発し、人々は皆、その後に従った。一行は、まず離宮のところで歩みを止めた。
15:18 家臣がまず王の傍らを通り、次いでクレタ人全員とペレティ人全員、それに続いてガトからダビデに従って来た六百人のガト人が王の前を通った。
15:19 王はガト人イタイに言った。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。
15:20 昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」
15:21 イタイは王に答えて言った。「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです。」
15:22 ダビデは、「よろしい、通って行きなさい」と言い、ガト人イタイは大人も子供も、共にいた者全員を率いて通った。
15:23 その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ。サムエル記下 15章17節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『サムエル記下』の第15章17節から23節より、「ダビデとイタイ」という題でお話しします。

 アブサロムがヘブロンで王となり、イスラエル人の心がアブサロムに移っていると聞いたダビデは、「直ちに逃れよう」と言いました。そして、王が出発し、家臣たちは皆、その後に従いました。一行は、エルサレムの外れにある離宮のところで歩みを止めました。そこでダビデは、自分に従ってきた者たちがどのような者たちであるかを確認するのです。家臣がまず王の傍らを通りました。次いでクレタ人全員とペレティ人全員が王の傍らを通りました。クレタ人とペレティ人は、ペリシテ人の傭兵部隊です(8:18参照)。ダビデは、ペリシテ人の戦力を自分の支配に取り込んでいたのです。次いでガトからダビデに従って来た600人のガト人が王の前を通りました。『サムエル記上』の第27章に、サウル王の手から逃れるために、ダビデがペリシテ人の町ガトに寄留したことが記されています。そのとき、ダビデは600人を引き連れていました。その600人に由来するガト人の部隊がダビデに従っていたのです。そのガト人の中に、イタイという人がおりました。王はガト人イタイにこう言います。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように」。ダビデが、イタイに「戻ってあの王のもとにとどまりなさい」と言うとき、「あの王」とはヘブロンで王となった息子アブサロムのことです。ダビデは、来たばかりの亡命者であるイタイに、自分に従って再び放浪者になる必要はない。王であるアブサロムのもとに留まりなさいと言うのです。しかし、イタイは、王に答えてこう言いました。「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです」。ガト人イタイが、「主は生きておられる」と言うとき、その「主」とはイスラエルの神、「ヤハウェ」のことです。ガト人イタイは、イスラエルの神、ヤハウェを信じる者であったのです。そのヤハウェと、主君であるダビデの命に誓って、イタイはこう言うのです。「生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです」。ダビデは、息子アブサロムのことを王と呼びましたが、イスラエルの神ヤハウェを信じるイタイにとって、王はダビデであるのです。イスラエルの王は、自分の意志でなれるものではありません。「わたしが王になる」と言ってなれる者ではないのです(列王上1:5参照)。イスラエルの神ヤハウェの意志によって、王は立てられるのです。そして、イスラエルの神ヤハウェが油を注いで、王として立てられたのは、ダビデであるのです。イタイは、アブサロムとダビデのどちらが優勢かを見極めて、ダビデに従ったのではありません。イタイは、アブサロムではなくダビデが、イスラエルの神ヤハウェによって立てられた王であると信じるがゆえに、「生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです」と言うことができたのです。このイタイの言葉は、『ローマの信徒への手紙』第14章の御言葉を思い起こさせます。そのところを開いて、お読みします。新約の294ページ。第14章7節から9節までをお読みします。

 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 イタイがダビデ王に従ったように、私たちも主イエス・キリストに従う者たちであります。主イエス・キリストは、私たちを救うために、十字架の死を死んでくださり、三日目に栄光の体で復活してくださいました。それゆえ、私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。それは、私たちが生きるにしても、死ぬにしても、主のものであるからです。『ハイデルベルク信仰問答』は第1問で、「わたしの唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、わたしの体も魂も、わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストの所有(もの)であるということです」と告白しています(春名純人訳)。そのような力強い慰めが、私たちが生きるにも死ぬにも主にお仕えする根拠であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の504ページです。

 「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでにあるところが僕のいるべきところです」。この忠義に厚い言葉を聞いて、ダビデはうれしかったと思います。ダビデは、「よろしい、通って行きなさい」と言いました。そして、ガト人イタイは大人も子供も、共にいた者全員を率いて通って行ったのです。

 23節に、「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った」とあります。「その地全体」とは「その土地のすべての人」のことです。ダビデとその兵士たちが、エルサレムを出て行くのを、その土地のすべての人が泣き悲しんだのです。彼らもダビデ王を慕っていたのです。

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