すべての造られたものに 2022年9月07日(水曜 聖書と祈りの会)
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 16章9節~20節
聖書の言葉
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕
マルコによる福音書 16章9節~20節
メッセージ
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今朝は、『マルコによる福音書』の第16章9節から20節より、「すべての造られたものに」という題でお話しします。このところは全体が亀甲の括弧でくくられています。新共同訳聖書の凡例を見ますと、亀甲の括弧は「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的には古く重要である個所を示す」と記されています。『マルコによる福音書』は第16章8節で終わっているのですが、後代に9節から20節を加筆した人がいたのです。誰が加筆したのかは分かりませんが、その人の気持ちは分からなくもありません。第16章8節にはこう記されています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである」。『マルコによる福音書』は「恐ろしかったからである」という言葉で閉じられているのです。福音書が「恐ろしかったからである」という言葉で終わっているのはふさわしくないと考えた人がいたのです。また、『マルコによる福音書』には、復活されたイエス様と弟子たちとの再会の約束が記されていますが、その実現は記されていません。途中で終わってしまっている印象を受けるのです。それで、『マルコによる福音書』を写していた人の誰かが、すでに記されている他の福音書や使徒言行録の記述を要約する形で、結びを付け加えたと考えられているのです。その「結び」を、今朝はご一緒に学びたいと思います。
9節から11節には、週の初めの日に、復活されたイエス様がマグダラのマリアに現れたことが記されています。マリアは、イエス様と一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、そのことを知らせました。しかし彼らは、イエス様が生きておられること、そしてマリアがそのイエス様を見たことを信じなかったのです。
12節、13節には、その後、復活されたイエス様が田舎の方へ歩いていく二人の弟子に、別の姿で御自身を現されたことが記されています。ここに記されているのは『ルカによる福音書』の第24章に記されているエマオ途上の出来事であります。晩餐の時に、イエス様がパンを裂くと、その人がイエス様であることが分かった、あの出来事です。この二人も行って残りの人たちに知らせましたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。
弟子たちはマリアの言葉も、二人の弟子たちの言葉も信じないのですが、このように記すことによって、弟子たちの不信仰が強調されています。なぜなら、ユダヤの社会において、二人または三人の証言は真実であると見なされていたからです。弟子たちは、マリアの言葉を信じることなく、さらには二人の弟子たちの言葉も信じませんでした。それほど彼らにとって、イエス様が復活されたことは信じがたいことであったのです。
14節から18節には、復活されたイエス様が食事をしている十一人に現れてくださったことが記されています。弟子たちに現れたイエス様は、彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。聖書はその理由を「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と記しております。イエス様の願い、それは弟子たちが復活されたイエス様を見たマリアと二人の弟子の言葉によって信じることであったのです。しかし、弟子たちはそれを信じなかった。彼らは信仰を失って、心をかたくなにしていたのです。10節に、「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って」と記されていました。弟子たちは愛するイエス様を亡くして深い悲しみの中にあったのです。深い悲しみの中で、信仰を失い、心をかたくなにしていたのです。しかし、イエス様はその弟子たちに現れてくださり、彼らを信じる者、心のやわらかな者としてくださるのです。それから、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。
イエス様は弟子たちの不信仰とかたくなな心を責められた後で、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。このことについてある人は次のように解説しています。「信仰なき弟子たちは、イエスの命令に服従することによって信じる者になるのである」。弟子たちは、復活のイエス様が命じられることに従うことによって信じる者になるのです。ここでイエス様は「すべての造られたもの」と言われています。「すべての人」とは言わずに「すべての造られたもの」と言われたのです。これは創造主である神の御子としてのイエス様の御言葉であります。すべての人は、神によって、またイエス・キリストによって造られたものであるのです(コロサイ1:16参照)。その造られたものが最初の人アダムの罪によって堕落してしまい、神様との親しい交わりを失ってしまっているのです。福音とは、イエス・キリストを信じるならば、神様との親しい交わりに生きることができるという良き知らせであります。ですから、福音を信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受けるのです。滅びの宣告を受けるとは、今既に滅びの状態にあるということです。しかし、信じて洗礼を受ける者は救われるのです。
17節と18節には信じる者に伴うしるしが記されています。これらは『使徒言行録』に記されているものであり、初代教会において見られた霊の賜物であります。これらの霊の賜物は新約聖書が完結するまでのもので、現在は止んでいます(ウェストミンスター信仰告白1章1節参照)。しかしわたしは、「新しい言葉を語る」というしるしは今も与えられているのではないかと思います。ここで「言葉」と訳されているのは「舌」という言葉です。そうすると、このことがペンテコステの日に実現したことが分かります。なぜなら、そこには聖霊が炎のような舌のかたちで弟子たち一人一人のうえにとどまったからです。「新しい言葉」とは「聖霊によって与えられる言葉」であります。そして、それは今も私たちにしるしとして与えられているものなのです。私たちにも聖霊によって、「イエスは主である」という言葉が与えられ、私たちにもイエス・キリストの福音を語る言葉が与えられているのです。
19節と20節には、イエス様が天に上げられ、神の右の座に着かれたことが記されています。このことは、イエス様が神様と共に天と地を支配する者となったことを教えています。弟子たちは、イエス様から命じられたとおり、出かけて行って、至るところで宣教するのですが、不思議なことに、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と記されています。天に上げられ、神の右の座に着かれたイエス様が、どのようにして彼らと共に働くことができるのでしょうか?それは御自分の霊、聖霊においてということであります。主イエスは今も、私たちと共に働いておられます。イエス様御自身が、弟子である私たちを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広めておられるのです。